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2月, 2025の投稿を表示しています

「少欲知足」のすすめ

 さて、仏典が多すぎることから仏教の中でも様々な宗派が生まれて統制が取れないのが現在の仏教の現状かもしれませんが、ブッダの教えの基本はやはり原始仏典(阿含経典)だと思うんですね。もともと僕は親鸞に救われたので自分は「浄土真宗系」だと勝手に思っているのですが。それにもかかわらず、何でここであえて「原始仏典」(阿含経典)を押すのかというと、またここでお金の話に戻らなければならないからです。 現代社会は、というよりはるか紀元前の昔から、人間は自ら生み出した「お金」に夢中になって、中毒になって、支配され、その結果どんどん不幸になっていった。そんなわたしたちを見るに見かねた神が、仏が、本当に進むべき幸福への道を示してくださった。だからそのころ、本格的な宗教が世界各地で同時的に起こったのではないか、と推測してみたのですが、その「お金」に対して主導権を人間の側に取り戻すための教え、すなわち最強の武器の一つが仏教の説く 「少欲知足」(欲は少なく足るを知る) だからです。ここで最強の教えのひとつと言ったからには、まだ他にもあるのかとお思いかもしれませんが、はい、あります。それはイスラム教のコーランが説く 「利子を取ってはならない」 です。それについてはまた別の機会に考えたいと思いますが、現代の資本主義社会においては、お金が人間を支配していますね。人間はお金中毒にさせられていますから、人間の心まで、人間の魂までもがお金に支配されています。その「お金」の目的はなにか。 「増えること」 です。 「増殖すること」 です。そうです、カネって野郎は増えたいのです。どうしても増えたくて増えたくてしょうがないのです。その時、人間が幸せになろうが不幸になろうが、そんなことは関係ない。ただ、お金クンは増えたいのです。ここで僕は「お金クン」とかいってお金を擬人化していますが、これは擬人化とかいう生易しいものではなく、実際にお金は生きていて、意思を持っている。お金は生命を持ってしまっていると考えています。その「お金」ってやつに生命を吹き込んでしまったのは人間なんですけど。人間の「欲望」が「お金」に投影されて、ついには「生命」となって自ら意思をも持つようになってしまった。そして自由自在に人間を操っている。そしてその目指すところは 「自ら増えること」 考えても見てください。生命って何ですか。生命の基本的...

共鳴と深化のプロセス

 仏教の聖典は数が多すぎて困ってしまいましたが、今思えばそれらはすべて仏の慈悲の表れだったんだなあと思います。そしてそれらはすべて有機的に結合しており、どれが上でどれが下だとか、どれを取ってどれを捨てるなどというのは仏の慈悲をないがしろにするものではないかと思うわけです。 イメージとしては仏典全体で一つの体全体をなしており、経典の一つ一つは体の部位のような感じでしょうか。または、「すべての人を救う」という究極の問題に対する仏の答えのプロセスという感じでしょうか。 たとえば法華経ですが、「すべての人は仏になる」という答えがいきなり示されているが、そのためにはどうしたらいいかよくわからん、というのがそのまま法華経を読んだ場合の素直な印象ではないですか。それは究極の問題に対する究極の答えであって、そこに至るまでの解答のプロセスが原始仏典から法華経に至るまで続いているのだと思います。まずは歴史上のブッダが法を説き、その後も慈悲の導きによって法は説かれ続け、共鳴と深化のプロセスを経て新たな仏典があらわれる。だから法華経にも 「この経典を広めるにあたって、ほかの経典の悪口を言ったりして広めてはならない」 と戒められているのです。難しい問題を解くのに、答えしかなかったらそこへ至るプロセスがわからなくなり、結局答えも理解できないではないですか。 そして、その共鳴と深化のプロセスは法華経が説かれた後も続き、さらに新たな仏典があらわれた。だから法華経後に成立した仏典もあるわけです。 そして、その共鳴と深化のプロセスは、永遠に続く。 さらには宗教の垣根を越えて、宗教間でも共鳴と深化のプロセスは続く。 ところで、いくらすべての仏典が有機的に結合して全体として一つをなしており、それぞれの優劣や取捨選択を論じるべきではないとはいっても、現実の問題としてよほど専門の僧侶でもないかぎり、仏典全部を読んで理解するのは不可能ですね。これでは多くの人を救うことはできない。そこで聖人たちは考えたのでしょう。ある経典に絞って教えを広めるしかないと。そこからさまざまな仏教の宗派が出てきたのでしょうか。または、こんなに仏典が多すぎるのは教えが言葉では説ききれないからだ、ということで座禅によって悟りを得るという宗派もあらわれたのかな。どちらにしろ、聖人たちは慈悲のお導きによって、どうやったら愚かなわたした...

大乗仏典は偽経か?

 大乗仏典はブッダの死後成立したので、偽経なのでしょうか。 確かに、歴史的実在としてのブッダが説いたのではないのでしょう。 では、誰が説いたのかというと、恒例の 「愛と慈悲の導くままに」 説いたのです。誰かが。 おっと、愛は神でした。そして仏は慈悲。だから仏教では 「慈悲の導くままに」 でした。 大乗仏典は「慈悲の導くままに」ブッダの死後説かれたのですが、ブッダとは慈悲なので、ブッダが説いたことになるのです。 原始仏典では悟りへの道が示されており、そのためには出家し、修行しなければならない。そうしてようやく悟りを得て、仏となる。 ところが、それで終わりかというと、そうはならない。 仏となってしまったら、出家もできず、修行もできず、だから仏にもなれない人々を見て何もしない、ということはあり得ない。どうしても、救われない人々を救うためにこの世に戻ってきてしまうのです。仏になれない人を仏にするべく法を説かざるを得ない。 大乗仏典では、仏になる範囲が出家者から在家にまでどんどん広がって、ついには 「すべての人がほとけになる」 とまで説かれるようになりますね。仏が慈悲なら 「そう説かねばならなかった」 慈悲の導くままに進めば、そう説かねばならなかった、そう説かざるを得なかったのです。 僕は前にも 「祈れば必ず神は、仏は聞いてくださり、さらに進むべき道を教えてくださる」 と書いたと思います。原始仏典によって悟りを得た人たちも、仏に祈ったのですよ。 「まだ悟りを得ないすべての人たちをお救い下さい」 って。そして、祈れば仏は必ず答えてくださる。そして進むべき道を教えてくださったのです。 一旦新たに教えが下れば、それまでの教えと 「共鳴しあう」 そして 「深め合う」 そしてさらに新たな教えが生まれる。このサイクルは僕が前に「真の宗教どうしが出会ったらどうなるか」で書いたパターンと同じですね。ブッダの死後、悟りを得た者が「慈悲の導くままに」説いた教えが、まわりの出家者や信者たちの信仰心と「共鳴しあった」とき、あらたな「仏典」として成立したのでしょう。そして救いの輪が広がる。そして、それまでの教えと「共鳴し、深め合う」ことで、次の新たな「仏典」が慈悲の導くままに説かれた。こうしてどんどん救いの輪が広がって、すべての人にまで救いの輪が広がる。 「すべての人が仏となる」 ところまで行...

仏典多すぎじゃん!

 さて、僕と宗教との「馴れ初め」を話そうと思います。そのうちまたあらぬ方向に脱線するでしょうが、その時はその時。もういいや。 僕は日本生まれなので宗教的土壌としては仏教が一番身近ですね。ということでまずは仏教から入ったわけです。まあ自然な成り行きですね。中高はイエズス会の学校だったんですけど。神父さんとか先生していましたね。「聖書研究会」とか毎週金曜日にあったようですが一度も参加したことがない。今思えば何しにその学校に行っていたのかって感じですね。「後悔先に立たず」です。宝が目の前にあったのに全然見えてなかった。霊の目が開かれないと本当の宝は見えないものです。 受験でいい大学に入るのが賢いのではないですね。目の前に光があるのに見えなてないなら、ただのアホです。恥ずかしい限りです。 ということで、とにかく仏教から入ったわけです。ご縁があったはずのキリスト教ではなく。でも、そもそもなぜ宗教に魂が惹かれたのかというと、それは人によってそれぞれだと思います。僕の場合もちょっと特殊、個人的過ぎて普遍化できない、というか皆様の参考にならないと思うので、ここでは省略しますが、そのうち書きたいですね。 で、仏教ですけど、そもそもどんな教えか分からなければ判断のしようもありませんよね。ということで仏典を読もうと。キリスト教なら聖書、イスラム教ならコーラン、じゃあ仏教なら・・・ 「仏典多すぎじゃん!」 ドン引きです。仏典多すぎます。いきなり大ピンチに。早速挫折か・・・とにかく現代語訳が出てるものだけでも読んでみるか。 ということで、読み始めたのですが、どこから入ったっけな。大乗仏典から始めて、原始仏典(阿含経典)に戻ったのか、原始仏典から始めてそのまま大乗仏典に行ったのか、それとも先に親鸞に救われてから仏典に入ったのか、どっちだったっけ? 人に宗教の「馴れ初め」を説明しようとしていたくせに、その肝心の「馴れ初め」を忘れてしまいました。 まあ、今となってはどっちでもいいのです。 「仏は慈悲」 ということを知った今では。 ほとけは必ずわたしたちを救って下さるのですよ。 一人残らず、どんな悪人も、信じない人も全員。 それを知ってしまった今では 「他に何を知る必要がある」 と思うのですが、それを言ったら話が終わってしまうので先に進めます。 ところで、仏典ですけど、仏典って何? ブッダが...

神はすべての民族に一人ずつ預言者を遣わした

 このままお金の話を続けると政治・経済の話ばかりになってしまい、祈りのブログでなくなってしまいそうなので、そろそろ本題の宗教の話に戻りたいと思います。でも祈りだけでは人類は幸せになれませんよね。どうしても現実に関わらなければならない。そして現実とはなによりお金ですよね。 なんて現金な! これについては、また後で必ず戻ってこようと思います。主権をお金から人間の手に取り戻すために。 ところで今、祈るだけでは幸せになれないと言いましたが、僕は本当はそうは思ってない。早速前言撤回ですが、 「人は祈るだけで幸せになれる」 実はこれが僕の本音です。なぜかというと、祈れば、神は、すなわち仏は、必ず聞いてくださるからです。そして、どうすればいいか教えてくれ、導いてくださいます。祈れば必ず答えてくれるのです。そしてあとは、恒例の 愛と慈悲の導くままに 進めばよいのです。 で、前回神は、ほとけは、わたしたちを憐れんで真の宗教を世界各地に降ろしてくださったのではないかと言いましたが、これがまたこのサイトで言いたかったことのひとつです。世界にはいろんな宗教がありますが、それぞれ、自分の宗教だけが正しくて、他は全部間違っていると主張しますよね。このどうしようもない不寛容性を乗り越えたい。それぞれは愛や慈悲を説きながら、この不寛容さはいったいどうしたものか。おそらく人間の理性というものに不寛容さが内在しているのでしょうか。自己を絶対とすれば、他者は必然的に認められなくなるのが道理ですよね。これを祈りで乗り越えたい。だから 愛と慈悲の祈り なのですが。それで真の宗教はどこにあるのか、ですが、ある地域にだけ、ある時期にだけ、ある民族にだけ、神が、すなわち仏が、正しい教えを降ろしてくださったとは、僕にはとうてい信じられないのです。それは、僕が神を、すなわち仏を、本当に信じているからです。愛を、すなわち慈悲を、本当に信じているからです。神が愛であり、ほとけが慈悲であることをそのまま、額面通りに、受け取っているからです。 神がわたしたちを本当に愛してくださっているとすれば、ある集団にだけ、ある民族にだけ、ある時期にだけ、光の教えを垂れ、その他のすべての人々、そのほかのすべての集団、そのほかのすべての民族には、何世代にもわたって、何十世代にもわたって、何もせずに暗闇の中に放置し、迷いながら不幸に打...

真の宗教の誕生

 では、人類はいつからお金の虜になりはじめたのかというと、ここにソクラテスの言葉があります。 「君たちは自分のお金を増やすことばかり考えていて恥ずかしくないのか」 すでに紀元前5世紀にギリシャの哲学者にあきれられていました。僕はこれとほぼ同じ内容の言葉を仏典でも見たことがあります。つまり、このころにはすでに世界各地で人間はお金中毒になっていたということですね。近代の資本主義など待たずとも。そして、この時期は世界で高度な哲学、宗教が現れた時期とほぼ一致しているのです。ヨーロッパではギリシャ哲学、インドでは仏教やジャイナ教、中国では諸子百家等。そしてユダヤ教、キリスト教徒、イスラム教徒続く。(ただし、ユダヤ教の成立が人類がお金中毒になったのが契機かというと、ちょっと違うかもしれませんが。) 人類が自分が作り出したお金に夢中になり、お金の虜になり、お金を崇拝し、お金中毒になり、お金廃人になって不幸になっていくのを見ていられなくなって、憐れみ深い神は、仏は、 本当の幸せはこっちですよ といって、この世に真の宗教というものを、世界各地に降ろしてくださったのではないでしょうか。

「カネの、カネによる、カネのための政府」

  人類がいつからお金に支配されるようになったのか まずは近代の資本主義を思い浮かべるかもしれません。 資本主義とはいいますが、資本って何ですか。 お金ですよね。 つまり「お金主義」ではないですか。 よく社会主義との対立イデオロギーで資本主義とか言われますが、お金と社会とどっちが大切ですか。 社会に決まってるじゃないですか! それなのに、どこかの国の指導者は悪の代名詞のように「社会主義」という言葉を使っていませんか。いわく、「・・・は社会主義だ。(だからダメだ)」 そりゃー自分が大金持ちだから、つまりお金の申し子だから、そういいますよね。その取り巻きの面々もスーパー大金持ち(自己資産数十兆円!完全に意味不明)なんだから、もう止まりませんよね。 「人民の、人民による、人民のための政府」(リンカーン)のはずが 「カネの、カネによる、カネのための政府」(某指導者) になってしまいました。 本当にこれでいいんですか。 (なお、「人民の」の部分は、「人民を」と訳すべきかもしれませんが、日本語的にはこっちの方が分かりやすいのでこのままにしておきます) なので、僕は資本主義より社会主義のほうが100倍マシだと思っているのですが、じゃあマルクス主義者かというとそういうわけにはいかない。なぜなら、マルクスは宗教を否定しているからです。いわく 「宗教は大衆のアヘン」 祈りのブログを書く者として、これは認めるわけにはいきません。 でも、だからといって、資本主義、すなわち「お金主義」が正しいとは全然思わないのです。 そして、お金が人の心を支配するようになったのは、つまり、人がお金の虜となってお金中毒、そしてお金廃人への道を歩むようになったのは、実はもっと古い。近代の資本主義の勃興よりももっともっと古いのです。 ではいつ頃かというと、それは次回考えたいと思います 愛と慈悲の導くままに

人類だってお金廃人じゃないか

 前々回でとうとう自分がネトゲ廃人であることがバレてしまいました。たしかに僕はオンラインゲーム中毒患者(今は一時的に正気に戻っている)ですけど、人類だって中毒になっているじゃありませんか。 「お金中毒」 つまり 「お金廃人」 実はこれについて書くのがこのサイトの狙いの一つなのですが、意外と早くその時が来てしまいました。 人類は地球で一番高等な知性を持った生物であると自ら自惚れてますが、それならなぜみんな幸福にならない?どうして多くの不幸が未だに、いつまでも存在するのか。 不思議でしょうがありません。 そう思いません? おかしくないですか。 高度な知性、言語、科学技術を持っていたら、とっくにみんな幸せになってこの世がパラダイスになってもおかしくないのに。 天国が全然近づかないじゃん! 学問や科学技術が加速度的に発達を遂げているなら、それに比例して人類の幸福も加速度的に増大すればいいのに、全然そうならない。 本当はそれらを正しく利用すれば可能だと思うんですね。人類が飢えから解放されて幸福に暮らすことくらい。だから、もどかしい。やろうと思えばできるはずなのに、できない、というかやらないから非常にもどかしいのです。だから書かずにはいられない。 どこで間違ったんだろう 何かが幸せの邪魔をしている その原因の一つが「お金」なのではないか。 と僕は思うわけです。 お金自体は人類が発明した便利なものですね。人々の経済活動の範囲が拡大して様々な物資を交易するようになると、物々交換ではやりにくいですからお金というものを発明してそれに交換価値を与えてやりとりするようになったわけです。だからお金自体は「手段」であって、それ自体善でも悪でもない。ところがお金はいろんなものと交換できるわけですから、富の象徴、所有の象徴となってそれ自体がとても魅力的なものに私たちの目に映るようになる。そうしてお金は「目的」となる。自分が作り出した道具である、手段である「お金」に自分が支配されるようになる。 人が幸福のためにお金を使うなら、すなわちお金が手段のままでとどまり、人がお金を支配するなら、人がお金の支配権を握っている限りは望みはある ところがお金が目的となり、お金が人を支配するようになった時、幸福の阻害が起こるのではないか だからもう一度支配権を人類のもとに取り戻したいのです。お金が人を支配する...

せめてSNSくらいキラキラさせてあげて

 前回はまたもや自分の無様な姿を晒してしまい、後悔しています。なんか書けば書くほどボロが出るような・・・。宗教のブログだからといって聖人ぶったとしても、どうせ化けの皮は剝がれるでしょ。だいたい神には、仏には、全部バレてますから意味ないし。まあ、ありにままでいくしかないか。 ところで、みんなSNS上やブログではキラキラしてますよね。それを見て自分だけ劣等感に苛まれる人もいるかもしれませんが、意外とそんな必要はないのでは、と最近思います。 僕の友人にもSNS上ではキラキラしている人がいたのですが、久しぶりに同窓会で会ってみると、ボソッと悩みを打ち明けるんですね。それが結構深刻で、 「えっ、そーなん?そりゃー書けんは」(ここでもね) ってなるのです。SNSではキラキラしていても、実は深い悩みを抱えていたりする。仕事とか家庭とかいろいろありますよね。それでも投稿し続けていると、とうとう隠し切れなくなって、事後報告って感じでカミングアウトしたりするのをよく見ませんか?アメブロとかで。 「じゃあ、あの時のキラキラは何だったのよ!」 ってなりますよね。 というより 「あなたもいろいろあったのね」 人には必ず光と闇がある そして闇があるからこそ、せめてSNS上ではキラキラしていたいと思うのです。 それでいいじゃないですか。 で、闇があるから宗教があるのです。 そのために神は、すなわち仏は、いつでもスタンバっているのです。 呼べば必ず来ます 本当は呼ばれなくても来なきゃいけないんですけど・・・

ネトゲ廃人のたわごと

 悪の話をしていたら中毒の話になったので、自分の話をする時が来てしまったようです。 麻薬にしろギャンブルにしろ、女遊びにしろホスト狂いにしろ、煙草(ニコチン)にしろアルコールにしろ、一度中毒になったらやめられませんよね。その気持ちよーくわかります。僕もそういう中毒者の一人だからです。何の中毒かというと オンラインゲーム中毒 ゲーム自体、犯罪組織に利益を供与しているわけではないので悪とは思いませんが、中毒になると人生を棒に振ります。そりゃー面白かったですよ。日本海軍の駆逐艦島風とか陽炎とか吹雪を操って自慢の酸素魚雷で敵の戦艦、空母プレーヤーを片っ端から撃沈、留飲を下げ、悦に入るのは。でもさすがにちょっとやりすぎたみたい。気が付いたらネトゲ廃人に成り下がってた。で、妻子にも愛想をつかされました。 罰が当たったな。 これまで退転していた罰が当たったのです。天罰ですね。ということで、ムラムラとまた祈りのブログを書きたくなったのですが、その前にやることがありました。妻子に詫びを入れること。 はい、ひたすら妻に謝り続け、機嫌を取り続けて2か月以上。やっと何とか修復できたのですが、こういうことってこれまでに何回もあったのです。そのたびに一旦はやめるのですが、ほとぼりが冷めるとまた「ちょっとくらいいいか」となり、元の木阿弥に。完全に中毒のパターンですね。しかし、今回は一番やばかったので、きっぱりやめたいと思います。が、いつまで持つことやら。見ものですね。 でも、神には感謝しています。ちょっと甘え過ぎていたと思います。神に、すなわち仏に。 そういう時ってちゃーんと罰を当ててくださる。 ありがたいことです。 でも、まさかこんなところに落とし穴があったとは! だから、いろいろやめられない中毒患者のみなさんの気持ち、よーく分かるんです。ほんと、一旦中毒になったらやめるのは至難の業です。 だから、ドラッグ、煙草、そしてできればアルコールにも手を出さない方がいいです。悪には手を出さない方がいいです。本当にやめられない、とまらない。ネトゲ廃人のたわごとですけど

なぜ悪はなくならないのか

 悪は滅びる運命のはずなのに、いまだに犯罪組織がはびこっているのはなぜか。 それはわたしたちと「共犯関係」にある場合があるからです。 犯罪組織の資金源となっていのは、麻薬、違法賭博、売春などですが、わたしたち市民の側にそれらを利用しようという需要が残念ながら存在しています。麻薬を使用したり、違法賭博をしたり、売春(買春)をすれば、客の方も罰せられます。供給側は犯罪組織で需要側は市民となって共犯関係が成立しています。こうなると根絶するのが難しい。 麻薬や賭博や売春が非合法になっているのはそれが結局は利用する側の市民に損害を与えるからです。たとえば麻薬。薬物を摂取することで一時的に快楽を得られますが、その効果が切れると得られた効果よりも大きな苦しみが訪れます。禁断症状です。そしてその苦しみを避けるために今度はさらに多くの薬物を摂取します。そうするとその効果が切れた後にはさらに多くの苦しみが・・・。こうなって薬物中毒となり最後には廃人に至るのです。 安易に目先の一時的な利益を追求して後に大きな損害を被る このパターンがまたしても出てきました。悪の常套手段です。まずはエサを与えて後からそれ以上の苦しみを与える。悪は割に合わないのです。借金に似てますね。最初にお金を与えてくれるので、有難いようですが後で増やして返さなければならない。結局トータルで損です。こう見ると借金も悪だな。実際利息を禁じている宗教もありますし。 賭博も働かずに手っ取り早く金を手に入れる手段のように思われますが、胴元が必ず儲かるように出来ています。客は結局損するのです。こうみると、競馬や競輪といった合法賭博も悪だな。宝くじも悪でしょ。 売春は売る側は手っ取り早く金を手に入れ、買う側は手っ取り早く快楽を手に入れる手段でしょうが、性モラルが崩壊して、健全な夫婦生活が送れなくなってします。ロマンチックな恋や結婚ができなくなり、人生が色あせてしまいます。性病の危険もあります。こうみると風俗やキャバクラやポルノも悪ですけど。 私たち人間はどうしても弱いので、目先の誘惑に勝てません。そこに悪は付け込んできます。そして結局痛い目を見るのはわたしたち。 薬物中毒のところで見たように、禁断症状を起こしたり、健康を害するものなら、たばこや酒も悪ですね。実際、酒を禁じている宗教もありますし。 しかし、これも悪だなといった...

悪を罰するのに神が一旦上に持ち上げる道理

 神は悪を罰するのになぜ一旦上に持ち上げるのか。 そしてなぜ悪は必ず破滅するのか。 当然の道理がそこには存在するので、追ってみようと思います。 まず最初に他者に損害を与えて利益を強奪するのに成功したとしましょう。 味を占めます。 またやりますね。 また上手くいきます。ますます味を占めます。 またやりますね。今度はもっと大きくやります。 上手くいきました。笑いが止まりません。またまた味を占めます。真面目に働いている奴が馬鹿に見えます。もうやめられません。 悪は一旦味を占めるとクセになります。中毒性があるのです。 今度は仲間を募って一層大々的にやります。 また上手くいきます。もう最高です。世の中はみんなアホで自分だけは賢いと思っています。 この頃になると被害者が増えていきます。社会でも問題になってきます。 「今度は自分がやられる。」 警戒感が高まっていきます。 「これを野放しにしておくわけにはいかない。」 いよいよ社会も本腰です。警察も出動です。 悪の仲間たちの間でも仲間割れが起こります。そもそも自分の利益のためには他人を犠牲にする人たちの集まりです。奪った金はあわよくば独り占めしようとお互いに企んでいます。仲間を信頼できるはずがありません。 こうして、利益が最大化するころには外は警察をはじめとする正義の民衆に包囲され、内では仲間割れ。 これで破滅が訪れないはずがありません。 ここで彼らが破滅を回避する唯一の方法は 「そろそろ潮時だな」 といって途中で勝ち逃げする場合ですが、なかなかそれができない。一旦味を占めるとその快感が忘れられずに中毒になっているので、どうしても悪をやめられないのです。そして破滅するまで突き進んでしまう。 これは犯罪者や犯罪組織だけでなく、利益の追求のためなら不正な手段も辞さない企業も含まれます。利益追求のために不正な手段を用いるなら、もうそれは立派な犯罪組織だと思いますが。大企業であっても。 ということで、悪を罰するのに神が一旦かれらを上に持ち上げるのは、こういう道理ではないでしょうか。 それにしても、犯罪組織はなかなかしぶとく存続し続けているじゃないか、と思うかもしれません。それについては次回考えてみようと思います。

真の自国ファースト

 自分の幸福が他者の幸福、全体の幸福と不可分であることは、国と国の関係にも当てはまります。 今はやりの「自国ファースト」ですが、どこの国の指導者が 「私は自国の利益より他国の利益を優先します」 などと言うでしょうか。歴史上、そんなことを言った指導者を僕は知りません。どこの国だって自国の利益を最優先に考えます。ですから、「自国ファースト」というマニフェストは何も言ってないに等しい。 問題なのは、自国に利益をもたらすそのやり方なのです。 目先の利益ばかりに目を奪われて、なりふりかまわずやりたいように振舞って、他国の、そして国際社会の、ひいては人類の利益を損なう行動に出れば、その国の指導者は顰蹙を買い、信頼されません。 「あの指導者はかなりやばい」 となり、それはそのまま 「あの国はかなりやばい」 となり、ほかの国が離れていってしまいます。これまでの味方も警戒して、その国とは距離を置き始めます。そして、他国に対して武力を用いて利益を得ようとすれば、その国の恨みを買います。そしてその恨みは世代を超えて永遠に引き継がれます。世界から総スカンを食らった状態で、どうして自国の利益が得られるでしょうか。一時的には利益を得られても、長期的には損害を被るのは明らかです。結局、前にも見たように、「短期的利益を追求して真の利益を失う」パターンではないですか。 本当に自国に利益をもたらしたければ、他国の繁栄、人類全体の繁栄が必要なのです。現在は経済、社会、情報、人の流れが国を超えて結びついています。貿易をするにも、相手国が貧しければ、こちらが売りたい商品も買ってもらえないではないですか。また、相手が貧しかったら、こちらがほしい商品を輸出する余力もないかもしれないではないですか。戦争などしていたら、どちらの国民も幸福なはずはありません。儲けているのは軍需産業だけ。この軍需産業がその儲けた金で巨額の政治献金をして候補者を操り、政権を操っているとしたら恐ろしい。軍需産業が栄えるには平和になったら困る。だから仮想敵国を作る必要がある。ソ連崩壊後にNATOとロシアが手を結ぶチャンスもあったのに、アメリカの軍需産業が仮想敵国を作るためにそれを妨害してロシアを孤立させた。だから今ロシアとウクライナで戦争になっている。その裏で一番笑っているのはアメリカの軍需産業。これが現代のアメリカだというのが本当...

悪人を救うのは自分のためだ

 さて、悪が破滅することは歴史が何度も証明してきた通りですが、破滅した後、悪人はどうなるのかというと、これは救わなければなりません。 その前に、悪人というカテゴリーですが、僕は100%悪人というのはいないと思っています。すべての人には仏性が、慈悲の種が、愛の種があるからです。小さな神がどんな人の心の中にいるわけです。また同時に100%善人というのもないと思います。人間である以上、必ず心の中にどうしようもない闇の部分、悪の部分が存在するからです。世間はすぐに人を善人と悪人に分けたがりますが、そんな単純なステレオタイプの思考では真実を見誤ると思います。 そこで、悪人、というより一旦罪を犯した人ですが、これは救わなければなりません。そうしなければ、その人は不幸な状況におかれ、その不幸な状況は、社会全体に影響を及ぼし、ついにはわたしたちの幸福にも悪影響を及ぼすからです。 具体的状況を考えてみましょう。 ある人が罪を犯して刑務所に入ったとして、刑期を終えて出てきたとします。そのとき、社会がかれらをあくまで排除するなら、 「娑婆に出ても仕事がねえじゃねえか」 となり、また悪いグループとつるんで犯罪を犯す以外道がないことになります。そしてその犯罪のターゲットにされるのはわたしたち。 これではいつまでたっても社会が幸福にはならないでしょう。ここでも、他人の不幸は自分の不幸の鉄則が貫かれています。自分が本当に幸福になりたかったら他者の幸福を願う必要がある。その他者の中には罪を犯した人も含まれるのです。 刑期を終えて出てきたとしても、住む場所も食べ物も仕事もなければ、また犯罪を犯すしかないではありませんか。だから、社会がそういう人たちに衣食住の確保と就労支援、とりあえずの仕事の提供までする必要があるのは明白です。これはその人のためだけでなく、社会のため、すなわちわたしたちが安心して暮らすためなのです。 実際、元その筋の方とかで、そういう人たちの支援をしている法人もあるようです。この人たちほとけかなって思います。当然行政もある程度取り組んでいるのですが、なかなか効果があがってない。 「全然更生してくんねえんだよ」 って声を聞いたことがあります。行政がもっと手厚い支援体制を整えると同時に、わたしたち社会全体も、つまりわたしたちひとりひとりが、支援するこころを持たなければなりません。...

悪は割に合わない

 自分が幸福になるためには、他人が、そして社会が幸福にならなければならないということになかなかたどり着けないのは、そこにタイムラグがあるからです。他人の幸福が、そして社会の幸福が、自分の幸福につながるまでには少し時間がかかる。それが待てないので、というよりそもそも気付かないので、目先の利益だけを追求してしまう。そして、自分さえよければ、という「俺様ファースト」に飛びついてしまう。そこから犯罪まで、悪に転落するまでは一直線ですね。ちょっとしたきっかけで、ちょっとした誘惑で、犯罪に、悪に、戦争に手を染めることになるでしょう。それは個人に限りません。大企業や国家でもそうです。個人だけでなく企業が、それも暴力団のフロント企業ではなくれっきとした大企業が、そして国家が、詐欺やインチキや、他者を不幸に貶め、ついには命まで奪うような悪行の数々を行ってきたのをこれまでもいやというほど目にしてきました。すべては自己の短期的利益ばかりを追求して、全体の幸福が自己の幸福に必要不可欠であるという認識が欠如していたためです。 そして、そのあとで、必ず破滅がやってきます。神様って見てないようで、ちゃんと見ているなあ、といつも思います。というか、その点に関しては容赦ない。しかもその悪の罰し方が凄い。いったん上に持ち上げるんですね。そして得意の絶頂まで持ち上げてから落とす!いやー、神さまもお人が悪い、と時々思っちゃうんですけど。 悪は割に合いません。 驕る平家は久しからず 千年前の日本のことわざは今も世界で生きています

「真のエゴイスト」宣言

 昨日は俺様ファーストを非難しましたが、そういう自分は自分の利益を考えないのかと、ぜんぜんそうではないわけです。わたしたちは幸せになる義務があると言ったように、自分にも幸せになる義務があるからです。権利ではなく義務。 しかし、全体と個の関係、人と細胞の関係を見ればわかるように、自分だけの利益を追求し、それが他人の、ひいては全体の利益を損ねるならば、得られた利益は短期的なものに過ぎず、やがては自分の利益も損なってしまうことはもはや明白になったわけですから、「俺様ファースト」はエゴイストとしても失格ですね。結局俺様の利益を得られない。 本当に自分の利益を得たければ、他者の利益と、全体の利益と一致させる必要がある。そしてそれは仕事をすることによって可能である。自分の仕事が、他人の利益、全体の利益に合致しているかを常に意識しながら仕事に励む。 その時、しかるべき報酬はもらう。決して自分の仕事に対して「安売り」はしない。サービス残業や、長時間労働で睡眠を削ったり、しかるべき休みも返上してはたらくような「滅私奉公」もしない。そんなことをしたら、自分が疲弊してしまい、仕事のパフォーマンスも落ちるし、長続きもしない。結局仕事ができなくなるから。 こうして、自分も利益を得て幸せになる。 これが本当の「エゴイスト」でしょう。 思えば僕も結局は自分が幸せになりたいだけかもしれない。自分の利益をまずは最優先に考えているのです。ところが、自分が幸せになるにはどうすればいいか、自分が利益を得るにはどうすればいいかを追求していくと、結局、悲しいことに、残念なことに、他者、そして全体が幸福にならなければならない。他者が不幸、全体が不幸な状態で自分だけが幸福な状態は長続きせず必ず破綻する、つまり、自分だけが利益を得て、他者が、全体が不利益を被る状態は長続きせず、必ず破綻するということに気付いたわけです。 自分の利益を第一に追求するのがエゴイストだとしても、本当のエゴイストなら、他者の、全体の利益を追求し、自分の利益と合致せざるを得ない。 結局自分は「真のエゴイスト」なんだな

人類の「癌」

 前回は仕事の話からいつのまにか「俺様ファースト」はおかしいとかいって、政治の方向に行ってしまいましたが、ここはあくまで宗教のサイトなのであまり深追いはしたくはありません。 僕が言いたいのは、 「わたしたちは本当は一つですよ」 ということです。 これは人と細胞の関係をイメージするのが一番わかりやすいと思います。 細胞一つ一つは確かに生きていますが、だからといって細胞がそれぞれ「俺様ファーストだ!」とかいって養分を独り占めしようとして、自分勝手な動きをしだしたら、人はダメになりますよね。全体としての人が健全で健康であってはじめて一つ一つの細胞も生き生きとするわけです。ある細胞や組織が全体の利益を考えずに養分を独占しようとして勝手な動きをしたら、全体としての人は病気になり、最後には死ぬでしょう。そうしたら、その勝手な細胞や組織も死ぬのです。これって何かに似てませんか。そうです。がん細胞です。がんは細胞が本来のコントロールを失って勝手に増殖しはじめることで起きますね。そして、それが別の場所に転移して、そこでも勝手に増殖をはじめ、また別の場所に転移してそこでも・・・。そして全体が死ぬ。もちろん、そこでがん細胞も死ぬ。 これって今の世界の状況に似てませんか? 「俺様ファースト」がある場所で発生し、それが世界の別の場所に転移して、そこでも「俺様ファースト」が増殖し、それがまた別の場所に転移して・・・。 やばくないですか? これって人類の「癌」ですよ。

⭕️⭕️ファーストはおかしい

 前回のポストで論理的に不完全なところがありました。仕事と報酬の関係のところで、報酬を受け取らないと相手の尊厳を傷つけることになるという風に論理を展開しましたが、その前に個と全体についての関係を述べるべきでした。 私たちが仕事をした時になぜ報酬が支払われるかというと、そうしなければ個人が生きていけないからです。仕事とは相手のためにモノやサービスを提供することですね。その相手とは個人の場合が多いでしょうが、その個人は社会全体に繋がっているので、全体のためと言えるでしょう。その個人に報酬が支払われないとなると、その人は生活が立ち行かなくなり、生きていけません。そうすると仕事を続けることもできません。すなわち、相手に、社会に、モノやサービスを提供することもできません。それは結局相手、社会にとっても損失、不利益になります。全体は個で構成されており、個なくして全体は存在しえない。つまり、個人の幸福なくして社会の幸福もあり得ないわけです。個人の幸福と社会の幸福は本来一体なわけですね。だから、仕事においては前回のポストでも示したように、 利他的行動と利己的行動が一体化している これが本来あるべき姿なのです。 自己犠牲とか滅私奉公とかいうのは、個を無視して全体のみをあたかも別個に存在しているかのように錯覚することから起こるわけです。そして当然これは長続きしないし、いずれ破綻する。 では自分だけが良ければいいのかというと、もちろんそれも違う。本質的に個の幸福と全体の幸福は一致するわけですから、自分だけが幸福で、社会が不幸というのはあり得ない。つまり、社会全体が幸福でない状態の時に、すなわち不幸な人が存在する時に、自分だけが幸福な状態というのは決して長続きしないし、いずれ破綻する。本当に自分が幸福になりたければ、他人の幸福、ひいては社会全体の幸福を目指さなければならないわけです。 だから、⭕️⭕️ファーストとかいうのはおかしい!

強制利他

 話が脱線しすぎて「人は死んだらどうなるか」とかに行ってしまいましたが、その前に「今をどう生きるか」ですよね。 まずは人を救う前に自分を救え ということで、めぐりめぐって行きついた僕の答えは簡単で 「働く」 です。仕事をするってことですね。その際、どんな仕事でもいいです。まっとうな仕事である限りは。 人を救うとかいってボランティアしたり寄付したりするのもいいですが、待てよ、その時の自分の食べ物やお金はどこからくる?まずは自分が自立していなければ、たちまち資金やリソースが底をついて逆に自分が施される側になってしまいますね。これではダメです。長続きしません。 または人を救うぞ、と意気込んで、マザーテレサのように貧しい人の中に飛び込んだり、チェゲバラのように革命の戦士となったり、ガンジーのように非暴力で民衆のために立ち上がったりとか。確かに憧れますが、偉大過ぎて、まぶしすぎて、目標が高すぎるとそれに比べて自分は何だ、と自己の無力さが思い知らされて逆に落ち込んでしまいます。これもダメですね。長続きしません。 思うんですけど神は、すなわち仏は、慈悲深い、つまりもっと優しいのではないでしょうか。その優しい神が、すなわち仏が、わたしたち全員に自己犠牲の塊のようなスーパーヒーローやスーパーヒロインの役を求めるかな。どんな人でもできるような簡単なことで、それでも幸せになれるようなことを用意してくださっているに違いない。 それが「仕事」だと思うんです。 自分の生活を立ち止まって見つめてみると気付きます。どれだけ多くの人々の労働に、すなわち仕事に支えられているかを。たとえばバスに乗りますね。まずはバスを運転する人。その人がいなければバスは動かないわけです。そしてバスを造る人。自動車会社がなければそもそもバスがないわけです。そしてバスを動かす燃料。ガソリンや軽油、場合によっては天然ガスが必要ですから、エネルギー会社。石油を掘る仕事も必要ですし、それを運ぶためにタンカーも必要ですし、ガソリンスタンドまで運ぶタンクローリーも必要でしょう。バスが電気で動くならば電力会社も必要でしょう。またバスは道路を走りますね。道路を作る仕事も必要。道路工事のときはガードマンも必要でしょう。そしてバスにのって買い物に行ったとして食料を買うとしましょう。豆腐を買ったとして、まずは豆腐を作る人、その原料であ...