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神(仏)の無償の愛の証拠

 そう言えば神の私たちに対する愛が無償の愛である証拠が身近にあるなあ、と思ったのでここに書きます。 私たちが神様に(またはほとけさまに)お供え物をする時、神がそれを受け取ってくださったことがあったでしょうか? 「今日は神様に感謝を込めてお供え物をしよう」 とか言って、食べ物や飲み物などを捧げても、次に日に見てみると、まだそこにある。 「神様全然召し上がってないじゃん!このままじゃ腐っちゃうよ。」 そうです。神様が私たちの貢物を受け取ってくれたことなんか一度もありません。仏さまもね。つまり、神さまはこう言ってるんじゃないですか。 「私はそんなのいらないし、必要もないから、お前たちで分けるなり、またそれを本当に必要としている貧しい人たちに分けておやり」と。 そういうわけで、捧げものは神様からのおさがりとして、わたしたちに改めてくださるのです。 「じゃあ最初からみんなで分ければいいじゃん!」 そうです。そしてその分けるところの「みんな」の輪がどんどん広がって人類全体にまで広がることを神様はお望み。神様はご自分のことなんか忘れられても、一向に構わないと思っていらっしゃる。 それに関して、儒教の話を思い出しました。 昔の中国の聖人君主が(尭だったか舜だったか)、世の中が治まっているかどうかを知るためにお忍びで街に出て、民衆が歌ってるのを聞いたのですが、 「俺たちは自分で田畑を耕して自分を養っていて満ち足りている。どこに皇帝の恩恵があろうか」 みたいなことを歌っている。そして、それを聞いた帝は「自分の治世は上々だ」と思って満足して帰ったという話。 儒教でもわかっていたんですね。無償の愛が。上の話、皇帝を神に置き換えたら、 「俺たちは自分の力で稼いで自分を養って満足している。神様の恩恵なんて受けてないし、そもそも神なんかいねーよ」 と人々がいうのを聞いて、神は良しとされた。 となりますね。神を信じようと信じまいと、人々が幸福でありさえすれば神はご満足。むしろ世の中が全員無神論者になって、なおかつ全員幸せなら、理想形なんじゃないですか。 それが神にとっての「無償の愛」ってもんでしょう。 でも、一気に理想形には行けそうにないから、やっぱり当分の間は宗教が必要だと思います。宗教の方が早く、楽に、そして着実に理想形に行けると思うんですけど。 愛と慈悲の導くままに ←

儒学者、愛を説く

 元ネトゲ廃人で、今は嫁にゲームを封印されているので、その分大量に時間が余ってしまい何しよう?(もちろん仕事はしてますけど) で、しょうがないから行き当たりばったりに図書館で本を借りてるんですが、なぜか二宮金次郎から日本の名著シリーズに当たってしまい、今中江藤樹、熊沢蕃山と来て山鹿素行に。誰それ?僕も知りませんよ。なんか江戸時代(17世紀)の儒学者みたい。山鹿は兵学者か。 それがまた面白くって、面白くって。いままで儒教って宗教じゃないって思ってたんですけど、そんなの関係ない。 とにかくいいこと言ってるんですよね。ていうか、毎日説教されて怒られてるんですけど、それが快感。 ひたすら、悪を諫めて善を勧める。 目先の利益に惑わされるな。 世の中の利益になることを考えろ。 じゃあ、どうすればいい。 熊沢蕃山は中江藤樹の門人だったらしいけど、彼は 「士はなにをなすべきか」 との問いに 「人を愛しなさい」 と答えていました。なんかどこかの宗教で聞いたような文句。あの”愛”マニア。でもこれ、儒教だよな。 もうどっちでもいいんじゃないですか。最後にはおんなじこと言ってんだから。 当時も「三教一致」とかいって儒教と仏教と神道はとどのつまり一つだとかいうおめでたい考えもあったようですが、なんか似てるな。そうそう、ここは「全教一致」 (すべての宗教の光源は一つ) 。 それに対して、上の儒学者たちはむきになって、 「他と一緒にすんな。儒教だけが正しい」 と息巻いてるんですが、それは他の宗教でも同じ。まあ、ご愛敬だね。僕は偉い先生が他の宗教や宗派の悪口を言っている時は決まって 「聞かなかったことにする」 熊沢蕃山もキリスト教は嫌いみたいだったけど、愛を説いてるじゃん。 よくわかんない。 とにかく、本を読むって楽しいね。それって人の話を聞くってことだからね。そうです、いろんな人の話を聞くって楽しいんです。それも、名著シリーズに載るような傑物の話が聞けるんですから。 と思ったら 「本ばかり読んでいるような奴はダメだ」 と書いてある。それも何度も書いてある。はいはい、おっしゃる通りで。まあ、僕は無理しないことにしたんです。ぼちぼち行きますから、みなさんは先に行っててください。でも 「ネットばかり見てるようではダメだ」 とか言いながら、本当は見られたいくせに。偉い先生だって本当は読まれたいで...

「孝」の先にあるもの

 「孝」を親から見るとどうだろう。 僕も親のはしくれだからわかりますが、子に恩返しなんか求めてません。親の子に対する愛は ”無償の愛” だから 子が幸せになることが最大の親孝行 じゃあ、「孝」を神から見るとどうだろう。 神様は私たちに恩返しなんか求めてない。神の私たちに対する愛は ”無償の愛” だから わたしたち生きとし生けるものが幸せになることが神に対する最大の親孝行 神様はご自分が愛されることなんか求めていない それより、神さまが愛するところの人を、いのちを、わたしたちも愛することを求めている 人を愛することがすなわち神を愛することであり、いのちを愛することがすなわち神を愛すること 人を愛さなければ神を愛したことにならないし、いのちを愛さなければ神を愛したことにならない だから、「敵を愛せ」とまで言うのでしょう。でもいきなりは無理だから、「隣人愛」を説くのかな。僕は無理しないことにしてるんです。敵を愛するほどの重荷はキリストに、阿弥陀仏に背負わせて、まずは隣にいる人から愛そうと。 今は無理でもいつかはね。 愛と慈悲の導くままに ←   →

芸人さんを無条件に応援したい

 仕事の喜びの大切な要素の一つが ”他者を喜ばせること” すなわち利他にあると思うのですが、それを一番身をもって感じている人たちは「芸人さん」なのかな、とふと思いました。 人を笑わせるって、至難の業じゃないですか。ちょっとでもタイミングを外すと「すべっちゃう」。僕には到底できない。 で、それがうまくいったとき、人は笑うわけですが、ヒトが笑っている時って無条件に幸せなんですよね。これまでのいやなこととかつらいこととか、一時的に忘れちゃう。そして笑っている人の幸福感が、笑わせた人に真っすぐ跳ね返ってきて、笑わせた当人も強烈な至福を感じる。それが原動力になって、「芸人」って職業をなさっているのかな、ってふと思いました。 だから、芸人さんとか、落語家とか、僕らを笑わせてくれる仕事をしている人たちを、まずは無条件に僕は応援したいと思うのです。 愛と慈悲の導くままに ←   →

儒教について腑に落ちたこと

 儒教では「孝」を説きますね。つまり”親孝行”の「孝」。 なんで親孝行がそんなに大切か、今まで腑に落ちなかったんですけど、中江藤樹(江戸時代の儒学者)を読んで腑に落ちました。 私たちは親の子ですね。当たり前ですけど。親のおかげで自分があるのだから、その恩返しとして親に尽くすのは当たり前と。でないと忘恩の輩になってしまう。確かに。 で、その親ですけど、それをずっと辿っていくと、この宇宙の生みの親に行くわけです。つまり神ですね。でも儒教では神とは呼ばず「太虚」とか言っているみたい。 とにかく、わたしたちすべてはそこから生まれたから本当は皆兄弟であり、みんな神か太虚だか仏だか知りませんが、その子であると。だからその恩返しとして神だか太虚だか仏だか知りませんがそれに対して親孝行しなければならないと。 でも、ここからは僕の一人合点なのですが、神だか太虚だか仏だか知りませんが、それに孝行する前に、この世で直接の生みの親である自分の両親に孝行もできない者が、どうして神だか太虚だか仏に孝行することができようか。 ああ、だから儒教はうるさく「孝」を説くんだな。まずは親孝行せよと。 それは究極の親である神に、仏に、直通している。 愛と慈悲の導くままに ←   →

よりよく生きるための利他

 利他的行動について考えていたら、どんどん違う方向に行ってしまい戻れなくなりそうなので、ここらでまとめたいと思います。 前に利他を意識するのは自分がよりよく生きるためだと書いたのですが、社会人として生きる上で、二つの理由があります。 まず一つは、利他を意識することで喜びが倍になるということです。仕事をする目的はもちろん、 ”食うため” ですね。きれいごとなんか言っている暇はありません。そのためには金が要る。そしてその金を得るのがまず第一の喜び。 ところが、今の社会を見渡すと(昔もそうかもしれませんが)、仕事の喜びがそれだけで終わっている。給料がいいかどうか、どれだけ稼げるか、そればっかですね。 ところが、仕事と言うのは他者の利益になることをするわけです。そして、他者のニーズを満たしたとき、その他者が「ありがとう」といって報酬をくれるわけです。その「ありがとう」と言われたときの喜び。これが第二の喜び。 だから、利他を意識することで喜びは倍になる。当たり前の話です。そして、他者が「ありがとう」という度合いが深いほど、または頻度が多いほど、多くの仕事をしたことになり、報酬も増える。つまり、金を得るという第一の喜びも増えるわけです。 逆に言うと、仕事をしていても、人の役に立っているという実感がないと、つまり人に「ありがとう」と言われる場が欠如すると、仕事の喜びは半減します。そして生きる喜びも半減。喜びの源泉が金しかない。こうなったら人は人としての魅力を失うでしょうね。金はあるけど魅力のない人生。たぶん、その金だって長続きしない。金の出どころは仕事における利他的行為にあるんだから。 そしてよりよく生きるために利他を意識するもう一つの理由は、上記のこととも関連しますが、 「悪に堕ちないため」 です。利他を忘れて金だけを得ようとすれば、他人をだましたり、他人から奪ったりするほうが手っ取り早い。こうして「悪徳業者」となり、悪に堕ちます。当然、他者に損害を与えるわけですから、他者から「ありがとう」と言われる喜びを失います。これって大損じゃないですか。人生の喜びの半分を失うんですよ。半分どころか、その喜びはずっと大きいかもしれない。もしかしたら、「生きがい」になるくらい大きいかもしれない。これさえあれば「食うため」の金くらい自然とついてくるくらい大切かもしれない。大切と言うか強...

人口の問題について(2)

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 人とイネ、人と家畜の関係を考えていたら、以前のポスト (人口の問題) での食物連鎖のピラミッドについて少しわかったことがあったので、ここで付け加えておこうと思います。 ヒトは食物連鎖のピラミッドの最上位にいるので、そのヒトが爆発的に増えたら、それを支える下位の動物や植物もそれに比して増えなければならないのに、そうなってないから、人口減少は避けられないと考えたのですが、人口の増加とともにその食糧となる植物(イネやコムギやトウモロコシなど)や動物(牛、豚、鶏、ヒツジなど)は農耕と牧畜によって増えていますね。そうみると、生態系のピラミッドはヒトを中心としてかなりいびつだけど一応成り立ってんのか。どうでしょう? でも、食糧以外にも、木材のために森林を伐採したり、土地開発のために自然を破壊したり、漁業で魚を網で一網打尽にしたり、やはり人口増加は生態系に過剰な負荷はかけてるでしょうね。 では、ヒトが生態系とバランスを取りながら持続的に生存可能な人口はどれくらいなのか? この問題はもう僕の手には負えないので、生態学者やそのほかの研究者の方、よろしくお願いします。 愛と慈悲の導くままに ←   →