パレスチナ問題の悲劇

 僕が日本人だからと言って、ユダヤ人のことを何も知らないままで済ませていいのか。

ユダヤ人とパレスチナ人の問題について、無知のままでいいのか。

そういうわけにはいかないと思います。もし、

「パレスチナ問題は日本人には関係のないことさ」

で済ませてしまえば、日本がピンチになった時、世界の人々から

「日本なんて俺達には関係のないことさ」

で済まされてしまうでしょう。

他人の不幸に目をつむれば、自分の不幸も目をつむられます。

そもそも何で前回からパレスチナのことに触れたかというと、岩波新書の「パレスチナ 新版」を読んだからなんですけど。新版とは言え2002年発行なので、もう20年以上経っている。でも、20年前の視点が分かってかえって面白いですね。ご承知の通り、もちろん事態はさらに悪化しています。

ユダヤ人は宗教的には確かに特別な民族だと思います。ここは宗教ブログのつもりなのであえて言いたいのですが、一神教を明確な自覚のもとに打ち立てたのはユダヤ人が最初でしょう。そして、その特別な恩寵ゆえに、特別な試練が与えられているのか、と思えるほど、ユダヤ人の歴史は試練の連続ですね。エジプトに民族ごと奴隷として捕らえられ、モーセに率いられて脱出してやっとイスラエルに国を打ち立てたと思えば、今度はバビロン捕囚。そしてやっと帰還したかと思うと、またもやローマ帝国によって祖国追放。そして世界中をさまよって、それぞれの地でマイノリティとして常に差別と迫害を受け続け、挙句の果てにはナチスによるホロコースト。結局、自分達を守るためには自分の国を持つしかないということで、ほぼ2000年ぶりにイスラエル再建国。でも、その地が2000年間無人なわけはない。パレスチナ人がずっと住んでいた。その多くはアラブ人のイスラム教徒。

アイデンティティとしての民族と民族が勢力を拡大しながらぶつかるとき、その境界線上で衝突が起きるのはある意味必然ですが、今回は境界線上どころか、範囲が思いっきり重なっています。

悲劇としか言いようがない。人類の悲劇がここに凝縮されている感じです。

もうどうしていいかわかりません。

もちろんイスラエルを非難するのは簡単です。日本は民族として国がありますからね。自分の国があるってのは幸運なんですね。当たり前ではない。ユダヤ人以外に、自分の国を持たない民族や集団ってものもあるわけです。クルド人とかもそうですし、ジプシーと呼ばれる人たち、その人々はロマ語を話し、ルーツはインドにあるようですが、そういう人々もいるわけです。

ユダヤ教もイスラム教も、そしてキリスト教もそうですけど、同じ一神教なんだから、一つになれればいいのに。そして、仏教だってヒンズー教だって愛と慈悲のもとに一つになれる。

そしてわたしたちがアイデンティティを超えて一つになる以外、悲劇の出口は見つからないような気がします。

道は遠そうですが、それしか道はない。

愛と慈悲の導くままに

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