共鳴と深化のプロセス
仏教の聖典は数が多すぎて困ってしまいましたが、今思えばそれらはすべて仏の慈悲の表れだったんだなあと思います。そしてそれらはすべて有機的に結合しており、どれが上でどれが下だとか、どれを取ってどれを捨てるなどというのは仏の慈悲をないがしろにするものではないかと思うわけです。
イメージとしては仏典全体で一つの体全体をなしており、経典の一つ一つは体の部位のような感じでしょうか。または、「すべての人を救う」という究極の問題に対する仏の答えのプロセスという感じでしょうか。
たとえば法華経ですが、「すべての人は仏になる」という答えがいきなり示されているが、そのためにはどうしたらいいかよくわからん、というのがそのまま法華経を読んだ場合の素直な印象ではないですか。それは究極の問題に対する究極の答えであって、そこに至るまでの解答のプロセスが原始仏典から法華経に至るまで続いているのだと思います。まずは歴史上のブッダが法を説き、その後も慈悲の導きによって法は説かれ続け、共鳴と深化のプロセスを経て新たな仏典があらわれる。だから法華経にも
「この経典を広めるにあたって、ほかの経典の悪口を言ったりして広めてはならない」
と戒められているのです。難しい問題を解くのに、答えしかなかったらそこへ至るプロセスがわからなくなり、結局答えも理解できないではないですか。
そして、その共鳴と深化のプロセスは法華経が説かれた後も続き、さらに新たな仏典があらわれた。だから法華経後に成立した仏典もあるわけです。
そして、その共鳴と深化のプロセスは、永遠に続く。
さらには宗教の垣根を越えて、宗教間でも共鳴と深化のプロセスは続く。
ところで、いくらすべての仏典が有機的に結合して全体として一つをなしており、それぞれの優劣や取捨選択を論じるべきではないとはいっても、現実の問題としてよほど専門の僧侶でもないかぎり、仏典全部を読んで理解するのは不可能ですね。これでは多くの人を救うことはできない。そこで聖人たちは考えたのでしょう。ある経典に絞って教えを広めるしかないと。そこからさまざまな仏教の宗派が出てきたのでしょうか。または、こんなに仏典が多すぎるのは教えが言葉では説ききれないからだ、ということで座禅によって悟りを得るという宗派もあらわれたのかな。どちらにしろ、聖人たちは慈悲のお導きによって、どうやったら愚かなわたしたちが救われるのか、その方法をいろいろ考えてくださったのです。そしてどの道をたどっても、その道が慈悲から出ている限りは、救いに至るでしょう。そしてその救いに至る道の中で、答えに至るすべての共鳴と深化のプロセスが顕現されるのではないかと思うのです。つまり、一つの経典をよりどころにして、そこから慈悲の導くままに進めば、すべての経典が顕現されるということです。
何で長々とこんなことを書くのかというと、仏教間での不毛な宗派争い、そして宗教間での不毛な争いに未来も希望もないからです。
「愛と慈悲の導くままに」進めば、こう言うしかないではありませんか。
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