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移民について

 現在、アメリカをはじめ日本でも、そして世界中で移民についての議論が沸き起こっているので、僕も考えざるを得ませんでした。これまで話すはずだった宗教の道からはちょっとそれてしまいますが。(なかなかキリスト教からイスラムに行けないなあ) そもそも移民って何なんだ? 私たちは移民でないのか? そもそも我々はどこから来た? 神からです。 というのは置いといて、現生人類は一人のアフリカの女性から始まった、とミトコンドリアDNAの解析から言われているそうです。ミトコンドリアは母系遺伝しかせず、それを辿ると一人の女性に行きつくと。それをイヴ(EVE)と呼び、彼女は東アフリカにいたらしい。 つまり、ホモサピエンスのルーツは東アフリカということですね。そこから世界中に人類は広がったわけです。つまり、アフリカ人以外全員移民じゃん。結局、移民反対を叫んでいる人も、ルーツは移民なわけです。じゃあ違いは何かと言うと、 「自分たちの方が先に来た」 これだけです。つまり、相対的に来るのが早かった。移民か、移民でないかは、絶対的なものではなく、相対的な尺度に過ぎない。 白人系アメリカ人だって当然ヨーロッパからの移民。ネイティヴアメリカンから見たら移民でしょ。今の日本人だって南方系の縄文人がいたところにモンゴルあたりをルーツにもつ系統が朝鮮半島経由でやってきた説が濃厚。(詳しいことはまだわかってないようですが) そして、今移民、移民って言い出している日本人だって、ちょっと前はハワイやブラジル、その他の地域に多くの移民を送り出していたわけです。 また、民族ごと移動することもしばしばある。ゲルマン民族の大移動とか、トルコ民族も今のウイグルあたりから移動してきたし、北方の民族もバイキングとして南下したりする。ネイティブアメリカンだってアジアからベーリング海経由でアメリカ大陸に渡って、南アメリカ南端まで到達した。 人類って移動するんですね。 では、他の生物は? 植物は自分では動きませんが、種を風で飛ばしたり、鳥に運んでもらったりして、生息地を広げている。植物だって移動するんですね。もちろん動物もしかり。魚も何千キロも移動するものもいますし、鳥だって北半球から南半球まで自由自在に渡る。 生き物も移動する 生命が誕生してからこの方、生命はあらゆる機会を逃さず、自らの生息域を広げようとしてきた。少しでも多...

キリストの復活について考えたこと

 昨日布団の中でキリストの復活について考えてたんですよね。どういう意味かなって。というか、わたしたちにとってどういう意味かなって。 正当な解釈は教会とかそちらに譲るとして、僕の個人的な、主観的な解釈なのですが、キリストが十字架にかけられたとき、群衆があざけって 「お前の神に助けてもらえ」 とか言いますよね。そして、キリストが息絶える時、何度か(3回だったかな) 「神は私をお見捨てになるのですか」 と神に訴えますよね。正確なところは、聖書を開けば分かると思いますが、今僕は神様に聖典を封印されているので開けない。みなさんはそうじゃないでしょうからご自分で聖書を当たってみたらいいと思いますが、このシーン、重いですね。 僕もさんざん仏を信じるとか、神を信じるとかここで公言してきましたけど、宗教を鼻から信じてない人や、宗教に敵意を抱いている人に危害を加えられて、なにも抵抗できず、いよいよ命も危なくなった時、 「お前の神に助けてもらえ」 などと言われてあざけられたらどうしましょう。 「神様、仏様、僕をお見捨てになるのですか」 とでも言おうかしら。でもキリストのときもそうだったけど、神は、仏は、やっぱり助けに来ない。 絶望するしかないのか・・・ だから、キリストは復活したんだな。 これがないと、絶望で終わる。 だから、たとえ助けが来なくて、見捨てられて、死んだように見えても、実は死んでないんですよ。なぜなら、僕たちも必ず ”復活するから” 愛と慈悲の導くままに ←   →

愛と慈悲は同じなのか(すなわち神と仏は同じなのか)

 愛と慈悲は同じなのか 前回、愛は相手のことが好きで好きでしょうがなくて、相手の幸せを自分の幸せのように感じ、相手の悲しみを自分の悲しみのように感じることから、他者と自分が一つになることを指向すると考えたのですが、慈悲はどうなのか。 慈悲の「慈」とは相手を慈しみ、相手に喜びを与えたいという思いと行いであり、「悲」とは相手の悲しみを抜きたいという思いと行いを指します。すなわち、相手の喜びは自分の喜びであり、相手の悲しみは自分の悲しみだということですね。それはやっぱり 他者と自己が一つになることを指向する キリスト教の説く愛と、仏教の説く慈悲は、目指すところは一つ わたしたちが一つになること 神とか仏とか、愛とか慈悲とか、言葉ってめんどくさいなあっていつも思っていました。それについては最初の方のポストで書きましたが、私たちはいつまでもあれとこれとは違うとかこっちとあっちは違うとかいってお互いに否定しあって、死ぬまでそれを続ける。そして、世代が変わっても、何世代も、何世代も、何十年、何百年、何千年、何万年、何億年と、永遠にその調子でいく。 その時、神は、仏は、もうどっちでもいいけど、それをご覧になっている。 ああ、イスラム忘れてた。コーランでは「愛」という言葉はあまり見かけませんが、「慈悲」とか「慈愛」はよく聞きますね。慈愛?慈悲と愛のミックスじゃん! ラーマクリシュナは「愛の洪水」でしたけど。 キリスト教が 「神は愛です」 と説き、仏教が 「仏は慈悲です」 と説くとき、愛=慈悲なら、神=仏ですね。A=B, C=D でB=DならA=C  Q.E.D. ってやつ。 なんか大雑把ですけど 愛と慈悲の導くままに ←   →

愛は新たな創造の原動力

 英語では日本語の「愛」と「恋」が同じ"LOVE"という言葉で表されていたということで、前回から色々考えていたのですが、そもそも愛ってなんだろう? というかLOVEって何なの? 愛するってことは相手が好きで好きでしょうがないってことでしょう。それが異性であれば恋となるだけで、好きな対象が同性であっても、友人、親、兄弟、息子、娘、そのほか様々な人間、そして人間以外でも、はたまたモノであっても、そして神であってもいいわけです。 その時、相手の喜びは自分の喜びのように感じ、相手の悲しみは自分の悲しみのように感じ、あなたの幸せは私の幸せ、あなたの不幸は自分の不幸となる。あなたとわたしは一つ。 あなたは私の一部であり、わたしはあなたの一部。あなたとわたしは離れられない。運命の絆によって一つに結び付けられていて、永遠に一つ。 自分と対象が不可分であり、一つであることを指向すること その象徴となる一番わかりやすい例が恋だから、英語では愛と恋は同じLOVEで済まされているんですかね。恋では実際に物理的(肉体的)にも一つになりたいと思う力が働くわけですが、そこから新たな命が生み出されるというのは、愛のもう一つの作用として極めて象徴的であり示唆に富んでいる。 私たちが信仰において神を愛するという時、神と一つになりたいんですよ。だから詩編でも神に恋するような詩を読んでしまうわけだし、シスターになることを「キリストの花嫁になる」とか言ったりするわけです。神を愛するって神に恋することなのかな。だからやっぱり両方"LOVE"でいいわけだ。 そして、神と一つになれたら、どうなるのかな。恍惚の中、天国に行って、それで終わり? 本当の恋の場合、新たな命が生まれるよね。 じゃあ、神と一つになったら、何か生まれるはず。新たな命として、私たちが再生されるんじゃないですかね。 神じゃなくても、わたしたちが何かを愛するとき、そしてその対象もこちらを愛してくれたら、つまりは愛が成就したら、何か新しい、そして素晴らしいものが生まれるんですよ。 あなたとわたしがひとつになったら、それで終わりじゃない。そこから新たな、もっと素晴らしいものが生まれ、新たな始まりとなる。そして、命を持った新たな始まりは独立した存在となって成長し、時が来ればふたたび、これら無数の新たな存在が、お互い...

もう完全に愛の虜(=神の虜)

 恋にうつつを抜かしてる場合ではない、ということで前2回は真面目なことを言いましたが、まだ恋の話にはまだ続きが。これを書かなければ愛について語れない。 ここでの愛とはキリスト教が説く愛のことなのですが、 恋とは全然違うじゃん! 確かに。僕もそう思っていたのですが。このブログはまず日本語で書いてから、AI(Google翻訳)を使って英語にもしてるんですが、これまでのポストの英訳を読んでみると、日本語の「恋」も「愛」も両方  "LOVE" と訳されていました。 英語で日本語の「恋」にあたる言葉はないんかい! 恋と愛は同じかい! 英和辞典を引いても"love"は愛と恋と両方の意味がありますね。日本語でも「愛」と言えば、「恋」に関係する部分がどうしても共鳴してしま。ならば、英語圏の人々が"love"という時はなおさら「愛」と「恋」が共鳴しちゃってるんじゃないですか。だって同じ単語じゃん。 それを嫌ってか、神学的にはアガペーとかいって、"love"じゃない単語を作り出したのでしょうか。でも、アガペーってなんかとっつきにくいよね。神学的響きがするし、難しそう。なんだよアガペーって。やっぱ愛でしょ。LOVEじゃなきゃダメなのよ、って思ってるのは僕だけかな。 仏教だと、 「仏は慈悲です」 となる。これはこれでいいんですけど、キリスト教だと 「神は愛です」 これを聞いただけで、ス・テ・キ・💖💖💖となってしまう。愛と聞くと、どうしても心の中のエモーショナルな部分、あの甘美な恋の部分が共鳴してしまい、 💖💖💘 となる。なんかずるくない、キリスト教。息子といい、愛といい、反則でしょ。といいながら、僕は 以前のポスト で「ほとけに口説かれた」とか書いてますから、仏教でも同じ道を辿れるのかもしれませんが、キリスト教の方が速攻💖💖💖となる。効果は最速、即効。 特に僕のように惚れっぽい人間は「愛」って言葉に弱いんですよね。 「愛、愛、愛、それは愛・・・(永遠につづく)」 ああ、タカラヅカの世界かよ。 もう完全に愛の虜です(すなわち神の虜です。だって神=愛なんだから) 愛と慈悲の導くままに ←   →

宗教は人類の生存のための最適解

 前回「善なる大義のために悪を用いてはならない」と言いましたが、生存が脅かされるような危機的場合はどうなのでしょう。 「ひとたび生存となると、すべてが許される」 生存が掛かった生きるか死ぬかの究極的状況では、道徳、法律、善悪の概念などすべてが無効となってしまう。  戦争で街が包囲され、食糧が尽きると人間は共食いを始めます。そしてまずは子供から食われてしまう。そんな恐ろしいことが・・・と思うでしょうが、中国の歴史ではよくあったようですし、20世紀においても、山崎豊子の小説「大地の子」で国共内戦で中国共産軍に包囲され、飢餓に陥った国民党側の都市での住民同士の「共食い」現象が描かれてます。少年だった主人公も「食糧」として狙われ、食われそうになったところ、包囲が一部解け、危うく虎口(人口?)を脱したシーンが描かれています。人間、飢餓状態になると他人が食糧に見えてくるらしい。第2次世界大戦でも食糧の尽きた軍隊で敵などの人間を喰う「共食い」は行われていたらしい。 仏教ではそれを「餓鬼道に堕ちる」と言う。文字通り、餓えて鬼となって人を喰らう。実際、この世でも現出した世界だった。 生存の危機にさらされると、善悪なんて吹っ飛んでしまいます。でもそれは仕方ないですね。自分はそうならないと思っている人は、そういう状況に陥ったことがないから言えることであって、単に今まで運が良かっただけかもしれない。運悪く、餓鬼道に堕とされたら、餓鬼となって人を喰っているかもしれない。 神はわたしたちに命を下さった。命は一番大切なものですね。命を頂いた者は、命を落とさないのが至上命令。だから生存のためならすべてが許される。 それは宗教の説く教えは矛盾しないのか。宗教は平和を説き、慈悲を説き、愛を説き、しかし、わたしたちは命をつなぐという至上命題のためにはどんなことでもする。 矛盾しないと思います。なぜなら、神の教えは、仏の教えは 「われわれ人類の生存のため」の最適解 だからです。安易に「生きるためには何でも許される」からといって自分の利益のことだけを考えてすべての人類が行動したら、たちまち右も左も戦争状態。そして、その戦争が「餓鬼道」を現出する。宗教が慈悲を説き、愛を説き、平和を説くのは、「生きるためには人を喰う」世界を作り出さないためです。 また、戦争でなくても、極度な貧困によって生活できなくなり...

善なる大義のために悪を用いてはならない~神がテロを禁じる理由

 いつまでも恋にうつつを抜かしてないで、少しは真面目な話もしようと思います。それは 「善なる大義のために悪を用いてはならない」 ということです。 よく、「大義のためには少しの悪も手段としては許される」と言う人がいますが、それは違います。もしそれを認めてしまえば、暴力と欺瞞、そしてテロをも認めることになるからです。 「善という大義を実現したいんだけど、私をもってしても力が足りないんだよね。だからちょっと不正をしよう」 などと神が言うと思いますか。それでは神が力不足ってことじゃないですか。全然全知全能じゃない。つまり、神じゃない。そんなことを言う神がいたとしたら、そいつはニセモノです。 結局、大義のために悪を用いることを許容する人は神を信頼してないんですね。神が全知全能であることを信じてない。つまり神を信じてない。信仰心が足りないんですよ。神を信じず、己の力を信じてるんです。 じゃあ、善なる大義のために、一見悪を手段として選ばざるを得ないような困難な事態に直面したらどうするか。その時は 「私は善なる大義のために困難に直面していますが、悪を手段として用いることはしません。善なる手段で最善を尽くし、後は神の御心にお任せします。」 と言うのです。つまり、 「善なる手段を尽くしたら、後は神様、あなたの責任ですよ。」 と言えばいい。そうしたら神は 「よくやった。後は私に任せなさい。私が始末をつける」 と言って下さるはずです。少なくとも僕はそう思っている。そう開き直っている。神を本当に信じているからです。慈悲深く愛であるところの全知全能の神が、わたしたちに、たとえ善なる大義のためであれ、悪の手段をそそのかすなどあろうはずがない。 どんな困難に直面しても、 「わたしは善なる手段でもってやるべきことはやりました。後は頼みます」 と神にゆだねる。神の神慮は測りがたく、すぐには大義が実現できないように見える時もあるでしょうが、それはわたしたちが短いスパンでしか物事を測れないからであって、神はわたしたちには測りがたいほど大きなスケールでお考えかもしれません。だから、「すべての人は救われる」と僕が信じているとしても、今すぐじゃないかも、とも思っている。でも、最後は必ずやってくれるんですよ、神が(仏でもいいけど)。だから神を信じて、仏を信じて 「善なる大義のために悪を用いてはならない」 ...