大乗仏典は偽経か?
大乗仏典はブッダの死後成立したので、偽経なのでしょうか。
確かに、歴史的実在としてのブッダが説いたのではないのでしょう。
では、誰が説いたのかというと、恒例の
「愛と慈悲の導くままに」
説いたのです。誰かが。
おっと、愛は神でした。そして仏は慈悲。だから仏教では
「慈悲の導くままに」
でした。
大乗仏典は「慈悲の導くままに」ブッダの死後説かれたのですが、ブッダとは慈悲なので、ブッダが説いたことになるのです。
原始仏典では悟りへの道が示されており、そのためには出家し、修行しなければならない。そうしてようやく悟りを得て、仏となる。
ところが、それで終わりかというと、そうはならない。
仏となってしまったら、出家もできず、修行もできず、だから仏にもなれない人々を見て何もしない、ということはあり得ない。どうしても、救われない人々を救うためにこの世に戻ってきてしまうのです。仏になれない人を仏にするべく法を説かざるを得ない。
大乗仏典では、仏になる範囲が出家者から在家にまでどんどん広がって、ついには
「すべての人がほとけになる」
とまで説かれるようになりますね。仏が慈悲なら
「そう説かねばならなかった」
慈悲の導くままに進めば、そう説かねばならなかった、そう説かざるを得なかったのです。
僕は前にも
「祈れば必ず神は、仏は聞いてくださり、さらに進むべき道を教えてくださる」
と書いたと思います。原始仏典によって悟りを得た人たちも、仏に祈ったのですよ。
「まだ悟りを得ないすべての人たちをお救い下さい」
って。そして、祈れば仏は必ず答えてくださる。そして進むべき道を教えてくださったのです。
一旦新たに教えが下れば、それまでの教えと
「共鳴しあう」
そして
「深め合う」
そしてさらに新たな教えが生まれる。このサイクルは僕が前に「真の宗教どうしが出会ったらどうなるか」で書いたパターンと同じですね。ブッダの死後、悟りを得た者が「慈悲の導くままに」説いた教えが、まわりの出家者や信者たちの信仰心と「共鳴しあった」とき、あらたな「仏典」として成立したのでしょう。そして救いの輪が広がる。そして、それまでの教えと「共鳴し、深め合う」ことで、次の新たな「仏典」が慈悲の導くままに説かれた。こうしてどんどん救いの輪が広がって、すべての人にまで救いの輪が広がる。
「すべての人が仏となる」
ところまで行きついたのではないしょうか。
ところで、大乗仏典のなかでも、時々「偽経」とされるものも出てきますね。それはある者が「慈悲の導くままに」説いたと称した教えが、周り人々から「共鳴されなかった」のではないでしょうか。そうっやって大乗仏典の中においても真の経典の選別がなされたのだと思います。
では、原始仏典はもう古いとか、最後に行きついた教えだけが意味があるのかというと、そうではないと思うのです。それについては次に考えたいと思います。
コメント
コメントを投稿