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「孝」の先にあるもの

 「孝」を親から見るとどうだろう。 僕も親のはしくれだからわかりますが、子に恩返しなんか求めてません。親の子に対する愛は ”無償の愛” だから 子が幸せになることが最大の親孝行 じゃあ、「孝」を神から見るとどうだろう。 神様は私たちに恩返しなんか求めてない。神の私たちに対する愛は ”無償の愛” だから わたしたち生きとし生けるものが幸せになることが神に対する最大の親孝行 神様はご自分が愛されることなんか求めていない それより、神さまが愛するところの人を、いのちを、わたしたちも愛することを求めている 人を愛することがすなわち神を愛することであり、いのちを愛することがすなわち神を愛すること 人を愛さなければ神を愛したことにならないし、いのちを愛さなければ神を愛したことにならない だから、「敵を愛せ」とまで言うのでしょう。でもいきなりは無理だから、「隣人愛」を説くのかな。僕は無理しないことにしてるんです。敵を愛するほどの重荷はキリストに、阿弥陀仏に背負わせて、まずは隣にいる人から愛そうと。 今は無理でもいつかはね。 愛と慈悲の導くままに ←

芸人さんを無条件に応援したい

 仕事の喜びの大切な要素の一つが ”他者を喜ばせること” すなわち利他にあると思うのですが、それを一番身をもって感じている人たちは「芸人さん」なのかな、とふと思いました。 人を笑わせるって、至難の業じゃないですか。ちょっとでもタイミングを外すと「すべっちゃう」。僕には到底できない。 で、それがうまくいったとき、人は笑うわけですが、ヒトが笑っている時って無条件に幸せなんですよね。これまでのいやな思いとかつらい思いとか、一時的に忘れちゃう。そして笑っている人の幸福感が、笑わせた人に真っすぐ跳ね返ってきて、笑わせた当人も強烈な至福を感じる。それが原動力になって、「芸人」って職業をなさっているのかな、ってふと思いました。 だから、芸人さんとか、落語家とか、僕らを笑わせてくれる仕事をしている人たちを、まずは無条件に僕は応援したいと思うのです。 愛と慈悲の導くままに ←   →

儒教について腑に落ちたこと

 儒教では「孝」を説きますね。つまり”親孝行”の「孝」。 なんで親孝行がそんなに大切か、今まで腑に落ちなかったんですけど、中江藤樹(江戸時代の儒学者)を読んで腑に落ちました。 私たちは親の子ですね。当たり前ですけど。親のおかげで自分があるのだから、その恩返しとして親に尽くすのは当たり前と。でないと忘恩の輩になってしまう。確かに。 で、その親ですけど、それをずっと辿っていくと、この宇宙の生みの親に行くわけです。つまり神ですね。でも儒教では神とは呼ばず「太虚」とか言っているみたい。 とにかく、わたしたちすべてはそこから生まれたから本当は皆兄弟であり、みんな神か太虚だか仏だか知りませんが、その子であると。だからその恩返しとして神だか太虚だか仏だか知りませんがそれに対して親孝行しなければならないと。 でも、ここからは僕の一人合点なのですが、神だか太虚だか仏だか知りませんが、それに孝行する前に、この世で直接の生みの親である自分の両親に孝行もできない者が、どうして神だか太虚だか仏に孝行することができようか。 ああ、だから儒教はうるさく「孝」を説くんだな。まずは親孝行せよと。 それは究極の親である神に、仏に、直通している。 愛と慈悲の導くままに ←   →

よりよく生きるための利他

 利他的行動について考えていたら、どんどん違う方向に行ってしまい戻れなくなりそうなので、ここらでまとめたいと思います。 前に利他を意識するのは自分がよりよく生きるためだと書いたのですが、社会人として生きる上で、二つの理由があります。 まず一つは、利他を意識することで喜びが倍になるということです。仕事をする目的はもちろん、 ”食うため” ですね。きれいごとなんか言っている暇はありません。そのためには金が要る。そしてその金を得るのがまず第一の喜び。 ところが、今の社会を見渡すと(昔もそうかもしれませんが)、仕事の喜びがそれだけで終わっている。給料がいいかどうか、どれだけ稼げるか、そればっかですね。 ところが、仕事と言うのは他者の利益になることをするわけです。そして、他者のニーズを満たしたとき、その他者が「ありがとう」といって報酬をくれるわけです。その「ありがとう」と言われたときの喜び。これが第二の喜び。 だから、利他を意識することで喜びは倍になる。当たり前の話です。そして、他者が「ありがとう」という度合いが深いほど、または頻度が多いほど、多くの仕事をしたことになり、報酬も増える。つまり、金を得るという第一の喜びも増えるわけです。 逆に言うと、仕事をしていても、人の役に立っているという実感がないと、つまり人に「ありがとう」と言われる場が欠如すると、仕事の喜びは半減します。そして生きる喜びも半減。喜びの源泉が金しかない。こうなったら人は人としての魅力を失うでしょうね。金はあるけど魅力のない人生。たぶん、その金だって長続きしない。金の出どころは仕事における利他的行為にあるんだから。 そしてよりよく生きるために利他を意識するもう一つの理由は、上記のこととも関連しますが、 「悪に堕ちないため」 です。利他を忘れて金だけを得ようとすれば、他人をだましたり、他人から奪ったりするほうが手っ取り早い。こうして「悪徳業者」となり、悪に堕ちます。当然、他者に損害を与えるわけですから、他者から「ありがとう」と言われる喜びを失います。これって大損じゃないですか。人生の喜びの半分を失うんですよ。半分どころか、その喜びはずっと大きいかもしれない。もしかしたら、「生きがい」になるくらい大きいかもしれない。これさえあれば「食うため」の金くらい自然とついてくるくらい大切かもしれない。大切と言うか強...

人口の問題について(2)

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 人とイネ、人と家畜の関係を考えていたら、以前のポスト (人口の問題) での食物連鎖のピラミッドについて少しわかったことがあったので、ここで付け加えておこうと思います。 ヒトは食物連鎖のピラミッドの最上位にいるので、そのヒトが爆発的に増えたら、それを支える下位の動物や植物もそれに比して増えなければならないのに、そうなってないから、人口減少は避けられないと考えたのですが、人口の増加とともにその食糧となる植物(イネやコムギやトウモロコシなど)や動物(牛、豚、鶏、ヒツジなど)は農耕と牧畜によって増えていますね。そうみると、生態系のピラミッドはヒトを中心としてかなりいびつだけど一応成り立ってんのか。どうでしょう? でも、食糧以外にも、木材のために森林を伐採したり、土地開発のために自然を破壊したり、漁業で魚を網で一網打尽にしたり、やはり人口増加は生態系に過剰な負荷はかけてるでしょうね。 では、ヒトが生態系とバランスを取りながら持続的に生存可能な人口はどれくらいなのか? この問題はもう僕の手には負えないので、生態学者やそのほかの研究者の方、よろしくお願いします。 愛と慈悲の導くままに ←   →

アニマルウェルフェア(動物福祉)

 前回は人とイネの関係について考えましたが、それは人と動物(家畜)の関係についても当てはまるのかなあと思ったので、今日はそれについて考えてみたいと思います。 人はイネを食料として栽培してますが、イネから見ると、人に栽培させることによって自己の種を繁栄させているとも言える。人を利用して野生の植物に比べて圧倒的に自分たちを増やすのに成功しているわけです。人はほとんどイネの奴隷だったりして。少なくともイネはそう思っているかもよ。 ではウシはどうか。 人にミルクを供給するかわりに、人に自分たちを肉食動物から保護させて、他の野生の哺乳類がどんどんその数を減らしてきたにもかかわらず、自分たちだけはその数を増やしてきた。圧倒的に増えている。人はウシを飼いならしたつもりで、実は利用されていたりして。人はウシのしもべ?実際インドではウシは神様だし。 ニワトリも卵を供給する代わりに、人を利用して数を増やすのに成功している? ヒツジは毛を人に供給する代わりに、人の保護のもとで数を増やしてきた?オーストラリアでは人の数よりヒツジの数の方が多いでしょ。 でも、家畜は肉として殺されて食べられる場合もある。それはかわいそうだけど、それで数が減ったかと言うと、それどころか数は増えてるでしょうね。食べるためにも人は彼らを減らさないように、というか、それどころか一層増やそうとしてきた。結局食べられる以上に増えてるね。それはイネの場合と同じ。 じゃあ彼らは幸せかというと、そこが問題。 これまで肉食獣に捕食されるのにおびえながら生きることはなくなったのは彼らにとってもいいことでしょう。エサの心配もない。それを心配するのは人の役目。しかし、ブロイラーみたいに狭いところにぎゅうぎゅう詰めにされたら、ストレスでとても幸せとは言えない。 でも、家畜にストレスがかかると、免疫力が落ちてすぐ病気になりやすくなる。鳥インフルエンザなんかその典型で、一気に何万羽も処分される。それって人にとっても大損失じゃないですか。また、ストレスの少ない平飼いの卵の方が美味しい。 結局、動物にストレスがかかると病気になりやすいし、味も落ちる。 やっぱり動物も健康でストレスのない環境の方が、免疫力も高まり病気になりにくいし、味もいい。 今、アニマルウェルフェア(動物福祉)が言われるようになってきたけど、それって動物のためであるよう...

人と稲の関係にある利他的要素

 人と稲の関係を稲(イネ)から見たらどうなるのか。 イネは人間に食われるためにだけにあるかわいそうな存在のようですが、本当にそうかな。 植物にとっては自分の生息区域を拡大して自己の種を増やすことは最大の目的ですね。では、イネはヒトに栽培される前の野生種から比べて、増えたのか、減ったのか。 もうこれ以上できないほど、最大限に生息区域を拡大してますね。ヒトによる品種改良によって野生ならば生存できないような北の北海道まで。もともと熱帯種ですよ。また、水田に出来るところはどんなところでも、山の斜面でさえも棚田をつくって、海や湖だったところも干拓して無理にでも、植えられるところは極限まで植えられて日本中に、世界中に広がってきた。 イネはヒトを利用してその生息区域を最大限まで広げることに成功したと言えるでしょう。勝ち組?植物界の?小麦もそうだよね。トウモロコシも。 その代償として人に食われますが、それでもいいじゃないですか。結果として野生のときとは比べ物にならないほど増えているんだから。つまり、彼らにとってはヒトに食われるデメリットよりも自己の生息区域を拡大させたメリットの方が大きい。それも断然大きいのです。 ヒトが稲を育てるために費やした労力と言ったら、もうそれは昔から大変なもので、涙ぐましいほどです。はっきり言って命を懸け、命を張って稲を守り育ててきたんじゃないですか。江戸時代までは人口のほとんどは農民でしたね。人間のほとんどみんなが稲に至れり尽くせりのサービスをして仕えてきたのです。 自分を相手に食わせるという究極の利他的行為の見返りは、自らの種の空前の繁栄。 これは奥が深い。 利他が損だという見方は物事を表層でしかとらえていない。 利他的行為を通して、相手を支配していると言えるほどだ。 もちろん、人もイネに奉仕することによって自らの食糧を得る。そして自らの数を増やし、その生息区域を広げる。 人と稲の双方が、利他と自利が連動してWINWINの関係になってますね。 宗教の説く愛と慈悲とは利他でしょうが、それは結局わたしたちの繁栄のためなのです。 愛と慈悲の導くままに ←   →