悪人を救うのは自分のためだ

 さて、悪が破滅することは歴史が何度も証明してきた通りですが、破滅した後、悪人はどうなるのかというと、これは救わなければなりません。

その前に、悪人というカテゴリーですが、僕は100%悪人というのはいないと思っています。すべての人には仏性が、慈悲の種が、愛の種があるからです。小さな神がどんな人の心の中にいるわけです。また同時に100%善人というのもないと思います。人間である以上、必ず心の中にどうしようもない闇の部分、悪の部分が存在するからです。世間はすぐに人を善人と悪人に分けたがりますが、そんな単純なステレオタイプの思考では真実を見誤ると思います。

そこで、悪人、というより一旦罪を犯した人ですが、これは救わなければなりません。そうしなければ、その人は不幸な状況におかれ、その不幸な状況は、社会全体に影響を及ぼし、ついにはわたしたちの幸福にも悪影響を及ぼすからです。

具体的状況を考えてみましょう。

ある人が罪を犯して刑務所に入ったとして、刑期を終えて出てきたとします。そのとき、社会がかれらをあくまで排除するなら、

「娑婆に出ても仕事がねえじゃねえか」

となり、また悪いグループとつるんで犯罪を犯す以外道がないことになります。そしてその犯罪のターゲットにされるのはわたしたち。

これではいつまでたっても社会が幸福にはならないでしょう。ここでも、他人の不幸は自分の不幸の鉄則が貫かれています。自分が本当に幸福になりたかったら他者の幸福を願う必要がある。その他者の中には罪を犯した人も含まれるのです。

刑期を終えて出てきたとしても、住む場所も食べ物も仕事もなければ、また犯罪を犯すしかないではありませんか。だから、社会がそういう人たちに衣食住の確保と就労支援、とりあえずの仕事の提供までする必要があるのは明白です。これはその人のためだけでなく、社会のため、すなわちわたしたちが安心して暮らすためなのです。

実際、元その筋の方とかで、そういう人たちの支援をしている法人もあるようです。この人たちほとけかなって思います。当然行政もある程度取り組んでいるのですが、なかなか効果があがってない。

「全然更生してくんねえんだよ」

って声を聞いたことがあります。行政がもっと手厚い支援体制を整えると同時に、わたしたち社会全体も、つまりわたしたちひとりひとりが、支援するこころを持たなければなりません。これは慈善事業ではありません。そうしなければ、わたしたちの幸せが、安全が脅かされます。結局、「真のエゴイスト宣言」の通り、自分のためなのです。

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