すべての人は救われるのか~キリスト教編~

 すべての人は救われるのか?

今度はキリスト教に聞いてみましょう。

キリストは人類の贖罪のためにこの世に来たのですから、これですべての人が救われなかったら、十字架は何だったのか。また、「汝の敵を愛せ」と教えながら、自分の最大の敵である「信じない者」を愛さなかったら、そして救わなかったら、あの教えは何だったのか、と僕は思うのですが、キリスト教の教義としてはどうなのでしょうか。

キリスト教の聖職者の中にも、神の救いを異邦人(信じない人)にまで広げる人オリゲネスのような人はいたようです。オリゲネスは悪魔も最後には救われると説いたと今ChatGPTに聞いたら書いてあったので、イブリース(イスラム教の悪魔)も救われると僕が言ったのと似てるかな。でも、その考えは異端扱いのようですね。

そこでキリスト教最大の教父アウグスティヌスに聞いてみたのですが、彼は有名な著作の中で

”神の救いを異邦人(信じない人)にまで広げようとする人々もいるようだが、かれらがどうしてもそこまで言うなら、わたしは止めない”

という趣旨のことを言っていたと思います。これは微妙な答えですね。「そこまでいうなら私は止めない」とは。教会としては「すべての人が救われる」といってしまったら

「それを言っちゃあおしまいよ」

って感じで、ぶっちゃけ過ぎだということなのでしょう。でも、完全に否定することもできなかったのです。親鸞は認めましたし、日蓮も最後にはしぶしぶ「すべての人が救われる」ことを認めましたが、アウグスティヌスは狡猾に逃げを打ってきました。でも、本当はわかってたんだと思いますよ。すべての人が救われるってことを。僕にはそう思えるのです。仏教に限らず、キリスト教やイスラム教やヒンズー教にしろ、すべての偉大なる聖人の方々は、神が、仏が、最後にはすべての人を救って下さるってことを。でも、それを言ってしまったら、「みな安心しきってしまって」、かえって私たちのために良くないから、あえて言わないのです。

ということで、僕が言う「すべての人が救われる」という主張はキリスト教では表向きは異端扱いですが、本当のところ、奥義のところではさあどうですかね。

ああ、ルターに聞くの忘れてました。でも次はイスラム教に聞いてみます。

愛と慈悲の導くままに

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