強制利他
話が脱線しすぎて「人は死んだらどうなるか」とかに行ってしまいましたが、その前に「今をどう生きるか」ですよね。
まずは人を救う前に自分を救え
ということで、めぐりめぐって行きついた僕の答えは簡単で
「働く」
です。仕事をするってことですね。その際、どんな仕事でもいいです。まっとうな仕事である限りは。
人を救うとかいってボランティアしたり寄付したりするのもいいですが、待てよ、その時の自分の食べ物やお金はどこからくる?まずは自分が自立していなければ、たちまち資金やリソースが底をついて逆に自分が施される側になってしまいますね。これではダメです。長続きしません。
または人を救うぞ、と意気込んで、マザーテレサのように貧しい人の中に飛び込んだり、チェゲバラのように革命の戦士となったり、ガンジーのように非暴力で民衆のために立ち上がったりとか。確かに憧れますが、偉大過ぎて、まぶしすぎて、目標が高すぎるとそれに比べて自分は何だ、と自己の無力さが思い知らされて逆に落ち込んでしまいます。これもダメですね。長続きしません。
思うんですけど神は、すなわち仏は、慈悲深い、つまりもっと優しいのではないでしょうか。その優しい神が、すなわち仏が、わたしたち全員に自己犠牲の塊のようなスーパーヒーローやスーパーヒロインの役を求めるかな。どんな人でもできるような簡単なことで、それでも幸せになれるようなことを用意してくださっているに違いない。
それが「仕事」だと思うんです。
自分の生活を立ち止まって見つめてみると気付きます。どれだけ多くの人々の労働に、すなわち仕事に支えられているかを。たとえばバスに乗りますね。まずはバスを運転する人。その人がいなければバスは動かないわけです。そしてバスを造る人。自動車会社がなければそもそもバスがないわけです。そしてバスを動かす燃料。ガソリンや軽油、場合によっては天然ガスが必要ですから、エネルギー会社。石油を掘る仕事も必要ですし、それを運ぶためにタンカーも必要ですし、ガソリンスタンドまで運ぶタンクローリーも必要でしょう。バスが電気で動くならば電力会社も必要でしょう。またバスは道路を走りますね。道路を作る仕事も必要。道路工事のときはガードマンも必要でしょう。そしてバスにのって買い物に行ったとして食料を買うとしましょう。豆腐を買ったとして、まずは豆腐を作る人、その原料である大豆を作る人、そもそも食料を売るスーパーの人、米を買ったらコメを作る人。もう生活のほんの一コマでさえ、それを支えている仕事を挙げだすとキリがありません。そしてその仕事のどれ一つが欠けても、世の中は回らず、自分の生活も立ち行かない。それらの仕事を担う会社の中には偉い人もいれば末端の人もいるでしょうが、偉い人だけいたって世の中は回らない。末端の人も必要不可欠なのです。それを指して「歯車」とかいって低く見る人もいますが、歯車だっていいじゃないですか。どんな大きな機械だって歯車一個欠けたらちゃんと動きませんよ。それが飛行機だったら大事故です。だから自分は歯車に徹し、その歯車として与えられた任務をきっちりこなす。または細胞でもいい。人の細胞にも細胞なりの役割があるでしょう。人の全細胞37兆分の1の役割を細胞一つ一つがこなしているように、神の細胞として与えられた任務をきっちりこなす。思えば人類100億もいないのですから、100億分の1って、37兆分の1に比べたらかなり大きいですよ。意外と責任重大です。そしてその一つ一つが担う仕事は全体が生きていくためになされる。つまり仕事とは利他的行動であるわけです。そして全体が生きてこそ、自分も生きられるわけですから、それは結局自分のためでもある。すなわち仕事においては利他的行動と利己的行動が一体化している。
よく、仕事をしても報酬をもらっているから利他的行動とは言えないという人もいますが、それは違うと思います。そもそも、何かを人にやってもらったら、「ラッキー!」とかいってそのままで済ましますか。どんな人にもプライドがあるでしょう。どんな人にも尊厳ってものがあるでしょう。何かしてもらったら、こちらからも与えなければ、こちらのプライドが傷つくはずです。つまり、こちらから何かをして報酬を受け取らなければ、相手の尊厳を傷つけることになりませんか。こちらがまるで神のような立場で無償の愛を与え、相手を低く見ている。救う者と救われる者の関係に自分と他者を置いている。これって思い上がりじゃないですか。だから、対等な人間である以上、報酬は受け取らなければならない。受け取ってもいい、じゃなくて受け取るべきなのです。
考えてみれば、働かなければ食っていけないってことは、利他的行動をしなければ生きていけないってことですね。どんなに利己的人間、どんなにエゴイストだったとしても、生きていくためには働く羽目になる。つまり
「強制利他」
ですね。なかなかこの世も捨てたもんじゃないぞ。このシステム、すごいじゃないかと思うんですけど。だから僕は、その人の性格がどうであれ、働いている人、仕事をしている人には、その部分に対しては無条件で敬意を表し、感謝の念を抱きます。聖職とはよく言ったものですが、世の中の仕事に「聖職」でないものなんかないと思いますけど。
もちろん、金儲けばかり考えるあまり、インチキをしたり、人をだましたり、必要のないものを売りつけたり、仕事はするにしても法外な料金を請求したりするのは、相手の利益を、ひいては社会の利益を損ないますから、仕事ではありません。そのような行為は「犯罪」として罰せられます。また、仕事をさせといてそれに見合った報酬を払わないのも「不当」ですよね。それは個々の細胞を弱らせ、ひいては全体の利益を損なうからです。
ということで、今をどう生きるかですけど、まずは「働く」ですね。
そして、大概の人はそれで精一杯でしょ。
それでいいんです。
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