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インシャーアッラー(2)

 イスラム教徒は人と約束するときなど未来について言及するときは 「インシャーアッラー(神が望むなら)」 と最後に付け加えるのが習慣になっていますが、これっていいですね。イスラム教徒じゃなくても人は、いや人に限らずすべての生きとし生ける存在は、こう言うべきだ、と僕は思うのです。 いつも、誰かが 「私は〇〇します!」 と調子のいい未来の抱負を述べる時、 「何を無責任なことを言ってるのか。まるで自分が未来を支配してるような言い草だな。自分の希望を述べるのは勝手だが、どうしてそれが神の御意思と合致しているとわかるのか?神の意志にかなわないものは何一つ実現しないということを、わかっているのかな。」 と思っていました。人間、やればできるとか、可能性は無限大だとか、調子のいい励まし言葉が巷に溢れてますが、それを聞くたびに、その裏にある人間の傲慢さ、神を忘れて人間様がこの世の支配権を握っているんだぞ、という人間の傲慢さが見え隠れします。神の意志にかなわなければ、なにをやってもできないし、可能性はゼロなのです。 じゃあ、どう言えばいいのか? こう言うのです。 「私は〇〇します、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「来年は優勝します、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「次は金メダルを目指します、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「来年は合格します、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「来年は売り上げを3割増やします、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「次は何議席取ります、神が望むなら(インシャーアッラー)」 「来年の経済成長は〇パーセントを目指します、神が望むなら(インシャーアッラー)」 こう言うことで、人間の自由意志の上に神の意志を置く。これは神の絶対的支配権を未来についても認めることの意思表示となります。つまり、信仰の表明ですね。そして、イスラム教徒が「インシャーアッラー」と言うたびに、神は微笑まれて、神に背くという原罪が浄められます。だから、私たちだって、未来について言及するたびに 「神が望むなら」 と付け加えれば、そのたびに神は微笑まれて、原罪は消えるのです。 それにしても、自分の過去を振り返ってみて、自分の希望通りになったことがありますか?なんと計画倒れになったことが多いことか。え?自分は違う?いつも有言実行したぞって?それは御立派ですね。少なくとも僕...

インシャーアッラー

 キリスト教では原罪を浄めるためにキリストの贖罪が必要だということですが、それならイスラムはどうなる? そもそも原罪って何? 神に背くこと? だから、イスラムでは1日に5回もお祈りしてるのかな。1日に5回もお祈りしてたら、原罪が生起するそばから浄められて、原罪が活動する暇もないもんね。 しかも、イスラム教徒って、しゅっちゅう 「インシャーアッラー」 って言ってる。これって、 「神が望むなら」 って意味だそうですが、もう日常会話で、何か約束をする時には、かならず「インシャーアッラー」って付け加えるみたい。これって、 「人間の自由意志の上に神の意志を置く」 ってことじゃないですか。これじゃあ、神に背きようがない。つまり、イスラム教徒が「インシャーアッラー」って言うたびに神は微笑まれ、原罪が浄められるってことでしょ。 少なくとも、僕はそう解釈してる。 だからイスラムで救われないなんてことはありえない。 愛と慈悲の導くままに ←   →

奇跡について

 そろそろキリスト教からイスラムに行こうかなと思っているのですが、キリスト教とイスラムについて僕が個人的に感じた違いの一つは「奇跡について」です。というより、聖書とコーラン、ハディースにおける奇跡の取り扱い方の違いと言うべきか。 結論から言うと、キリスト教は、というか聖書は、奇跡についての記述が多く、神の存在証明のしるしとしてあたかも奇跡を援用しているように僕は感じたのですが、それに対してイスラムは、というかコーラン、ハディースは、奇跡を信仰を強化するために援用していないと思いました。だから、僕にはイスラムは宗教の「進化系」のように感じた。 そもそも「奇跡」って何ですか? 神にとってはすべてが可能であることは僕も認めます。だとすれば、神がなされることはすべてなすべきことをなさったに過ぎず、「奇跡」と言うべきことは一つもない。それを人間が「奇跡」と呼ぶのは、人間にとってはその時点でその現象が理解不能だからであって、それは単なる人間側の「無知」に過ぎない。つまり、奇跡は人間の無知の度合いに依存するわけです。そんなものを基に信仰を打ち立ててどうするのですか? もし、奇跡をもって信じることの根拠としたら、奇跡が起こらなければ信じない、ということになりませんか。不治の病人を直したり、空中を飛んだり、死人を生き返らせたり、山を動かしたり、水の上を歩いたり、未来を予言したり・・・だから信じるというなら、今度は不治の病人を直せなかったり、空中を飛べなかったり、死人を生き返らせなかったり、山を動かせなかったり、未来の予言がはずれたりしたら信じない、ということになるじゃないですか。 奇跡を信仰の拠り所とすることの危険が、副作用が、ここにあります。 キリストだって、好き好んで奇跡をやったわけではないと思いますよ。「今の人はしるしを求める」とかいって苦言を呈してませんでしたっけ。それでも、わたしたちがあまりにも頑なだったから、「ちょっとだけよ」って感じでやってみせてくれたのです。だから、聖書に書いてあることは僕は信じているのですが、だからといって奇跡を宗教と結びつけることの危険性はキリストもわかっていたに違いない。 今でもカトリックの列聖の問題がありますね。聖〇〇とかいって聖人に認定されるためにはその聖人が奇跡を起こしたことが必須条件とされる。で、「奇跡」っていったい何なの?それで...

移民について(2)

 前回移民について考えたんですけど、整理するといくつかのパターンに類型化されると思います。 まずは、元の地で迫害を受けたりして命からがら逃げてくるパターン。いわゆる難民ですね。それから、本国で食い詰めて新天地を目指すパターン。そして、食い詰めた訳ではないけど一層の生活向上などを求めてより豊かな国へ移住するパターン。また、自分の能力を最大限に発揮するには本国では物足りなくて世界に飛び出すパターン。最後に、とにかく新しい未知なる世界に魅かれて今ある地を飛び出すパターン。冒険型ですかね。 実際にはこのパターンの幾つかが混合していることも多いでしょう。でも、まずは自らの生存を賭けて、生き残るために生命は移動する訳です。そして、自らを今以上に繁栄させるために移動する。そして、生命自体が自らの生息範囲を少しでも広げるために、好奇心と冒険心を武器に移動する。人類が宇宙に、火星に移住する計画を立てたがるのも、この生命の持つ本能の表れでしょう。 とにかく、人類が生物である限り、移民は止まりませんね。それは生命の自己拡大戦略として本能に組み込まれているのですから。 そしてこれからも、永遠に対立と交流が続くんでしょうね。でも、希望はありますよ。生命が移動するのは結局自己の繁栄のためなんですから、長期的には移民は人類、そして生命にとって必ずプラスに働く。だって、人類が火星に移住できたら、地球の生命体が宇宙にその生息区域を拡大したことになるのですから。 後はうまく共存できるような仕組みと体制作りが必要なんじゃないでしょうか。主役は若者ですね。若者って村から出たがるじゃないですか。そして都会に出たがる。地方の若者は東京に出たがる。そして少し前までは日本の若者はアメリカやヨーロッパに出たがった。未知なる世界にあこがれてかどうかは知らないけど、それでいいんですよ。若者はそうじゃないと人類が繫栄しないし、生命も繫栄しない。若者ってなぜか、宇宙に出たがるよね。酸素もないのに?息できないじゃん。でもそれでいいんですよ。 だから、とにかく移動する生命にたいして、僕はエールを送りたいと思っているわけです。 そして神も(仏も)移動する生命に対してエールを送ってるでしょうね。だって、あらゆる機会を逃さずに移動するようにわたしたちを仕向けているのは神様なのですから。 産めよ、増やせよ、 そして拡がれよ、ど...

移民について

 現在、アメリカをはじめ日本でも、そして世界中で移民についての議論が沸き起こっているので、僕も考えざるを得ませんでした。これまで話すはずだった宗教の道からはちょっとそれてしまいますが。(なかなかキリスト教からイスラムに行けないなあ) そもそも移民って何なんだ? 私たちは移民でないのか? そもそも我々はどこから来た? 神からです。 というのは置いといて、現生人類は一人のアフリカの女性から始まった、とミトコンドリアDNAの解析から言われているそうです。ミトコンドリアは母系遺伝しかせず、それを辿ると一人の女性に行きつくと。それをイヴ(EVE)と呼び、彼女は東アフリカにいたらしい。 つまり、ホモサピエンスのルーツは東アフリカということですね。そこから世界中に人類は広がったわけです。つまり、アフリカ人以外全員移民じゃん。結局、移民反対を叫んでいる人も、ルーツは移民なわけです。じゃあ違いは何かと言うと、 「自分たちの方が先に来た」 これだけです。つまり、相対的に来るのが早かった。移民か、移民でないかは、絶対的なものではなく、相対的な尺度に過ぎない。 白人系アメリカ人だって当然ヨーロッパからの移民。ネイティヴアメリカンから見たら移民でしょ。今の日本人だって南方系の縄文人がいたところにモンゴルあたりをルーツにもつ系統が朝鮮半島経由でやってきた説が濃厚。(詳しいことはまだわかってないようですが) そして、今移民、移民って言い出している日本人だって、ちょっと前はハワイやブラジル、その他の地域に多くの移民を送り出していたわけです。 また、民族ごと移動することもしばしばある。ゲルマン民族の大移動とか、トルコ民族も今のウイグルあたりから移動してきたし、北方の民族もバイキングとして南下したりする。ネイティブアメリカンだってアジアからベーリング海経由でアメリカ大陸に渡って、南アメリカ南端まで到達した。 人類って移動するんですね。 では、他の生物は? 植物は自分では動きませんが、種を風で飛ばしたり、鳥に運んでもらったりして、生息地を広げている。植物だって移動するんですね。もちろん動物もしかり。魚も何千キロも移動するものもいますし、鳥だって北半球から南半球まで自由自在に渡る。 生き物も移動する 生命が誕生してからこの方、生命はあらゆる機会を逃さず、自らの生息域を広げようとしてきた。少しでも多...

キリストの復活について考えたこと

 昨日布団の中でキリストの復活について考えてたんですよね。どういう意味かなって。というか、わたしたちにとってどういう意味かなって。 正当な解釈は教会とかそちらに譲るとして、僕の個人的な、主観的な解釈なのですが、キリストが十字架にかけられたとき、群衆があざけって 「お前の神に助けてもらえ」 とか言いますよね。そして、キリストが息絶える時、何度か(3回だったかな) 「神は私をお見捨てになるのですか」 と神に訴えますよね。正確なところは、聖書を開けば分かると思いますが、今僕は神様に聖典を封印されているので開けない。みなさんはそうじゃないでしょうからご自分で聖書を当たってみたらいいと思いますが、このシーン、重いですね。 僕もさんざん仏を信じるとか、神を信じるとかここで公言してきましたけど、宗教を鼻から信じてない人や、宗教に敵意を抱いている人に危害を加えられて、なにも抵抗できず、いよいよ命も危なくなった時、 「お前の神に助けてもらえ」 などと言われてあざけられたらどうしましょう。 「神様、仏様、僕をお見捨てになるのですか」 とでも言おうかしら。でもキリストのときもそうだったけど、神は、仏は、やっぱり助けに来ない。 絶望するしかないのか・・・ だから、キリストは復活したんだな。 これがないと、絶望で終わる。 だから、たとえ助けが来なくて、見捨てられて、死んだように見えても、実は死んでないんですよ。なぜなら、僕たちも必ず ”復活するから” 愛と慈悲の導くままに ←   →

愛と慈悲は同じなのか(すなわち神と仏は同じなのか)

 愛と慈悲は同じなのか 前回、愛は相手のことが好きで好きでしょうがなくて、相手の幸せを自分の幸せのように感じ、相手の悲しみを自分の悲しみのように感じることから、他者と自分が一つになることを指向すると考えたのですが、慈悲はどうなのか。 慈悲の「慈」とは相手を慈しみ、相手に喜びを与えたいという思いと行いであり、「悲」とは相手の悲しみを抜きたいという思いと行いを指します。すなわち、相手の喜びは自分の喜びであり、相手の悲しみは自分の悲しみだということですね。それはやっぱり 他者と自己が一つになることを指向する キリスト教の説く愛と、仏教の説く慈悲は、目指すところは一つ わたしたちが一つになること 神とか仏とか、愛とか慈悲とか、言葉ってめんどくさいなあっていつも思っていました。それについては最初の方のポストで書きましたが、私たちはいつまでもあれとこれとは違うとかこっちとあっちは違うとかいってお互いに否定しあって、死ぬまでそれを続ける。そして、世代が変わっても、何世代も、何世代も、何十年、何百年、何千年、何万年、何億年と、永遠にその調子でいく。 その時、神は、仏は、もうどっちでもいいけど、それをご覧になっている。 ああ、イスラム忘れてた。コーランでは「愛」という言葉はあまり見かけませんが、「慈悲」とか「慈愛」はよく聞きますね。慈愛?慈悲と愛のミックスじゃん! ラーマクリシュナは「愛の洪水」でしたけど。 キリスト教が 「神は愛です」 と説き、仏教が 「仏は慈悲です」 と説くとき、愛=慈悲なら、神=仏ですね。A=B, C=D でB=DならA=C  Q.E.D. ってやつ。 なんか大雑把ですけど 愛と慈悲の導くままに ←   →