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裏切られたっていいじゃないか

 裏切られたっていいじゃないか 突然ですが、そう思うんですね。というか、最近そう思えるようになってきたというか。 よく、「あんなによくしてやったのに!」とか言って、恩を仇で返されたみたいに言う話を耳にしますが、自分はどうです?自分が何か人から親切にされたり、恩を受けた時に、それを仇で返そうと思います?ささやかな愛を受けた時、待ってましたとばかり、 「よーし、この恩を仇で返そう。この機会を待ってたんだよね。」 とか思う人います?かなりのメンヘラでも、そこまでの重症はいないでしょ。例えば、電車で席をひとつとびに座っていて、二人連れの人が前に来たら、ちょっと横にずれて二人が並んで座れるようにしたら、その時みんな「すいません」とかいって必ず感謝の言葉を言ってくれますよ。言葉は無くても仕草で返してくる。それでも伝わります。いろんな人がいると思うけど、老若男女、全員感謝の気持ちは返してくれますね。そうされなかったときを僕は一度も経験したことはありません。別に席を譲ったわけじゃない。ただ横にずれただけですよ。たったそれだけの気遣いに対して、どんな人もそれを察知して感謝を返す心は備わっているわけです。 じゃあ、何で恩を仇で返す? よっぽど事情があったんじゃないですか。 その人だって、好きで裏切ったわけじゃないと思いますよ。何かそうせざるを得ないような、よっぽど差し迫った事情があったのです。だから許してあげたら? そもそも、恩を仇で返す人って、10人に1人もいないと思うんですけど、仮に10人に1人としましょう。それでも9人は好意を持ってくれてるわけですから、それで十分元は取れてる。僕は実は好意を持つ人が10人中たった1人でも元は取れると思ってます。二宮金次郎によれば人に施した恩は何百倍にもなると言っていたので。畑にまいた種のようにね。 だから、一人ぐらいに裏切られたってどってことないじゃないですか でも、何人にも裏切られ続けたら、それは問題じゃない? そうですね。それは問題ですね。自分の方に。例えば一人に裏切られたとしましょう。10人中1人はそういう人もいるとして確率10分の1。また裏切られたとしましょう。もしかしたらそういうこともあるかもしれないとして、また確率10分の1をかけて、10分の1×10分の1で100分の1。さらにまた裏切られたら10分の1×10分の1×10分の1...

あはれ、あはれ、憐れみたまえ

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 また讃美歌を作って歌ってみた あはれ あはれ 憐れみたまえ ←   →

一人が一人を救えば世界が変わる

 「一人でも救えたら御の字だよな」 って前回書いてて気づいたんですけど、みんながそれぞれ一人ずつ救ったら、それだけで世界中の人が救われることになりません? 一人が誰かを救って、その誰かがまた他の誰かを救って、さらにその他の誰かがさらに他の誰かを救って・・・ ついには愛が世界を覆いつくす 救うのは一人で十分じゃない? 救うってのは大義だから、愛するって言おうかしら 一人が100人愛して、後の100人は愛されるだけ、よりもそれぞれ一人が一人を愛する方が効率良くないか? いきなり命をあげるとか、体の一部をあげるとか、全財産をあげるとか、極端なことじゃなくて、ちょっとした気遣いでいいと思うんですけど。ちょっとした気遣い、ちょっとした愛ならできるでしょ? それなら長続きする。 長続きするってことが大事だと思うんですね。そしたら、小さな愛が、ちょっとずつ、ちょっとずつ、死ぬまで、毎日積み重なって、気が付いたら大きな、大きな愛になってると思うんですけど。 たぶん、それは、僕たちが想像しているよりはるかに、途方もなく大きくなってると思う。 まあ、とにかく、僕は無理しないことにしたんですよ。前にも言ったと思うけど。 愛と慈悲の導くままに ←   →

一人でも救えたら御の字

 最近は 「一人でも救えたら御の字」 だよなあ、って思うんですよねー。神が、仏が、すべての人を愛するように、自分もそうなりたいとは願うものの、すべての人って一人一人の総和なんですよね。ではまずその第一歩の一人から始めないことには始まらないじゃないですか。 で、その最初の一人って誰? 例の嫁? 「君子の道も夫婦から」って儒教でも説いているように、まずは妻でもいいじゃじゃいですか。 自分の親? 儒教がうるさく「孝」を説くのも、それが究極の親である神に直通するのは前に考えたこと。 で、よく考えてみたら、みんな最初の一歩からコケてない? 今AIに聞いてみたら、アメリカの離婚率は約45%、日本の離婚率は約32%とか。そういう僕だって何度も三下り半を突き付けられて・・・しょっちゅう崖っぷち。親孝行だってちゃんとできているかどうか。自信がない。 一番身近にいる人を愛することすら難しいですよね。そんなことで「すべての人を愛する」なんていつのことになるやら。 このブログだって、せめてたった一人だけでいいから届いたらなあ、と願って書いてるんですけど。アクセス件数見れば現実わかるよなー。 さて、気を取り直して続きを書こう。何の話だっけ?そうそう、まずはすべての道も一歩から、すべての愛も一人からってことでしたね。 それは一人以外は愛さないってことじゃない。一人をちゃんと愛せたら、みんなをもちゃんと愛せるようになれるんじゃないかなと。親をちゃんと愛せたら、神をちゃんと愛せるようにね。 つまり、上ばっか見てないで、ちゃんと足元を見ようと思う今日この頃なのです。 愛と慈悲の導くままに ←   →

照明さんという仕事

 前回は「スポットライトを浴びないかもしれないけど重要な仕事はいくらでもある」と言いましたが、ふと「照明さん」の仕事を思い出したのでちょっと書いておこうと思います。 「照明さん」って舞台で照明を担当する仕事ですね。まさに「スポットライトが当たる」んじゃなくて「スポットライトを当てる」仕事。 この前、津軽三味線の兄弟とピアノ連弾の兄弟のコラボコンサートに行ったんですけど、ふと「照明、きれいだなあ。いい仕事してるなあ」と思ったんですね。普通観客として照明に目を向けるってあまりないかもしれませんが。僕も少し舞台関係の仕事に携わったことがあるんですけど、舞台って出演者が主役ですが、それを支える人たちとして照明、音響、舞台監督、大道具・小道具、などそれぞれ専門のスタッフがいる。その人たちを全部別々に雇うわけですが、みなさん職人さんなので気難しかったりする。でも、腕はプロフェッショナルなのでその技に対しては敬意を払わざるをえない。どうしても一目置いてしまうんですね。舞台でも照明に助けられたってことも実はよくある。 これは「スポットライトが当たんないかもしれないけどこれがなければ回らない仕事」のほんの一例ですが、世の中には自分の知らない重要な仕事ってのがまだまだ沢山あるんだろうな。 ←   →

嫉妬について(2)

 前回は嫉妬について考えましたが、まだ言い尽くしてないことがあるなあと気付いたのでその続きを書きます。 相手に嫉妬する場合、役割が別々ならば脳の細胞と足の細胞のたとえで行けると思いますが、同じ役割の場合はどうなのか。 つまり、お互いが競争関係にある場合ですね。 そこには一握りの勝者と莫大な数の敗者がいる。 その目指す道が魅力的であればあるほど、死屍累々たる敗者がいるわけです。 しかし、競争によってお互いがしのぎを削り合うわけですから、全体のレベルは必然的に上がりますね。そうするとその座を射止めた勝者のレベルも当然上がる。そしてその勝者が社会で役割を果たすなら、社会の貢献度も当然上がる。 つまり、競争によって人類の全体としてのパフォーマンスは向上するわけです。 そして、その死屍累々たる敗者も、競争を通じて勝者のレベルを間接的に上げているわけですから、人類全体のパフォーマンスの向上に結果的に寄与していることになる。だから、やってきたことは決して無駄ではない。 勝者は敗者を含めたプレーヤー全体を代表してそこにいる。 どうやら、全体のパフォーマンスを高めるための手段として生命は競争というシステムを採用しているみたい。そもそも私たちが生まれるにあたってもそうじゃない?精子が卵子にたどり着く可能性って、何千万から何億分の一ですよ。一回の射精で放出される精子の数がそうだから。競争倍率何千万倍から何億倍。じゃあ、勝った精子くんはスーパーヒーローだな。 ということで、今回はあまり慰めにはならなかったかもしれないけど、夢破れても他者の夢の実現とそのパフォーマンスの向上、ひいては人類全体のパフォーマンスの向上に地味に貢献してたのも事実なのでした。 でも、できれば勝者になりたかったなあ。そりゃーね。 で、死屍累々たる敗者はどうすればいいのか? 潔く別の道を歩もう! ズコッ!夢をあきらめないで、とでも言うと思った? しょうがないじゃん。いつまでも引きずっててもさ。実は 「大きな命」 のなかの小さな細胞として、果たすべき任務はいくらでもある。人の細胞の数って37兆個ですよ。そしてそのひとつひとつが全部果たすべき役割を持って任務を果たしている。だったら人類全体でも数十億しかいないんだから、いくらでも仕事はあるはずだよな。一見地味でスポットライトは浴びないかもしれないけど、実はとても重要で...

嫉妬について

 嫉妬って誰にでもあると思うんですけど、人が誰かに嫉妬しているのを聞かされるのって本当にきつくないですか。 そういう僕だって嫉妬の感情はあるんですけど、ああ、今自分は誰かさんに嫉妬してるなって気付いた時の感じの悪さっていったら 「オレって最低。愛を語る資格なし」 他人の成功を素直に喜べないって、どんだけ器小さいんだよ そして誰かさんが他人に嫉妬してるのを聞かされる時のあの感じの悪さっていったらもう、 つらいというか、悲しいというか、せつないというか、いたたまれないというか、やるせないというか、救いがないというか とにかく悲しくて悲しくてしょうがない感じ。 人間だれしも嫉妬の感情はあるとは思いますが、それをなるべく人には言わない方がいいですよ。周囲にいる人たち全員が絶望しそうになるから。ものすごい負の波動が半径数百メートルに最速で伝わっていく感じ。 で、この嫉妬ってやつ、どこから来るかっていうと、他人と自分を比較することから来るんですね。相手と比べて自分が下と思えば嫉妬する。ってことは相手と比べて自分が上と思えば軽蔑するってことじゃん。どっちにしてもイヤなヤツじゃね?自分もそうか。 常に他者との相対的基準でしか自分の価値を測れないんでしょうね。その相対的価値基準から抜け出るために宗教がある。宗教って絶対的価値基準を持ってるから。 さて、前にも 「大きな命」 で書きましたが、わたしたちはみんなでひとつの「大きな命」を生きてると思うんですね。そしてわたしたちひとりひとりはその「大きな命」の細胞みたいなものかなって僕はイメージしてるんです。そしてひとつひとつの細胞にはそれぞれ役割がある。脳の細胞だったり、足の細胞だったり。だとしたら、足の細胞が脳の細胞に嫉妬したり、脳の細胞が足の細胞を軽蔑したりしたらどうでしょう?お互いに足を引っ張り合ったら全体としての体が調子悪くなっちゃうよね。脳だけあっても足がなきゃ動けないじゃん。頭で考えたことを実行できません。また足だけあっても脳がなきゃそもそもどこに歩いていくか決めらんないじゃん。どっちも必要なんですよ。結局、嫉妬と軽蔑は全体としての機能を損ない、それは個々にもダメージとなって跳ね返ってくる。 他者と自己がお互いに依存しあっており、その運命、その幸福も不幸も、お互いに避けがたく結びついている、ということが見えてない。 宗教...