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人と稲の関係にある利他的要素

 人と稲の関係を稲(イネ)から見たらどうなるのか。 イネは人間に食われるためにだけにあるかわいそうな存在のようですが、本当にそうかな。 植物にとっては自分の生息区域を拡大して自己の種を増やすことは最大の目的ですね。では、イネはヒトに栽培される前の野生種から比べて、増えたのか、減ったのか。 もうこれ以上できないほど、最大限に生息区域を拡大してますね。ヒトによる品種改良によって野生ならば生存できないような北の北海道まで。もともと熱帯種ですよ。また、水田に出来るところはどんなところでも、山の斜面でさえも棚田をつくって、海や湖だったところも干拓して無理にでも、植えられるところは極限まで植えられて日本中に、世界中に広がってきた。 イネはヒトを利用してその生息区域を最大限まで広げることに成功したと言えるでしょう。勝ち組?植物界の?小麦もそうだよね。トウモロコシも。 その代償として人に食われますが、それでもいいじゃないですか。結果として野生のときとは比べ物にならないほど増えているんだから。つまり、彼らにとってはヒトに食われるデメリットよりも自己の生息区域を拡大させたメリットの方が大きい。それも断然大きいのです。 ヒトが稲を育てるために費やした労力と言ったら、もうそれは昔から大変なもので、涙ぐましいほどです。はっきり言って命を懸け、命を張って稲を守り育ててきたんじゃないですか。江戸時代までは人口のほとんどは農民でしたね。人間のほとんどみんなが稲に至れり尽くせりのサービスをして仕えてきたのです。 自分を相手に食わせるという究極の利他的行為の見返りは、自らの種の空前の繁栄。 これは奥が深い。 利他が損だという見方は物事を表層でしかとらえていない。 利他的行為を通して、相手を支配していると言えるほどだ。 もちろん、人もイネに奉仕することによって自らの食糧を得る。そして自らの数を増やし、その生息区域を広げる。 人と稲の双方が、利他と自利が連動してWINWINの関係になってますね。 宗教の説く愛と慈悲とは利他でしょうが、それは結局わたしたちの繁栄のためなのです。 愛と慈悲の導くままに ←

自然界における利他的行動

 前回は人間界における利他的行動について考えてみました。人間は社会的生き物である以上、どんなエゴイストであっても生活の糧を得るためには働かざるを得ず、働くとは他者の利益に供することですから、利他的行動を取らざるを得ない。そして利他的行動を取らずに自己の利益だけを図る行為は多くの場合犯罪として定義され、社会的制裁を受ける。 では、人間以外の動物や植物はどうなのか。 まずは、植物と動物の関係を見てみましょう。植物は花を咲かせ、実を結びますね。昆虫が花の蜜を吸ったり、動物が実を食べたりしますね。一見すると、植物が一方的に動物に利用されているようですが、昆虫が花の蜜を吸う時に体に花粉が付き、その昆虫が他の花に行って花粉を受粉させます。動物が実を食べると、種が糞として出されますが、その種から芽が出るので植物は自分は動けないけど自分の生息区域を広げます。 つまり、お互いに自分の利益しか考えずに行動しているのに、ちゃっかり利用されている。生の営み自体に利他的行動が組み込まれているということでしょう。 動物でも、アリやハチなどは社会的生活を営みますね。そうすると一つ一つの個体は高度に分業化されている。偵察に行くもの、食物を運ぶもの(働きアリとか)、卵を産むもの(女王バチとか)、授精させるもの(オスの蜂なんかただそのためだけの機能しかなかったりする)、巣が攻撃されたときに戦って自爆するアリまでいるらしい(アリにも神風特攻隊がいるってことか)。 サルの群れでも、リーダーは群れを守るために体を張って戦ったりする。ライオンが狩りする時も、連係プレーでやるしね。 こう見ると意外に自然界でも利他的行動はありますね。お互い協力した方が、種として生存に有利だからでしょう。つまり、利他的行動が自己の利益にもなっている。さらに言うと、利他的行動を発達させた方が自己が生き残る可能性も高まるのではないですか。 それでも、魚などを見てると、ただひたすら下位の魚やプランクトンを食って生きているだけのようにも見えますが、そのような究極的な利己的行動を取って生きたとしても、最後には自分が他の魚に食われることで、帳尻が付く。自分が食われるって、究極の利他的行動、というか利他的結果ですね。だって、自分の命を相手に差し出すんですよ。いやいやだけど。仏典では釈迦が極端な利他的行動の見本として空腹のトラに自分の命を...

人間社会における利他的行動(二宮金次郎の教えについて考えたこと)

 二宮金次郎の教えを聞くうちに、人間の利他的行動について考えさせられました。 彼の教えの3本柱は、 1. 勤勉(勤労に励むこと) 2. 分度(生活水準を収入の範囲内に収めること) 3. 推譲(2でできた余剰財産を譲ること) ですが、その中で利他的行動として意識されているのは3の推譲において、余剰財産を社会のために使うということですね。1の勤勉については、江戸時代の農村では自給自足の側面も大きかったので、まずは自分の食糧を確保するためという自利の点が強く意識されていたようですが、高度に分業化された現代社会では、働くということが他者の利益に供する、すなわち他人が必要とする商品やサービスを提供することになるでしょう。つまり、1の勤勉の中にすでに利他が内在しているということです。そしてその見返りとして報酬を受け取る。働くと言うことは利他と利己が見事に並び立っている。まさに世界のあるべき姿ですね。自分が生きるためには金が要る。金を得るには仕事をしなければならない。仕事とは他者のニーズを満たすことである。すなわち利他的行動である。この世は利他的行動をしなければ生きられないようにできているのです。もし、利他的行動をせずに金を得ようとすれば、盗みや詐欺やぼったくりとなり、他者に損害を与えることになる。それはすなわち犯罪と呼ばれ、社会から制裁を受ける。 労働が神聖とされるのも納得です。 そして2の分度は仏教では「足るを知る」ということですね。生活水準を収入の範囲内に収めることは「借金」という選択肢がなければこれ以外取りようがありません。 で、3の推譲ですが、実は1の勤勉の中に、推譲の要素が内在されているのではないかと僕は考えるわけです。すなわち、江戸時代においては「年貢」として、現代では「税金」として、そもそも労働で得た報酬の中からまたは生活の過程での消費の中から強制的に社会に「譲らされている」ではないか、ということです。 つまり、人間がまっとうに生きようとすれば、それだけで1,2,3を満たすことになる。 そうです。何も難しいことはありません。ただ自分のためだけに生きようとしても、知らず知らずのうちに利他的行動をしているのです。またそうせざるを得ないようにこの世はできているのです。 だから、自分を卑下する必要はありません。スーパーヒーローのような自己犠牲の塊のような存在を目指...

二宮金次郎の教え

 先日新聞を読んでたら、「二宮金次郎はスーパーFP(フィナンシャルプランナー)だった」とあったので、興味をそそられて、図書館で二宮金次郎関係の本を何冊か借りて読んでいるんですけど、これがめっちゃ面白くて面白くて・・・ まだ読んでいる途中ですけどあまりにも面白いのでここに書いちゃいますね。 二宮金次郎と言えば、薪を背負いながら本を読んでいる銅像が全国の小学校に建てられていて、戦前の日本では天皇の次に有名な人だったらしい。まあ、銅像の通り勤勉少年の象徴のようですけど、実際何やった人? と思ったら、実は凄腕のFP(フィナンシャルプランナー)だった! えーっ!! どうやら金を増やすのが得意で、「こいつに金を預けたら必ず増やして帰ってくる」と出仕先でも評判だったらしい。で、その手腕を買われて、借金で火の車になった武家や藩の財政を立て直す役目を依頼されたり、疲弊した農村や領地の立て直しを依頼されて、次々と成功させたらしい。 なんと、ある依頼案件では、借金を返すために、低利でさらに借金して、それを高利で貸し付け、その差益で上がった利息で前の借金を返す、なんて荒業もやっていたらしい。すごいな。ただの勤勉少年じゃないぞ。 と、こんな風に書くとなんかがめつい人みたいですけど、彼はカネもうけが目的なのではなく、あくまで「人々が貧困から抜け出して豊かな暮らしをする」ことだけを考えてきた人なので、そこが今の投資ファンドの連中とは違う。理想は高く、しかしあくまで現実主義者でもあったので、カネについてもシビアにみて、シビアに活用していたわけです。 でも、低利で金を借りて、高利で回すというのはちょっと・・・さすがにそれは彼の常道なわけではなく、彼の常道は「困っている人には無利子で貸し付ける」制度の創設で、これを「報徳貸付金」とかいっていたらしい。これは立派ですね。これなら「利子を取ってはならない」というイスラムの教えにもかなってるぞ。 やっぱり金次郎は大した人だった。 そして、かれの教えですが、要約すると3つだけ。 1. 真面目に働くこと(勤勉) 2. 分を守ること(分度) 3. 余剰財産を譲ること(推譲) 1はもう二宮金次郎と言えばやっぱりねって感じですよね。まずは働いて収入を得ろと。 2の分を守るとはすなわち、自分の収入に見合った生活をするってこと。支出が収入を超えないようにせよ、とい...

複数の妻を平等に愛するのは至難の業

 イスラムでは妻は4人まで娶っても良いことになっていますが、その場合、平等に愛さなければなりません。 では、マホメットの場合はどうかというと、彼の場合は4人以上の妻がいたようですが、その場合もきっちりとローテーションを組んで、日数にも偏りが生じないようにそれぞれの妻のもとを訪れていた様子がハディースに書かています。それでもある時、妻の中でも最も慎み深く遠慮しがちな性格の人が、最愛の妻のアーイシャに遠慮してか、 「私のことはこれからはスキップしていいわよ」 とマホメットに言う場面がハディースに描かれていました。 これって微妙ですよね。 そんなこと言われたマホメットはどう返せばいい? 喜ぶべきか悲しむべきか、どんな顔をすればいい? その時のマホメットの反応がどう書いてあったかはもう忘れました。僕は目下聖典を封印されているので詳しいことは実際にハディースに当たっていただきたいのですが、これを読んだ時の僕の印象はというと 「複数の妻を平等に愛するのは至難の業である」 ということです。 神の使徒ですらそうなのですから、ましてや一般の信徒が複数の妻を平等に愛するなど・・・ 新しい妻の方が若いから、古い妻はそっちのけで、今は新しい方に入り浸り、なんてことは絶対にダメです。ちゃんとローテーションを組んで平等に日数も配分しなければなりません。もちろん、愛情も平等に。 難しいですね。至難の業です。 だから妻は一人にすべきか、4人までOKなのか、後は神の御意思にお任せします。 愛と慈悲の導くままに ←   →

君と何度も結婚したい!

結局のところ、ここで書いてあることは、「惚れっぽい奴が宗教s(複数形)に惚れたらどうなるか」っての話かな、と思います。 自分はどうやら惚れっぽい質(たち)らしく、女性をすぐに好きになっちゃう。そして、 「君と何度も結婚したい!」 とか、気が付いたら言ってしまっているわけです。もちろんそんなにうまくいくはずもなく、いつも振られるんですけど、惚れっぽい質が治るわけもなく、懲りずにそんなことを続けていると、いつかは引っ掛かるお馬鹿さんも出てきて・・・ こんな甲斐性のない男に引っ掛かるなんて本当におバカさんね さて、こんなバカな人生を送ってきた仏罰でしょうか神罰でしょうか、素敵な菩薩に会えばすぐに惚れ、素敵な仏に会えばすぐに惚れ、素敵な神の子(キリスト)に会えばすぐに惚れ、偉大な神(アッラー)に会えばこれまたコロっといってしまい、ラーマクリシュナにたどり着いたころには何が何だかわからない。 仏だか神だか知りませんが、惚れっぽい質の者がそんなのに会ったら忽ち惚れるに決まってるじゃないですか。神も仏も罪なお方。 でもねえ、一つ困ったことが・・・ みなさん、本当に嫉妬深いんですよね。両方好きになっていいよ、とかまず言わない。私だけを信じなさいって言うんですよね。という割には、言っていること、すごく似てるんですけど。聖典って、わたしたちへのラブレターなんですけど、その口説きの文句が本当にそっくりで、 「本当はみなさん、同一人物(ていうか同一存在)なんじゃないの」 ということで、勝手に納得、勝手に解決。 愛と慈悲の導くままに ←   →

イスラムの定義

 僕は仏教を信じ、キリスト教を信じながら、イスラムに今来ているわけですが、そんなんでいいのか、自分はイスラム教徒と言えるのか、マホメットに聞いたところ、 「どうしてもわしと意見が合わないなら、せめて神を信じるとだけ言ってくれ。神にすべてをお任せしたとだけ言ってくれ。」 と言う趣旨のことをコーランで言っていたと思います。僕は前言った通り、今は聖典を神様に封印されているので、正確にその個所を引用することはできませんが、もう最後は、神を信じさえすればよい、神にすべてをゆだねるというならそれでよい、と言うことだったと思います。 つまり、イスラムとは 「神を信じること」 であり、イスラム教徒とは 「神にすべてをゆだねた者」 である、というのが僕の個人的な解釈です。つまり、仏教とかキリスト教とかヒンズー教とかいう宗教の一つとしてイスラムがあるのではない。僕の中では神も仏も一つなので、仏を信じる、キリスト教でもユダヤ教でも神を信じる、つまり唯一絶対無二の全知全能の存在を信じるなら、それはイスラムと同義だということです。 つまり、イスラム教徒とは 人間の自由意志の上に神の意志を置く者 だと思います。だから僕は仏教を信じ、キリスト教を信じながら、イスラムでもある、と自分では思っているのですが、それでいいかどうかは、神の意思にゆだねます。自分が 「神にすべてをゆだねた者」 であることは、間違いないのですから。 愛と慈悲の導くままに ←   →