聖典とは人類へのラブレター

 仏典を読んでいると、ほとけに口説かれているように感じる。

あまりにもしつこいので

「もうわかったよ。しつこいなあ。信じればいいんでしょ、信じれば。しょうがないから信じてあげます」

まるであのうるさいどっかの新興宗教の勧誘みたいですね。普通はこちらが必死に努力して、必死に修行して、やっとほとけが応えてくれる、ほとけが振り向いてくれる、神が振り向いてくれる、となるのでしょうが、どういうわけか僕の場合はその関係が逆転してしまっている。仏の方が必死になって、向こうからやってくる。ほとけが必死になって、なんとか衆生を振り向かせようとしている。

仏典とは仏が衆生に送った、渾身のラブレターなのです。

聖典とは神が人類に送った、渾身のラブレターなのです。

仏典とは、聖典とは、ほとけが、神が、どんなにわたしたちを愛しているかを必死になって伝えようとしている、人類に向けての愛の告白、愛のメッセージ、渾身のラブレターなのです。

仏典しかり、聖書しかり、コーランしかり、ハディースしかり、ラーマクリシュナの福音しかり、です。

僕にはあらゆる聖典すべてがそう読めてしまうわけですが、努力も修行もせずにほとけから、神から口説いてくるなんてずるい、とお思いかもしれません。でも、そのとき僕は、一心不乱に、無我夢中で、仏典に没頭してたので、周りから

「猛勉強している」

という風に言われたことがあります。そのときは

「猛勉強?」

とすごい違和感を感じたのですが、どうやらその人にはそう見えていたらしい。でも、勉強とか、努力とか、苦行とか、とはちょっと違うかな。それより大切なのは

「集中力」

だと思います。きっと集中力が高まってある閾値を超えると、トランス状態に入れる。いわば三昧に入れる。そのとき、ほとけが振り向いてくれる、神が振り向いてくれる、すなわち自分の言葉で言うと、

「慈悲の光を見た!」

「愛の光を見た!」

となります。そして、トランス状態に入るのに、禅宗では座禅によって集中力を高めて三昧に入ったり、イスラムの神秘主義ではクルクル踊ってトランス状態に入ったりするようですが、僕の場合、聖典を読んで集中するだけでそこに入れたようです。でも、この体験はどこまで行っても主観的なものなので、他者から「それは違う」といわれても、こちらとしては反論のしようがありません。

ということで、言葉では反論できませんから、もう僕に出来ることと言った歌うことくらいですかね。では、またオリジナルの讃美歌を1曲どうぞ





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