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本物と偽物の宗教の見分け方

 すべての宗教は同じゴールに至る様々な道のようなもであるとは言っても、宗教の仮面をかぶったインチキなものも多いので、本物と偽物の見分ける方法が必要ですね。 僕は本物かどうか迷ったときは必ず 「その神は、または仏は、またはご本尊は、信じない者も救いますか」 と問うことにしています。これは嫌な質問、というか意地悪な質問、というか悪魔の問いだなと自分でも思うのですが、つまりは究極のところを試しているわけです。 要するに 「すべての人を救うのか」 と聞いているわけです。 さて、まずは仏教から、親鸞、というか浄土真宗ですが、答えは "YES!" です。試みに僕の理解している範囲でその概要を説いてみます。 阿弥陀仏はすべての衆生が仏になるまで自分は仏にならないと誓いました。もうこれだけで、すべての人を、信じない者も含めて救うということが宣言されているわけですが、ここで少し問題が・・・ 「但し、五逆十悪をば除く」 とか 「但し、正法誹謗の者をば除く」 とか、但し書きが付いている。この例外規定、悪い役人が法律を骨抜きにするためによくやる常套手段で、これがあるために阿弥陀仏の無限の慈悲が骨抜きにされてしまう。 この「例外条項」を入れたのは、最初は親切心から、親心から入れたのかもしれません。つまり、「すべての人を救う」と言ってしまったら、わたしたちは安心しきってしまい、甘えて 「じゃあ何でもやっていいのか」 となって、悪に落ちる馬鹿者が続出するのを心配してのことでしょう。しかし、なんでもやっていいからと言って悪を行うのは、結局我と我が身に仇をなすようなもの。悪とは最初に甘い汁を吸わせていい思いをさせて、後でそれ以上の苦しみを与えるものであり、結局割に合わない、損なものなのです。だから、どうせ救われるから何でもやっていいんだなと言って、悪行を重ねるのは愚かなことです。損だからです。 それでも、この例外規定というやつは、一旦入れてしまうと、無慈悲なニセ宗教者によって際限なく拡大解釈されてしまい、とうとうニセ宗教者を信じなければ 「誰も救われない」 ということにまで至ってしまう。法律の例外規定の恣意的拡大解釈、これまた悪い役人、悪い権力者がよくやる常套手段なのであります。 それで、親鸞の解釈はというと、この例外規定、もともとは無かったものが後で誰かが余計なお節介をして付け...

聖典とは人類へのラブレター

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 仏典を読んでいると、ほとけに口説かれているように感じる。 あまりにもしつこいので 「もうわかったよ。しつこいなあ。信じればいいんでしょ、信じれば。しょうがないから信じてあげます」 まるであのうるさいどっかの新興宗教の勧誘みたいですね。普通はこちらが必死に努力して、必死に修行して、やっとほとけが応えてくれる、ほとけが振り向いてくれる、神が振り向いてくれる、となるのでしょうが、どういうわけか僕の場合はその関係が逆転してしまっている。仏の方が必死になって、向こうからやってくる。ほとけが必死になって、なんとか衆生を振り向かせようとしている。 仏典とは仏が衆生に送った、渾身のラブレターなのです。 聖典とは神が人類に送った、渾身のラブレターなのです。 仏典とは、聖典とは、ほとけが、神が、どんなにわたしたちを愛しているかを必死になって伝えようとしている、人類に向けての愛の告白、愛のメッセージ、渾身のラブレターなのです。 仏典しかり、聖書しかり、コーランしかり、ハディースしかり、ラーマクリシュナの福音しかり、です。 僕にはあらゆる聖典すべてがそう読めてしまうわけですが、努力も修行もせずにほとけから、神から口説いてくるなんてずるい、とお思いかもしれません。でも、そのとき僕は、一心不乱に、無我夢中で、仏典に没頭してたので、周りから 「猛勉強している」 という風に言われたことがあります。そのときは 「猛勉強?」 とすごい違和感を感じたのですが、どうやらその人にはそう見えていたらしい。でも、勉強とか、努力とか、苦行とか、とはちょっと違うかな。それより大切なのは 「集中力」 だと思います。きっと集中力が高まってある閾値を超えると、トランス状態に入れる。いわば三昧に入れる。そのとき、ほとけが振り向いてくれる、神が振り向いてくれる、すなわち自分の言葉で言うと、 「慈悲の光を見た!」 「愛の光を見た!」 となります。そして、トランス状態に入るのに、禅宗では座禅によって集中力を高めて三昧に入ったり、イスラムの神秘主義ではクルクル踊ってトランス状態に入ったりするようですが、僕の場合、聖典を読んで集中するだけでそこに入れたようです。でも、この体験はどこまで行っても主観的なものなので、他者から「それは違う」といわれても、こちらとしては反論のしようがありません。 ということで、言葉では反論できませ...

慈悲の光を見た!

 それにしても僕はおめでたい奴だと自分でも思います。仏や菩薩に四六時中口説かれてると感じているのですから。 「わたしはお前を救う」 とは 「わたしはお前が好きだ」 「わたしはお前を愛している」 と言っているのと同じです。仏がわたしたち衆生を口説いているのと同じです。つまり、仏が僕を口説いている。というよりは、仏がわたし(女になった自分)を口説いている。 僕は男ですが、仏に口説かれている時は女になった方が良さそうですね。やっぱり、口説くのは男で、口説かれるのは女という方がしっくりきますから。そして毎日毎日、何千何万言もの言葉を費やしてこのわたしを口説いてくるのです。仏典のどこを開いても、流れてくるのは優しい愛のお言葉。いったいどこから流れてくるのか(仏典からでしょ)、光源氏もこれほどは、と思うほど。ほとけは口説くのがよっぽどお好きなようで、また口説きの名人のようで、しまいにはとうとうこちらが根負けしてしまい、 「もう好きにして」 となってしまいました。 「よーござんす。よくわかりました。こんなわたしでよかったら、どうぞ好きにしてくださいまし。わたしを奪って逃げてください。地獄でも極楽でも、もうどこでもいいですから、連れて行ってくださいましな」 て感じ。そしてついにほとけと一体となって恍惚となったわたし。というか僕。もうこうなってしまったら男とか女とか、性別は関係ないですね。この歓喜のエクスタシーを法悦と言ったりするそうですが、自分の言葉で言うと 「慈悲の光を見た!」 となります。そして仏典の中で「慈悲の光を見た」個所に付箋を貼っていったのですが、1ページに何枚も付箋を貼ってしまい、あっという間に付箋だらけになっていて、それを見た嫁に 「バカじゃない」 って言われる始末。そんなこと言ってたらほとけさんとほんとにどっか行っちゃうよ。 まあ、ずーっと恍惚となっていたらほんとにほとけになっちまいますから、いやいや娑婆に戻ってくるわけですが、ほんとにめでたい奴だなオレは、と自分でも思います。 今日はこの辺にしておきましょう。 愛と慈悲の導くままに

仏による愛の告白が止まらない

 そろそろ自分の信仰の話に戻ろうと思ます。仏典を読むうちに、 「わたしはお前を救う」 としか読めなくなったとこまでは行ったと思ます。「わたし」とは仏であったり菩薩であったりするのですが、とにかく、どうしてもそのお方は僕を救いたくて仕方がないようなのです。もちろん、仏典は僕だけに向けて書かれたわけではなく、すべての人に向けて書かれているわけですから、「わたしはお前を救う」とは、「わたしはすべての衆生を救う」という意味なのですが、読んでいる時は一人きりで読むわけですから、それは個人的には 「わたしはお前を救う」 と読めるわけです。その「わたし」が仏なのか菩薩なのかはもうどうでもいいです。ただただ、こんな自分をそんなにも案じてくださるお方がいるというだけで、この世に生まれてきた甲斐があったというものです。 「わたしはお前を救う」 という愛の告白が、延々と続くのですよ。ただでさえ膨大な仏典ですので、全部読んだわけではありませんが、来る日も来る日も、毎日毎日、四六時中、 「わたしはお前を救う」 という愛の告白が続くのです。延々と、延々と、手を変え品を変え、ありとあらゆる言葉で、愛の告白が続くのです。これでもか、これでもかと続くのです。これでも、まだわからないのか、という調子で続くのです。 仏は僕を好きで好きでしょうがないらしい。 僕の中にみなさんもはいっているので、みなさんが嫉妬する必要はないです。 仏の救いはみなさんにも必ず届きます。 信じてなくても届くのです。 「信じれば救われる」 ではなく 「救われるから信じろ」 なのです。だって、仏の慈悲って、無償の愛ですからね。 それがいつかはわかりません。僕はもうとっくに来ていると思いますが、見えない人のためにもう一回来ると思います。つまり 「救われれば信じる」 ですよね。みんなそう思っていますよね。誰だってそうですよね。そしてそんなことは仏は百も承知です。 愛と慈悲の導くままに

やっぱり「悪人正機説」のお世話になることに

 本当のクライマックスを書いていたら、いつの間にか自分が悪者の側に立っていて、無償の愛で救われる筋書きになっていました。 そんなはずじゃなかったんですが 「愛と慈悲の導くままに」書いたらこうなちゃったんですよ 「自分にやましいところがあるんじゃないの」 まさにその通りだと思います。自分の心の中にもあのイブリース(悪魔)は住んでいるのですから。こうしてみると、やっぱり親鸞の 「悪人正機説」 じゃないと困るわけですよ、僕は。これ、今でも何かと物議をかもす説ですが、これを批判する人は、自分はさも善人であるかのような顔をして言うんですよね。キリストに 「自分が今まで罪を犯したことがない人だけ、石を投げなさい」 と言われて、女に石を投げちゃうタイプですかね。ああ、おそろし、おそろし。 こうして、図らずも、親鸞の「悪人正機説」でなければ救われないことを、自分で証明するハメに。 でも、これで良かったのかなと思っています。 愛と慈悲の導くままに

本当のクライマックス

 さて、おごり高ぶったものが滅亡する様は、これまで歴史上で何度も繰り返されてきたことですが、それで終わりではなく、その後に最大のクライマックスがまだあるはずだ、と僕は思うわけですが、それを試みに書いてみようと思います。 「悪を倒す最大の攻撃は”無償の愛”である。悪魔はこれが一番の苦手で、これをやられると本当に困ってしまい、参ってしまい、悪魔が悪魔でいられなくなる。」 前にこう書いたと思います。でも、歴史上で悪が滅ぼされるとき、多くは暴力などの力によって倒されることが多く、”無償の愛”によって倒されたのではないように見えますね。 力によって悪を倒すとき、敵を悪に見立てて、敵を殺すということですね。 ところが、”無償の愛”によって悪を倒すとき、敵を殺すのではなく、敵を味方に変えて、敵を生かします。 これが、愛で倒すことのすごいところです。わたしたちに命を与えてくださったのは神なのですから、そのすべての命を生かす御業をお持ちのはずです。 ”汝の敵を愛せ” と神が言うのはそういう意味でしょう。 ”殺してはならない” 仏教でも殺生は禁じられています。 だから、本当のクライマックスはこれからで、おごり高ぶったものたちが倒された後、無償の愛によって救われて、悪魔の手から神の手に取り戻される。放蕩息子が最後に父のもとに帰ってくるように。敵が味方になって帰ってくる。 悪魔が悪魔でいられなくなる、とはそういう意味です。 でも、しでかした罪に対しては償いをしなければなりません。悪事は帳消しにはならない。なぜなら行為には結果が伴うからです。では、誰がこの落とし前を付けるのか。 神ご自身がおとしまえをおつけになる そして、悪事をしでかしながら、神に罪をなすりつけて、自分はのうのうと天国に行く。 そしてここは極楽浄土の蓮の池の前。そこから池の底を見ると地獄の様子が良く見えます。罪を犯した者が地獄の炎に焼かれて罪を償っています。そして、自分の罪を代わりに償っているのは自分の最愛の一人子、最愛の息子であるのを目撃する。たとえ生前に息子がいなくても、自分の命にかえても守りたい存在が、自分に代わって罪を償っているのを目撃する。 もう、天国どころではありません。極楽どころではありません。 こんなことなら、自分が地獄に行った方がマシだった。いまからでも遅くはない。 こうして、せっかく天国に行ったの...

イブリース、その見事な”負けっぷり”

 悪魔、すなわち稀代の名悪役イブリースは最近ちょっとやり過ぎだと言いましたが、僕は実はそんなに絶望してません。近視眼的に見れば悪が栄えてるように見えても、それはあくまでも一時的な繁栄に過ぎない。歴史を見れば、おごり高ぶった者が滅亡しなかったためしはありません。おごり高ぶった帝国しかり、おごり高ぶった権力者しかり。歴史はおごり高ぶった者の滅亡の歴史といっても過言ではない。そして、そのおごり高ぶった者が破滅するときの破滅に仕方といったらもう・・・ やっぱりイブリースは稀代の名悪役ですね。一時的に大いに栄え、おごり高ぶった絶頂のところで破滅させられるその負けっぷり、やられっぷりといったらもうやっぱり ”稀代の名悪役” としか言いようがありません。イブリースはその破滅っぷりを歴史の舞台で何度も何度も、いろんなパターンで演じて見せてくれました。そしてこれからもその見事な破滅っぷりをわたしたちに見せてくれることでしょう。 神は”高いものを低くされる”のがお好きなようです。 本当の悪は、自分が”ワル”だと承知して悪を行うものではなく、自分を神に等しいものと思いあがって無慈悲な行いをする者だと思います。本当の悪は、天使を装う。光を装う。 神は愛なのに、どうして無慈悲な行いと相容れることができましょう。 仏は慈悲なのに、どうして無慈悲な行いと相容れることができましょう。 その瞬間、悪は馬脚を露わす。 こうして悪は常に滅ぼされ、破滅させられるわけですが、そこでめでたしめでたしで幕が下りるのではなく、最後にもう1回、大きなどんでん返しがあると僕は思っているんですね。 それは次回に書こうと思います。 愛と慈悲の導くままに