神はすべての民族に一人ずつ預言者を遣わした

 このままお金の話を続けると政治・経済の話ばかりになってしまい、祈りのブログでなくなってしまいそうなので、そろそろ本題の宗教の話に戻りたいと思います。でも祈りだけでは人類は幸せになれませんよね。どうしても現実に関わらなければならない。そして現実とはなによりお金ですよね。

なんて現金な!

これについては、また後で必ず戻ってこようと思います。主権をお金から人間の手に取り戻すために。

ところで今、祈るだけでは幸せになれないと言いましたが、僕は本当はそうは思ってない。早速前言撤回ですが、

「人は祈るだけで幸せになれる」

実はこれが僕の本音です。なぜかというと、祈れば、神は、すなわち仏は、必ず聞いてくださるからです。そして、どうすればいいか教えてくれ、導いてくださいます。祈れば必ず答えてくれるのです。そしてあとは、恒例の

愛と慈悲の導くままに

進めばよいのです。

で、前回神は、ほとけは、わたしたちを憐れんで真の宗教を世界各地に降ろしてくださったのではないかと言いましたが、これがまたこのサイトで言いたかったことのひとつです。世界にはいろんな宗教がありますが、それぞれ、自分の宗教だけが正しくて、他は全部間違っていると主張しますよね。このどうしようもない不寛容性を乗り越えたい。それぞれは愛や慈悲を説きながら、この不寛容さはいったいどうしたものか。おそらく人間の理性というものに不寛容さが内在しているのでしょうか。自己を絶対とすれば、他者は必然的に認められなくなるのが道理ですよね。これを祈りで乗り越えたい。だから

愛と慈悲の祈り

なのですが。それで真の宗教はどこにあるのか、ですが、ある地域にだけ、ある時期にだけ、ある民族にだけ、神が、すなわち仏が、正しい教えを降ろしてくださったとは、僕にはとうてい信じられないのです。それは、僕が神を、すなわち仏を、本当に信じているからです。愛を、すなわち慈悲を、本当に信じているからです。神が愛であり、ほとけが慈悲であることをそのまま、額面通りに、受け取っているからです。

神がわたしたちを本当に愛してくださっているとすれば、ある集団にだけ、ある民族にだけ、ある時期にだけ、光の教えを垂れ、その他のすべての人々、そのほかのすべての集団、そのほかのすべての民族には、何世代にもわたって、何十世代にもわたって、何もせずに暗闇の中に放置し、迷いながら不幸に打ち沈むのを指をくわえてほったらかしにしていた、などということがありえるでしょうか。だからコーランでもこう説いているのです、

「神はすべての民族に一人ずつ預言者を遣わした」

という趣旨のことを。また法華経でも説いてませんでしたか、

「仏は数えきれない過去世において、あらゆる世界で法を説いていた」

という趣旨のことを。神が、仏が、本当に私たちを愛し、慈悲深ければ、こう説かざるを得ない。

(このサイトでは「はじめに」でお伝えしたように聖典の語句を引くことはしない、ということにしていますが、うっかり「出てしまう」かも、と書いたと思います。ですから、ここでの聖典の語句の引用は正確ではありません。お心当たりのある方は「ああ、あの部分のところを言っているんだな」と思っていただければ、ということでご了承ください)

そして僕はさらにそれを拡げて、

「神はすべての人の心に愛の種を降ろしてくださった」

「仏はすべての人の心に慈悲の種を降ろしてくださった」

と思うわけです。そうすると世界各地に降りてきたはずの真の宗教どうしが出会ったらどうなるか。その出所は等しいところ、神、すなわち仏から出ているわけですから、

「お互いに共鳴し合う」

はずです。そして

「お互いに深め合う」

のです。これは実際僕が個人的に体験したことなので、そろそろ書いていこうかなと思います。

神の愛は、仏の慈悲は、全宇宙を覆う

全宇宙をあまねく照らす愛の光が、慈悲の光が、極小の一点に過ぎない地球の、極小の地域しか照らさないなんてことがありえますか。

時を超え永遠不滅の愛の光が、慈悲の光が、この限られた一宇宙の歴史138億年の中のほんのひと時、ほんの一瞬だけ、人類を、それも限られた人類しか照らさないなんてことがありえますか。


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