仏による愛の告白が止まらない

 そろそろ自分の信仰の話に戻ろうと思ます。仏典を読むうちに、

「わたしはお前を救う」

としか読めなくなったとこまでは行ったと思ます。「わたし」とは仏であったり菩薩であったりするのですが、とにかく、どうしてもそのお方は僕を救いたくて仕方がないようなのです。もちろん、仏典は僕だけに向けて書かれたわけではなく、すべての人に向けて書かれているわけですから、「わたしはお前を救う」とは、「わたしはすべての衆生を救う」という意味なのですが、読んでいる時は一人きりで読むわけですから、それは個人的には

「わたしはお前を救う」

と読めるわけです。その「わたし」が仏なのか菩薩なのかはもうどうでもいいです。ただただ、こんな自分をそんなにも案じてくださるお方がいるというだけで、この世に生まれてきた甲斐があったというものです。

「わたしはお前を救う」

という愛の告白が、延々と続くのですよ。ただでさえ膨大な仏典ですので、全部読んだわけではありませんが、来る日も来る日も、毎日毎日、四六時中、

「わたしはお前を救う」

という愛の告白が続くのです。延々と、延々と、手を変え品を変え、ありとあらゆる言葉で、愛の告白が続くのです。これでもか、これでもかと続くのです。これでも、まだわからないのか、という調子で続くのです。

仏は僕を好きで好きでしょうがないらしい。

僕の中にみなさんもはいっているので、みなさんが嫉妬する必要はないです。

仏の救いはみなさんにも必ず届きます。

信じてなくても届くのです。

「信じれば救われる」

ではなく

「救われるから信じろ」

なのです。だって、仏の慈悲って、無償の愛ですからね。

それがいつかはわかりません。僕はもうとっくに来ていると思いますが、見えない人のためにもう一回来ると思います。つまり

「救われれば信じる」

ですよね。みんなそう思っていますよね。誰だってそうですよね。そしてそんなことは仏は百も承知です。

愛と慈悲の導くままに


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