投稿

複数の妻を平等に愛するのは至難の業

 イスラムでは妻は4人まで娶っても良いことになっていますが、その場合、平等に愛さなければなりません。 では、マホメットの場合はどうかというと、彼の場合は4人以上の妻がいたようですが、その場合もきっちりとローテーションを組んで、日数にも偏りが生じないようにそれぞれの妻のもとを訪れていた様子がハディースに書かています。それでもある時、妻の中でも最も慎み深く遠慮しがちな性格の人が、最愛の妻のアーイシャに遠慮してか、 「私のことはこれからはスキップしていいわよ」 とマホメットに言う場面がハディースに描かれていました。 これって微妙ですよね。 そんなこと言われたマホメットはどう返せばいい? 喜ぶべきか悲しむべきか、どんな顔をすればいい? その時のマホメットの反応がどう書いてあったかはもう忘れました。僕は目下聖典を封印されているので詳しいことは実際にハディースに当たっていただきたいのですが、これを読んだ時の僕の印象はというと 「複数の妻を平等に愛するのは至難の業である」 ということです。 神の使徒ですらそうなのですから、ましてや一般の信徒が複数の妻を平等に愛するなど・・・ 新しい妻の方が若いから、古い妻はそっちのけで、今は新しい方に入り浸り、なんてことは絶対にダメです。ちゃんとローテーションを組んで平等に日数も配分しなければなりません。もちろん、愛情も平等に。 難しいですね。至難の業です。 だから妻は一人にすべきか、4人までOKなのか、後は神の御意思にお任せします。 愛と慈悲の導くままに ←

君と何度も結婚したい!

結局のところ、ここで書いてあることは、「惚れっぽい奴が宗教s(複数形)に惚れたらどうなるか」っての話かな、と思います。 自分はどうやら惚れっぽい質(たち)らしく、女性をすぐに好きになっちゃう。そして、 「君と何度も結婚したい!」 とか、気が付いたら言ってしまっているわけです。もちろんそんなにうまくいくはずもなく、いつも振られるんですけど、惚れっぽい質が治るわけもなく、懲りずにそんなことを続けていると、いつかは引っ掛かるお馬鹿さんも出てきて・・・ こんな甲斐性のない男に引っ掛かるなんて本当におバカさんね さて、こんなバカな人生を送ってきた仏罰でしょうか神罰でしょうか、素敵な菩薩に会えばすぐに惚れ、素敵な仏に会えばすぐに惚れ、素敵な神の子(キリスト)に会えばすぐに惚れ、偉大な神(アッラー)に会えばこれまたコロっといってしまい、ラーマクリシュナにたどり着いたころには何が何だかわからない。 仏だか神だか知りませんが、惚れっぽい質の者がそんなのに会ったら忽ち惚れるに決まってるじゃないですか。神も仏も罪なお方。 でもねえ、一つ困ったことが・・・ みなさん、本当に嫉妬深いんですよね。両方好きになっていいよ、とかまず言わない。私だけを信じなさいって言うんですよね。という割には、言っていること、すごく似てるんですけど。聖典って、わたしたちへのラブレターなんですけど、その口説きの文句が本当にそっくりで、 「本当はみなさん、同一人物(ていうか同一存在)なんじゃないの」 ということで、勝手に納得、勝手に解決。 愛と慈悲の導くままに ←   →

イスラムの定義

 僕は仏教を信じ、キリスト教を信じながら、イスラムに今来ているわけですが、そんなんでいいのか、自分はイスラム教徒と言えるのか、マホメットに聞いたところ、 「どうしてもわしと意見が合わないなら、せめて神を信じるとだけ言ってくれ。神にすべてをお任せしたとだけ言ってくれ。」 と言う趣旨のことをコーランで言っていたと思います。僕は前言った通り、今は聖典を神様に封印されているので、正確にその個所を引用することはできませんが、もう最後は、神を信じさえすればよい、神にすべてをゆだねるというならそれでよい、と言うことだったと思います。 つまり、イスラムとは 「神を信じること」 であり、イスラム教徒とは 「神にすべてをゆだねた者」 である、というのが僕の個人的な解釈です。つまり、仏教とかキリスト教とかヒンズー教とかいう宗教の一つとしてイスラムがあるのではない。僕の中では神も仏も一つなので、仏を信じる、キリスト教でもユダヤ教でも神を信じる、つまり唯一絶対無二の全知全能の存在を信じるなら、それはイスラムと同義だということです。 つまり、イスラム教徒とは 人間の自由意志の上に神の意志を置く者 だと思います。だから僕は仏教を信じ、キリスト教を信じながら、イスラムでもある、と自分では思っているのですが、それでいいかどうかは、神の意思にゆだねます。自分が 「神にすべてをゆだねた者」 であることは、間違いないのですから。 愛と慈悲の導くままに ←   →

インシャーアッラー(2)

 イスラム教徒は人と約束するときなど未来について言及するときは 「インシャーアッラー(神が望むなら)」 と最後に付け加えるのが習慣になっていますが、これっていいですね。イスラム教徒じゃなくても人は、いや人に限らずすべての生きとし生ける存在は、こう言うべきだ、と僕は思うのです。 いつも、誰かが 「私は〇〇します!」 と調子のいい未来の抱負を述べる時、 「何を無責任なことを言ってるのか。まるで自分が未来を支配してるような言い草だな。自分の希望を述べるのは勝手だが、どうしてそれが神の御意思と合致しているとわかるのか?神の意志にかなわないものは何一つ実現しないということを、わかっているのかな。」 と思っていました。人間、やればできるとか、可能性は無限大だとか、調子のいい励まし言葉が巷に溢れてますが、それを聞くたびに、その裏にある人間の傲慢さ、神を忘れて人間様がこの世の支配権を握っているんだぞ、という人間の傲慢さが見え隠れします。神の意志にかなわなければ、なにをやってもできないし、可能性はゼロなのです。 じゃあ、どう言えばいいのか? こう言うのです。 「私は〇〇します、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「来年は優勝します、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「次は金メダルを目指します、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「来年は合格します、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「来年は売り上げを3割増やします、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「次は何議席取ります、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「来年の経済成長は〇パーセントを目指します、神が望むなら(インシャーアッラー)」 こう言うことで、人間の自由意志の上に神の意志を置く。これは神の絶対的支配権を未来についても認めることの意思表示となります。つまり、信仰の表明ですね。そして、イスラム教徒が「インシャーアッラー」と言うたびに、神は微笑まれて、神に背くという原罪が浄められます。だから、私たちだって、未来について言及するたびに 「神が望むなら」 と付け加えれば、そのたびに神は微笑まれて、原罪は消えるのです。 それにしても、自分の過去を振り返ってみて、自分の希望通りになったことがありますか?なんと計画倒れになったことが多いことか。え?自分は違う?いつも有言実行したぞって?それは御立派ですね。少なくとも僕...

インシャーアッラー

 キリスト教では原罪を浄めるためにキリストの贖罪が必要だということですが、それならイスラムはどうなる? そもそも原罪って何? 神に背くこと? だから、イスラムでは1日に5回もお祈りしてるのかな。1日に5回もお祈りしてたら、原罪が生起するそばから浄められて、原罪が活動する暇もないもんね。 しかも、イスラム教徒って、しゅっちゅう 「インシャーアッラー」 って言ってる。これって、 「神が望むなら」 って意味だそうですが、もう日常会話で、何か約束をする時には、かならず「インシャーアッラー」って付け加えるみたい。これって、 「人間の自由意志の上に神の意志を置く」 ってことじゃないですか。これじゃあ、神に背きようがない。つまり、イスラム教徒が「インシャーアッラー」って言うたびに神は微笑まれ、原罪が浄められるってことでしょ。 少なくとも、僕はそう解釈してる。 だからイスラムで救われないなんてことはありえない。 愛と慈悲の導くままに ←   →

奇跡について

 そろそろキリスト教からイスラムに行こうかなと思っているのですが、キリスト教とイスラムについて僕が個人的に感じた違いの一つは「奇跡について」です。というより、聖書とコーラン、ハディースにおける奇跡の取り扱い方の違いと言うべきか。 結論から言うと、キリスト教は、というか聖書は、奇跡についての記述が多く、神の存在証明のしるしとしてあたかも奇跡を援用しているように僕は感じたのですが、それに対してイスラムは、というかコーラン、ハディースは、奇跡を信仰を強化するために援用していないと思いました。だから、僕にはイスラムは宗教の「進化系」のように感じた。 そもそも「奇跡」って何ですか? 神にとってはすべてが可能であることは僕も認めます。だとすれば、神がなされることはすべてなすべきことをなさったに過ぎず、「奇跡」と言うべきことは一つもない。それを人間が「奇跡」と呼ぶのは、人間にとってはその時点でその現象が理解不能だからであって、それは単なる人間側の「無知」に過ぎない。つまり、奇跡は人間の無知の度合いに依存するわけです。そんなものを基に信仰を打ち立ててどうするのですか? もし、奇跡をもって信じることの根拠としたら、奇跡が起こらなければ信じない、ということになりませんか。不治の病人を直したり、空中を飛んだり、死人を生き返らせたり、山を動かしたり、水の上を歩いたり、未来を予言したり・・・だから信じるというなら、今度は不治の病人を直せなかったり、空中を飛べなかったり、死人を生き返らせなかったり、山を動かせなかったり、未来の予言がはずれたりしたら信じない、ということになるじゃないですか。 奇跡を信仰の拠り所とすることの危険が、副作用が、ここにあります。 キリストだって、好き好んで奇跡をやったわけではないと思いますよ。「今の人はしるしを求める」とかいって苦言を呈してませんでしたっけ。それでも、わたしたちがあまりにも頑なだったから、「ちょっとだけよ」って感じでやってみせてくれたのです。だから、聖書に書いてあることは僕は信じているのですが、だからといって奇跡を宗教と結びつけることの危険性はキリストもわかっていたに違いない。 今でもカトリックの列聖の問題がありますね。聖〇〇とかいって聖人に認定されるためにはその聖人が奇跡を起こしたことが必須条件とされる。で、「奇跡」っていったい何なの?それで...

移民について(2)

 前回移民について考えたんですけど、整理するといくつかのパターンに類型化されると思います。 まずは、元の地で迫害を受けたりして命からがら逃げてくるパターン。いわゆる難民ですね。それから、本国で食い詰めて新天地を目指すパターン。そして、食い詰めた訳ではないけど一層の生活向上などを求めてより豊かな国へ移住するパターン。また、自分の能力を最大限に発揮するには本国では物足りなくて世界に飛び出すパターン。最後に、とにかく新しい未知なる世界に魅かれて今ある地を飛び出すパターン。冒険型ですかね。 実際にはこのパターンの幾つかが混合していることも多いでしょう。でも、まずは自らの生存を賭けて、生き残るために生命は移動する訳です。そして、自らを今以上に繁栄させるために移動する。そして、生命自体が自らの生息範囲を少しでも広げるために、好奇心と冒険心を武器に移動する。人類が宇宙に、火星に移住する計画を立てたがるのも、この生命の持つ本能の表れでしょう。 とにかく、人類が生物である限り、移民は止まりませんね。それは生命の自己拡大戦略として本能に組み込まれているのですから。 そしてこれからも、永遠に対立と交流が続くんでしょうね。でも、希望はありますよ。生命が移動するのは結局自己の繁栄のためなんですから、長期的には移民は人類、そして生命にとって必ずプラスに働く。だって、人類が火星に移住できたら、地球の生命体が宇宙にその生息区域を拡大したことになるのですから。 後はうまく共存できるような仕組みと体制作りが必要なんじゃないでしょうか。主役は若者ですね。若者って村から出たがるじゃないですか。そして都会に出たがる。地方の若者は東京に出たがる。そして少し前までは日本の若者はアメリカやヨーロッパに出たがった。未知なる世界にあこがれてかどうかは知らないけど、それでいいんですよ。若者はそうじゃないと人類が繫栄しないし、生命も繫栄しない。若者ってなぜか、宇宙に出たがるよね。酸素もないのに?息できないじゃん。でもそれでいいんですよ。 だから、とにかく移動する生命にたいして、僕はエールを送りたいと思っているわけです。 そして神も(仏も)移動する生命に対してエールを送ってるでしょうね。だって、あらゆる機会を逃さずに移動するようにわたしたちを仕向けているのは神様なのですから。 産めよ、増やせよ、 そして拡がれよ、ど...