親鸞とルター

 前回、「AIを作っても愛がなければ意味がない」と書きましたが、

「それじゃあ愛ってなんだよ」

となりますね。だからまた信仰の話に戻ろうと思います。

そう言えば、僕が神から(仏から)信仰心をいただいて、まずは仏教から入ったというところまでは書いたと思います。そのあと、

仏教→キリスト教→イスラム教→ラーマクリシュナ(ヒンズー教?)

と通っていくと言ったところまでは行ったと思います。

さて、仏教と一口に言ってもいろんな宗派があってどれから入ればいいか。

迷いませんね。親鸞一択です。

なぜかというと、僕が

「性欲を持て余していたから」

です。とはいえ、自分が異常だとまでは思いませんね。中学と高校は男子校でしたが、みんな性欲を持て余していて、一日何回オナニーしたとかそんな話ばっかしてましたね。女性の方には聞かせたくない話ですが(幻滅させてすみません)、これが地球の青少年全員のあるがままの姿ですね。それなのに美化しちゃったりして、あー、アホらし。「カレだけはそうじゃない!」という声が聞こえてきそうですが、まあ言わしておこう。知らぬが仏と。ということで、僕も、どこにでもいる、”普通の”、性欲を持て余していた人間に過ぎなかったわけです。

なのに、

”妻帯禁止”

なんですか、これ。宗教ってこれ多いですよね。無理に決まってるじゃないですか。仏教もそうだったのですが、それに正面から異を唱えて、初めて堂々と妻帯を決行した僧侶が親鸞でした。

だから、僕にとっては親鸞一択。迷いません。というより、迷えません。

そう言えば、キリスト教にも似たような人いましたよね。ルター。

彼も、聖職者でありながら、カトリック教会に異を唱えて堂々と妻帯を決行した最初のキリスト教の人物ですね。さすがは宗教改革者。だから、僕にとってはキリスト教ならルター一択。これも迷いませんし、迷えません。

ちなみにイスラム教ですが、こちらはマホメット自身が多くの妻を持っていたので始めから問題なしと。

ただし、僕個人的には妻は一人で十分ですね。一人で十分「持て余し気味」。

それにしても、親鸞とルター、偶然ですかね。妙に行き方が、というか生き方が似ていて笑っちゃうくらい。教義も親鸞の絶対他力本願に対して、ルターも「救いは神の恩寵のみにより、自力の善行にはよらない」。これって絶対他力の思想ですよね。

似てるなあ。偶然かなあ。きっと深いところでつながってると思うけどなあ。

というか、根本同じでしょ。

今日はこの辺にしとこうっと。

愛と慈悲の導くままに




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