本当のクライマックス

 さて、おごり高ぶったものが滅亡する様は、これまで歴史上で何度も繰り返されてきたことですが、それで終わりではなく、その後に最大のクライマックスがまだあるはずだ、と僕は思うわけですが、それを試みに書いてみようと思います。

「悪を倒す最大の攻撃は”無償の愛”である。悪魔はこれが一番の苦手で、これをやられると本当に困ってしまい、参ってしまい、悪魔が悪魔でいられなくなる。」

前にこう書いたと思います。でも、歴史上で悪が滅ぼされるとき、多くは暴力などの力によって倒されることが多く、”無償の愛”によって倒されたのではないように見えますね。

力によって悪を倒すとき、敵を悪に見立てて、敵を殺すということですね。

ところが、”無償の愛”によって悪を倒すとき、敵を殺すのではなく、敵を味方に変えて、敵を生かします。

これが、愛で倒すことのすごいところです。わたしたちに命を与えてくださったのは神なのですから、そのすべての命を生かす御業をお持ちのはずです。

”汝の敵を愛せ”

と神が言うのはそういう意味でしょう。

”殺してはならない”

仏教でも殺生は禁じられています。

だから、本当のクライマックスはこれからで、おごり高ぶったものたちが倒された後、無償の愛によって救われて、悪魔の手から神の手に取り戻される。放蕩息子が最後に父のもとに帰ってくるように。敵が味方になって帰ってくる。

悪魔が悪魔でいられなくなる、とはそういう意味です。

でも、しでかした罪に対しては償いをしなければなりません。悪事は帳消しにはならない。なぜなら行為には結果が伴うからです。では、誰がこの落とし前を付けるのか。

神ご自身がおとしまえをおつけになる

そして、悪事をしでかしながら、神に罪をなすりつけて、自分はのうのうと天国に行く。

そしてここは極楽浄土の蓮の池の前。そこから池の底を見ると地獄の様子が良く見えます。罪を犯した者が地獄の炎に焼かれて罪を償っています。そして、自分の罪を代わりに償っているのは自分の最愛の一人子、最愛の息子であるのを目撃する。たとえ生前に息子がいなくても、自分の命にかえても守りたい存在が、自分に代わって罪を償っているのを目撃する。

もう、天国どころではありません。極楽どころではありません。

こんなことなら、自分が地獄に行った方がマシだった。いまからでも遅くはない。

こうして、せっかく天国に行ったのに、みんな思わず蓮の池に飛び込んでしまい、地獄に直行してしまいます。地獄は地獄でこれまた困ったことに。天から愛の光がどんどん降ってくるのですから。地獄が地獄でなくなってしまいます。

自分の罪をつぐなっていた自分の最愛の一人子とはキリストのことだ。または阿弥陀仏でもいい。神はわたしたちの罪を償うために、最愛の一人子を生贄にされた。その神の最愛の一人子とは、私たちひとりひとりの最愛の一人子だった。

それをわたしたちが本当に目撃するときが、最後の、本当のクライマックスではないか、と僕は思うのです。

自分に向けられた無償の愛を、本当に知る時ですね。これがあってはじめてわたしたちの心の中にある愛の光も、本当に輝きだす。仏性が花開くわけです。

なんか全然書ききれてない気がしますが、今日はこの辺にしておきます。

愛と慈悲の導くままに

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