自由意志について考えたこと

 さて、原罪の話に戻りたいと思いますが(といいながら、ちゃんと原罪を理解してるかどうかはわかりませんが)、原罪って神に背くこと、つまりは傲慢だと思うのですが、でもどうやって?

わたしたち人間がどうやって神に背くというのでしょう。

そんなことできんのかな

よく聖書では(特に旧約)、神が次々に預言者を民のもとに遣わしますよね。そして、そのたびに民は預言者の言葉に耳を傾けないわけです。それも、「何回同じこと繰り返すの?」ってくらい、同じことの繰り返し。

でも、民が預言者に背いた時の聖書の表現がいつも気になっていたんですね、僕は。

「神はかれらをかたくな(頑な)にされた」

いつもこう表現されてませんか。神にとっては使役形、民のとっては受身形なんですよね。つまり、預言者を遣わしたのも神の御意思なら、民が背くのも神の御意思ってことじゃないですか。神が民を背かせたんですよ。結局

神の自作自演!?

つまり、人間に自由意志なんてないってことじゃないですか。

これはルターも言ってたことだと思うんですけど。

わたしたちが自由意志を持っているように見えても、実は観音様の掌、または仏の掌の上で転がされているだけだった。仏教でもよくこんな風にイメージされてますよね。

そりゃそうですよ。わたしたちは神の中に住んでいるんだから。仏の中で生きているのです。

宇宙も神の子宮の中にあるとかラーマクリシュナも言っていた気がする。

どこまでいっても、わたしたちは神の御意思から逃れられない。

これって、悪にとっては絶望ですけど、わたしたちにとっては福音ですね。

だって、神って愛なんですよ。

わたしたちは神の愛から逃れられない

そして、仏とは慈悲

わたしたちは仏の慈悲から逃れられない

これでは、わたしたちが最後に救われないはずがない

愛と慈悲の導くままに


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