奇跡について
そろそろキリスト教からイスラムに行こうかなと思っているのですが、キリスト教とイスラムについて僕が個人的に感じた違いの一つは「奇跡について」です。というより、聖書とコーラン、ハディースにおける奇跡の取り扱い方の違いと言うべきか。 結論から言うと、キリスト教は、というか聖書は、奇跡についての記述が多く、神の存在証明のしるしとしてあたかも奇跡を援用しているように僕は感じたのですが、それに対してイスラムは、というかコーラン、ハディースは、奇跡を信仰を強化するために援用していないと思いました。だから、僕にはイスラムは宗教の「進化系」のように感じた。 そもそも「奇跡」って何ですか? 神にとってはすべてが可能であることは僕も認めます。だとすれば、神がなされることはすべてなすべきことをなさったに過ぎず、「奇跡」と言うべきことは一つもない。それを人間が「奇跡」と呼ぶのは、人間にとってはその時点でその現象が理解不能だからであって、それは単なる人間側の「無知」に過ぎない。つまり、奇跡は人間の無知の度合いに依存するわけです。そんなものを基に信仰を打ち立ててどうするのですか? もし、奇跡をもって信じることの根拠としたら、奇跡が起こらなければ信じない、ということになりませんか。不治の病人を直したり、空中を飛んだり、死人を生き返らせたり、山を動かしたり、水の上を歩いたり、未来を予言したり・・・だから信じるというなら、今度は不治の病人を直せなかったり、空中を飛べなかったり、死人を生き返らせなかったり、山を動かせなかったり、未来の予言がはずれたりしたら信じない、ということになるじゃないですか。 奇跡を信仰の拠り所とすることの危険が、副作用が、ここにあります。 キリストだって、好き好んで奇跡をやったわけではないと思いますよ。「今の人はしるしを求める」とかいって苦言を呈してませんでしたっけ。それでも、わたしたちがあまりにも頑なだったから、「ちょっとだけよ」って感じでやってみせてくれたのです。だから、聖書に書いてあることは僕は信じているのですが、だからといって奇跡を宗教と結びつけることの危険性はキリストもわかっていたに違いない。 今でもカトリックの列聖の問題がありますね。聖〇〇とかいって聖人に認定されるためにはその聖人が奇跡を起こしたことが必須条件とされる。で、「奇跡」っていったい何なの?それで...