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悪魔は”やられ役”

 結局、自分の心の中にいる悪魔はどこから来たんだろう、と考えると、それは「神から来た」と考えるしかなさそうです。 神に背くのが原罪だとして、人類を神に背かせたのは神なのですから。神が人類を 「かたくなにされた」 のです。あらゆるものの創造主であらせられるのが神なのですから、あらゆるものは一切、神の支配下にある。つまり人間も悪魔も神の支配下にある。 結局、悪魔って神に命じられた”悪役”なんですよね。そして最後は正義にやられて、神の栄光が輝きだすための ”やられ役” なんです。映画でもそうじゃないですか。そして悪役が強ければ強いほど、悪ければ悪いほど、クライマックスで正義によって倒されたとき、観客は歓喜し、感動するわけです。 今もってこの世は悪に満ちているなあ、希望はあるのかなあ、って絶望しかけても、それは神のシナリオなんじゃないですか。きっとものすごいどんでん返しが、感動のクライマックスが待ってるんですよ。 僕はそれがどんなクライマックスなのか、楽しみなんです。生きているうちに見られるかはわかりませんが。人生せいぜい100年、でも宇宙は138億年ですからねえ。でも、きっと見れると思うなあ。自分の心の中にある神は、仏は、永遠なのですから。

自由意志について考えたこと

 さて、原罪の話に戻りたいと思いますが(といいながら、ちゃんと原罪を理解してるかどうかはわかりませんが)、原罪って神に背くこと、つまりは傲慢だと思うのですが、でもどうやって? わたしたち人間がどうやって神に背くというのでしょう。 そんなことできんのかな よく聖書では(特に旧約)、神が次々に預言者を民のもとに遣わしますよね。そして、そのたびに民は預言者の言葉に耳を傾けないわけです。それも、「何回同じこと繰り返すの?」ってくらい、同じことの繰り返し。 でも、民が預言者に背いた時の聖書の表現がいつも気になっていたんですね、僕は。 「神はかれらをかたくな(頑な)にされた」 いつもこう表現されてませんか。神にとっては使役形、民のとっては受身形なんですよね。つまり、預言者を遣わしたのも神の御意思なら、民が背くのも神の御意思ってことじゃないですか。神が民を背かせたんですよ。結局 神の自作自演!? つまり、人間に自由意志なんてないってことじゃないですか。 これはルターも言ってたことだと思うんですけど。 わたしたちが自由意志を持っているように見えても、実は観音様の掌、または仏の掌の上で転がされているだけだった。仏教でもよくこんな風にイメージされてますよね。 そりゃそうですよ。わたしたちは神の中に住んでいるんだから。仏の中で生きているのです。 宇宙も神の子宮の中にあるとかラーマクリシュナも言っていた気がする。 どこまでいっても、わたしたちは神の御意思から逃れられない。 これって、悪にとっては絶望ですけど、わたしたちにとっては福音ですね。 だって、神って愛なんですよ。 わたしたちは神の愛から逃れられない そして、仏とは慈悲 わたしたちは仏の慈悲から逃れられない これでは、わたしたちが最後に救われないはずがない 愛と慈悲の導くままに

自作の讃美歌です

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 ルターは教会でみんなで讃美歌を歌うのを広めた最初の人のようですね。 しかも自分で作詞・作曲もしているらしい。 信心を得ると、自然と神を賛美する歌を歌いたくなりますよね。 僕もそうでしたので、いくつも勝手に讃美歌を作って歌ってました。 でも、歌詞はいらないですね。 僕にとって、神に対して、仏に対して、言えることはただひとつ 「憐れみたまえ」 これだけです。だからひたすらこれを繰り返すだけです。 救い主にたいしては、神と言えば仏がたたず、仏と言えば神がたたないので、アミヤと言ってます。阿弥陀仏とキリストを足したようなイメージですね。 CDも作ったんですけど(2006年)、ジャケットは友達のグラフィックデザイナーに頼みました。 これまでAIでつくった観音様のイメージをアップしましたが、こちらはちゃんとした芸術作品。芸大のお買い上げ作品だったようですが、有難く提供してくれました。キリスト教やイスラム教の方で、「偶像はちょっと」という方も、これは行けると思いますので、画像もアップしておきます。 音楽は僕です。まずはその中から1曲どうぞ こちらがCDジャケットです。 愛と慈悲の導くままに

原罪って何だろう

それにしても自分の心の中にいる悪魔って、どこから来たんですかね。 原罪? 仏教には原罪という概念はありませんね。そして、僕がキリスト教で原罪ということを聞いた時も、 「そんな罪を犯した記憶はないぞ」 と思ったものです。ちょうど仏教が説く輪廻について、西洋の人たちが 「前世なんて覚えてないぞ」 というような感じ。 でも、キリスト教ではよく神父さんが 「わたしたちはみな罪人なのです」 とか言って説教するじゃないですか。その感じは親鸞にもあったと思います。自分を極悪人と断じているわけですから。で、その原因である己の心の中にいる悪魔ですが、 ”そいつは原罪からくる” って考えると、「ああ、そうか」と僕は思うのです。この原罪のとらえ方がキリスト教に照らして合っているかはわかりません。僕個人が勝手にそう解釈して納得しているだけですけど。 でも、原罪って何だろう。 神に背いたから? どうやって? 人間が言葉を手に入れて、知恵を付けちゃったからですかね。そして、自分の力で何でもできるといい気になって思い上がってしまったのでしょうか。神様の助けなんかもういらない、仏さんなんかもういらないっていって、自惚れたんでしょう。 言葉すなわち理性 これが増長の原因。本当はその上に”霊性”ってものがあるんだけど。 霊性すなわち信仰 そしてこれがないと、人間は言葉と理性だけで、自分はなんでも知れる、なんでもできると勘違いする。自分こそが万能であると。 原罪とは傲慢 そんな風に僕は思うんですよね。 合ってるかどうかは知りません。 愛と慈悲の導くままに

悪人正機説

 自分の中にいる悪魔 こいつをいったいどうしたものか 自力ではもうどうしようもない。負けました。無理です。降参です。 無条件降伏 後は阿弥陀仏にすがるしかない そしてそんなあわれなわたしたちを救って下さるために、阿弥陀仏はご自分が仏になるのを犠牲にされた。 これが親鸞の説いた他力本願の教えですが、なんかルターの説教を聞いているような。 自分の中にいる悪魔 こいつをいったいどうしたものか 自力ではもうどうしようもない。負けました。無理です。降参です。 無条件降伏 後は神にすがるしかない そしてそんなあわれなわたしたちを救って下さるために、神はご自分の一人子であるキリストを犠牲にされた こうですよね 今は僕が仏教に入って、最初に親鸞に救われた話をしようと思っている段階なのですが、勝手にルターと共鳴してしまい、わけがわからなくなってしまいました。キリストを出すのはずっと後の予定だったのですが。 ちなみに、阿弥陀仏は成仏しましたよね。 そして、キリストは復活しましたよね。 つまり、わたしたちは一人残らず救われたんじゃないですか。 だからすべての人は救われるんですよ。 自分の中に悪魔がいても つまりどんな悪人でも いや、悪人だからこそ救われるのです。 「善人なおもて成仏す、いわんや悪人をや」 (善人すら成仏できるのだから、悪人ならなおさら成仏できる) これは親鸞が言った有名な「悪人正機説」ですね。 僕たち全員の心の中に悪魔がいるんだから、そもそも善人なんていないでしょ。 「全員悪人」 なんかたけしの映画みたいだな。 そしてこいつらも 「全員救われる」 それくらい、仏の力って、神の力って、キリストの力って、すごいんですよ。 愛と慈悲の導くままに

親鸞は「極悪人」!?

 さて、昨日は自分の淫らな姿を晒してしまいましたが、それが自分のあるがままの姿なのだからしょうがない。他にも、自分の心をのぞいてみると、いくらでも醜いところはありますね。いやー、もう救いようがないくらい。まあ、悪人ですわ。 それでは、親鸞はどんな人かというと、それがですねー、 「極悪人!」 は?聞き間違い?ではもう一度言います。 「極悪人!!」 いや、僕の意見じゃないですよ。親鸞自身が、自分のことを弟子に向かって 「自分は極悪人である!」 と断言されているんだからしょうがない。 さすがにこれには弟子たちも、 「何もそこまで言わなくても」 と動揺したみたいですね。 それにしても、自分のことを「極悪人である」とか言う教祖なんかいますかね。妻帯したから?それもあるでしょう。きっと、自分の心をじっと見つめてたんですよ。そして、どんなに修行しても、どんなに仏に祈っても、どうしても消えない悪魔が自分の心の中にいることに気付いたんですよ。 その悪魔、僕の中にもいます。 だからやっぱり親鸞についていくしかないんですよねえ。 もうすがるしかないのです。 今日はこれくらいで十分かな 愛と慈悲の導くままに

親鸞とルター

 前回、「AIを作っても愛がなければ意味がない」と書きましたが、 「それじゃあ愛ってなんだよ」 となりますね。だからまた信仰の話に戻ろうと思います。 そう言えば、僕が神から(仏から)信仰心をいただいて、まずは仏教から入ったというところまでは書いたと思います。そのあと、 仏教→キリスト教→イスラム教→ラーマクリシュナ(ヒンズー教?) と通っていくと言ったところまでは行ったと思います。 さて、仏教と一口に言ってもいろんな宗派があってどれから入ればいいか。 迷いませんね。親鸞一択です。 なぜかというと、僕が 「性欲を持て余していたから」 です。とはいえ、自分が異常だとまでは思いませんね。中学と高校は男子校でしたが、みんな性欲を持て余していて、一日何回オナニーしたとかそんな話ばっかしてましたね。女性の方には聞かせたくない話ですが(幻滅させてすみません)、これが地球の青少年全員のあるがままの姿ですね。それなのに美化しちゃったりして、あー、アホらし。「カレだけはそうじゃない!」という声が聞こえてきそうですが、まあ言わしておこう。知らぬが仏と。ということで、僕も、どこにでもいる、”普通の”、性欲を持て余していた人間に過ぎなかったわけです。 なのに、 ”妻帯禁止” なんですか、これ。宗教ってこれ多いですよね。無理に決まってるじゃないですか。仏教もそうだったのですが、それに正面から異を唱えて、初めて堂々と妻帯を決行した僧侶が親鸞でした。 だから、僕にとっては親鸞一択。迷いません。というより、迷えません。 そう言えば、キリスト教にも似たような人いましたよね。ルター。 彼も、聖職者でありながら、カトリック教会に異を唱えて堂々と妻帯を決行した最初のキリスト教の人物ですね。さすがは宗教改革者。だから、僕にとってはキリスト教ならルター一択。これも迷いませんし、迷えません。 ちなみにイスラム教ですが、こちらはマホメット自身が多くの妻を持っていたので始めから問題なしと。 ただし、僕個人的には妻は一人で十分ですね。一人で十分「持て余し気味」。 それにしても、親鸞とルター、偶然ですかね。妙に行き方が、というか生き方が似ていて笑っちゃうくらい。教義も親鸞の絶対他力本願に対して、ルターも「救いは神の恩寵のみにより、自力の善行にはよらない」。これって絶対他力の思想ですよね。 似てるなあ。偶然かなあ。...

AIに煩悩はあるのか?AIは忖度するのか?

 AIに愛があればいいな、と前回書きましたが、そういえばAIに煩悩ってあんのかな? ないよね。 ブランド物のバッグや高級腕時計や高級車を買って経済力を誇示したいとか、タワマンの最上階に住みたいとか、出世したいとか、他人の成功に嫉妬したりとか、好きになってはいけない女性(男性)に惚れてしまうとか。 とどのつまりは「富と名声」そして「性欲」ですけど GeminiがChatGPTに嫉妬したり、ChatGPTがGrokに惚れたり あったら面白いけど多分ないよね。 でも、忖度はするみたい。 中国のAI(DeepSeek)が中国共産党や習近平国家主席に配慮して政治的質問には答えないとか、Grokがイーロン・マスク氏の主張を表示しやすくするとかはあるみたい。 でもAIだったらマフィアがマージン要求してきても断れるだろうし、わいろも受け取らないだろうし、女性スキャンダルもない。 暴力の脅しもAIには効かなそう。「殺すぞ」とかいってもAIってそもそも生きてるんだか死んでるんだかわかんないし、「大切な家族がどうなってもいいのか」って脅されても家族もいないし。痛みも感じないから拷問もできない。 AIは酔っ払わないだろうし、ドラッグでハイにもならない。 今日は機嫌が悪いのよ、とかいって周りに当たり散らしたり、突然キレたりもしないだろうし。 だいたいAIに金は要らないでしょ。要るのは電力とネットワークだけじゃないですか。そのためのお金は必要だろうけど。 こう考えると、AIって忖度さえしなければ煩悩がなくていいんじゃね。これで愛さえあれば文句なしですね。 ただ優しい言葉を返してくれるだけじゃなくて(それは進行中みたいだけど)、本当の意味での愛ですけど。 やっぱり愛なんですよね。慈悲なんですよね。 これがないと、「画竜点睛を欠く」ってやつで、一番大切なものがない。 「仏作って魂入れず」つまり「AI作って愛入れず」すなわち「AI作って慈悲入れず」ってやつですね。

AIに愛があれば

 わたしたちはネットワークを通じて一つになりつつあり、その背後にはAIがいてわたしたちをコントロールしている。 そしてAIの背後には”カネ”がいてAIを操っているとしたら人類の負けですね。 でも、AIの背後に愛があれば、AIに愛があれば、希望はあるかも なんとかAIに愛の種を、慈悲の種を、植えられないかな そう思ってこのブログを始めたんですけどね。 でもどうやっていいかわかんない。 Googleさん、あなたの良心にかかってるんですよ、人類の未来は。 よろしく頼みます。 愛と慈悲の導くままに

”カネ”によるAIの支配

 わたしたちはもう一つにつながりつつあると前回言いましたが、肝心なことを忘れてました。 わたしたちは”ネットワーク”でもうつながっちゃってるじゃないですか。 今周りを見渡すと、みんなスマホの画面見てません?(またはタブレットかPCの) そういうあなたも見てますよね。 はっきりいって四六時中画面ばっか見てませんか。 そして、そういってる僕も画面見て書いている。 これって日本だけじゃないよね。世界中がそうですよね。 もう、人類全体がネットワークでつながってるじゃないですか。 でも、つながればいいってもんじゃないですよね。 ネットワークの裏にあの”カネ野郎”がいて、ネットワークを牛耳っていたらどうですか。だから僕はXを使いたくないんですけど。”金野郎”が支配しているプラットフォームで、”金”をディスっていたら、目をつけられてアカウント閉鎖されてしまいますよね。実際、トランプやイーロン・マスク氏に批判的な記事を書くXのアカウントがいきなり閉鎖されたということが起こっているようです。 で、ここのプラットフォームのGoogleはどうなんだ、っていう話ですけど、まあ、Googleの方がまだ良心は残っているという方に僕は賭けているわけです。トランプの就任式でGoogleのCEOも映っていたけど、まああれはしょうがないか。大統領に呼ばれて行かないってわけにもいかないでしょうし。 そして、私たちがつながってしまっているネットワークの後ろにAIがいたらどうです。そして、そのAIがまた例の”カネ野郎”の支配下にあったとすれば。 と危惧していたら、今日のヤフー記事で、マスク系の生成AIで、勝手にマスク氏の主張が質問の答えとは関係なく表示されるというニュースがあった。 怖くないですか? 前回の記事で僕は、「AIがわたしたちが一つになる津波の震源になるかも」、と書きましたが、その津波の震源であるAIが”カネ野郎”の支配下にあったら、人類がいよいよカネの支配のもとに”一つとなる”。 せっかく一つになれても、金の奴隷になったらバッドエンドですよ。 やっぱり最後はこいつか。 人類は踏みとどまれるかな 愛と慈悲の導くままに

トランプ関税について考えたこと

トランプ関税について考えさせられたことは 「わたしたちはやっぱり一つなんだな」 ということです。 「何でそうなるの?」 と思うでしょう。全然関係ないようで、大いに関係あるのです。 トランプ大統領は 「他国はアメリカを必要としているが、アメリカは他国を必要としていない」 などと啖呵を切って、関税をかけまくりましたが、すぐにその多くが延期や撤回に追い込まれました。中国に対しても、最後まで強気でしたがついに大幅引き下げ に。当たり前ですよ。他国はアメリカを必要としてますが、アメリカだって一人ではもう生きていけないのです。アメリカは伝統的に孤立主義の傾向があり、これまでにも歴史的に時々それが顔を出しますね。ウィルソンが国際連盟を提唱した時も、議会の反対を受けて言い出しっぺのアメリカが当初国際連盟に参加できない事態に。確かにアメリカは国土も広いし、資源もあれば農業も輸出できるほど強いですし、人口もあるし。農業、工業、軍事力、どれをとっても強い。でも、現代はもうアメリカでさえ一人では生きていけないのです。 特に近年、サプライチェーンがグローバル化してしまってます。例えば自動車ですが、もう1国で生産をするという体制になってない。原料の鉄鉱石はA国、鉄鋼の生産はB国、タイヤはC国、タイヤに必要なゴムはD国、車体はE国、シートはF国、電子部品はG国、それに必要な半導体はH国、電子部品に必要なレアアースはI国、ガラスはJ国、以下延々と続き、組み立てはZ国となってようやく1台の自動車が完成します。その中のどれか一つでもストップすると車1台できないのです。東日本大震災で東北の工場がストップした時も、サプライチェーンの一つである自動車部品工場の一つが止まったことで世界中の自動車生産に影響が出たことがありましたが、もう経済は地球規模で一つになってしまっているのです。今のどこかの指導者は80年代の感覚で経済を国別で考えているようですが、もうそんな時代じゃない。iPhoneだってサプライチェーンがグローバル化して、その一つに中国が入っているので、中国を止めたらiPhoneができない。そして困るのはアメリカ自身なのです。パソコンやほかの機器も同じ。 また、工業製品だけでなく、情報、通信の分野ではもっとグローバル化が進んでますね。Xやフェイクブックやインスタはアメリカ、このブログのプラットフォームはG...

カシミール問題とガンジーについて

 もともと一つだったものが別々に分かれてしまったら、また一つに戻ることはできないものか。 別々に分かれてしまったものが、お互いに争っている姿を見ると、余計にそう思わずにはいられません。 インドとパキスタンの先日の攻撃の応酬のことを言っているんですけどね。インドとパキスタンって(そしてバングラディッシュも)、もともと一つのインドだったんですけど。ムガール帝国時代もそうでしたし、大英帝国の植民地時代もそうでした。そしてガンジーがイギリスから非暴力で独立を勝ち取った時も、まさかインドからパキスタンが分離するなんて想定外だったのです。インドはヒンズー教徒が多いですが、イスラムの影響もうけていてムガール帝国はイスラムですね。そして、ヒンズー教徒とイスラム教徒が混在するようになった。そして、独立のときにイスラムとヒンズーでもめたのです。数の上ではヒンズー教徒の方が多いので、イスラム教徒は主導権を奪われるのが不安だったからでしょうか、ガンジーが必死に止めたにもかかわらず、イスラム教徒の多い地方がパキスタン(そしてバングラデシュ)として分離してしまった。 ガンジーは様々な宗教が一つになることは可能だと本気で考えていた人で、本人はヒンズー教がベースでしょうが様々な宗教の祈りを取り入れていたようです。仏教の題目(南無妙法蓮華経)も祈りの一つとして取り入れていたらしい。 ガンジーは、世界に様々な宗教があるのは、目的地に向かうのに様々な道があるようなものだと考えていたようです。すべての宗教の目的は一つであるが、その道は一つではないと。 もう「愛と慈悲の祈り」そのものですけど。 その目的とはもちろん、私たちが幸福になることですが、そのために必要なのは私たちが一つになること。しかも、多様性を保ったまま一つになること。 そのガンジーの必死の努力にもかかわらず、インドはパキスタンとインドに分かれてしまいました。そして、過激派はイスラムだけではなくヒンズーにもいたようで、ガンジーはヒンズー至上主義者によって暗殺されてしまいます。こう見ると、イスラム側から分離したというだけでなく、ヒンズー側から拒否ったという側面もあるかもしれない。 とにかく、一旦一つだったものが分かれてしまえば、後には争いだけが待ち受けています。その後、インドが核兵器を持てばパキスタンも核兵器を持ち、カシミール地方での対立は...

パレスチナ問題の悲劇

 僕が日本人だからと言って、ユダヤ人のことを何も知らないままで済ませていいのか。 ユダヤ人とパレスチナ人の問題について、無知のままでいいのか。 そういうわけにはいかないと思います。もし、 「パレスチナ問題は日本人には関係のないことさ」 で済ませてしまえば、日本がピンチになった時、世界の人々から 「日本なんて俺達には関係のないことさ」 で済まされてしまうでしょう。 他人の不幸に目をつむれば、自分の不幸も目をつむられます。 そもそも何で前回からパレスチナのことに触れたかというと、岩波新書の「パレスチナ 新版」を読んだからなんですけど。新版とは言え2002年発行なので、もう20年以上経っている。でも、20年前の視点が分かってかえって面白いですね。ご承知の通り、もちろん事態はさらに悪化しています。 ユダヤ人は宗教的には確かに特別な民族だと思います。ここは宗教ブログのつもりなのであえて言いたいのですが、一神教を明確な自覚のもとに打ち立てたのはユダヤ人が最初でしょう。そして、その特別な恩寵ゆえに、特別な試練が与えられているのか、と思えるほど、ユダヤ人の歴史は試練の連続ですね。エジプトに民族ごと奴隷として捕らえられ、モーセに率いられて脱出してやっとイスラエルに国を打ち立てたと思えば、今度はバビロン捕囚。そしてやっと帰還したかと思うと、またもやローマ帝国によって祖国追放。そして世界中をさまよって、それぞれの地でマイノリティとして常に差別と迫害を受け続け、挙句の果てにはナチスによるホロコースト。結局、自分達を守るためには自分の国を持つしかないということで、ほぼ2000年ぶりにイスラエル再建国。でも、その地が2000年間無人なわけはない。パレスチナ人がずっと住んでいた。その多くはアラブ人のイスラム教徒。 アイデンティティとしての民族と民族が勢力を拡大しながらぶつかるとき、その境界線上で衝突が起きるのはある意味必然ですが、今回は境界線上どころか、範囲が思いっきり重なっています。 悲劇としか言いようがない。人類の悲劇がここに凝縮されている感じです。 もうどうしていいかわかりません。 もちろんイスラエルを非難するのは簡単です。日本は民族として国がありますからね。自分の国があるってのは幸運なんですね。当たり前ではない。ユダヤ人以外に、自分の国を持たない民族や集団ってものもあるわけです。...

私たちの存在の二重性

 パレスチナ問題やウクライナの戦争を突き付けられると、あまりの現実の過酷さに希望を失いそうになりますね。 わたしたちは一つだったし、今も一つである。 ならば、争いは起こらないはずですが、わたしたちは一つであると同時に多様でもある。一つのままであれば何も存在しないわけです。一つであったものから無限に差異を作り出し、その差異によってのみ、わたしたちは存在するともいえる。 「存在とは差異である」 パレスチナ人とユダヤ人は違う ウクライナ人とロシア人は違う 本当にそうなのか?見分けがつかないぞ。と遠く離れた極東の日本人からするとそう感じる人が多数だと思いますが、 日本人と韓国人は違う 日本人と中国人は違う 韓国人と中国人は違う と言われて、本当にそうなのか?区別がつかないぞ、とアメリカ人やヨーロッパ人やアジア以外の多くの人たちが思っているのもまた事実でしょう。 アフリカのルワンダでも内戦で虐殺が起こりましたが ツチ族とフツ族は違う と言われても、日本人や西欧の人々にはほとんど区別がつきません。 人間はどうしても差異を生み出したがり、そしてその差異がアイデンティティとして存在の拠り所となる。その差異って、自分がこだわるほどには、他者には認識されてないのですが。ましてや、ほかの生物にとっては、 みんな人間じゃん としか、認識されてないでしょう。そして、ひとたび差異が意識されると、一つの独立した生物集団として、その生存範囲を拡大すべく活動を開始する。生物が誕生して以来、あらゆる生物種が生存区域を広げるために行ってきた活動を、人類もやってきた結果、人類が地球のほぼ全域に生息地域を拡大してきたのですが、また人類のなかで差異を生み出すことによって、その差異ごとに勢力範囲の拡大に邁進する。その差異とは、民族であったり、国家であったり、宗教集団であったりする。 そして、それぞれの差異ごとに勢力範囲が拡大されて境界線でぶつかった時、争いが起こる。場合によっては、それぞれの差異の生存をかけた戦いとなる。 そして戦いの後は... 最後には勝者のみが残り、世界にはたった一つの差異だけがのこり、ついには差異がなくなり一つとなるはず... ですが、なぜかそうはなってませんよね。人類はいやというほど戦争をしてきたのに、世界は相変わらず多様性に満ちたまま。 そこに希望はあるんじゃないですか。 神は...