私たちの存在の二重性
パレスチナ問題やウクライナの戦争を突き付けられると、あまりの現実の過酷さに希望を失いそうになりますね。
わたしたちは一つだったし、今も一つである。
ならば、争いは起こらないはずですが、わたしたちは一つであると同時に多様でもある。一つのままであれば何も存在しないわけです。一つであったものから無限に差異を作り出し、その差異によってのみ、わたしたちは存在するともいえる。
「存在とは差異である」
パレスチナ人とユダヤ人は違う
ウクライナ人とロシア人は違う
本当にそうなのか?見分けがつかないぞ。と遠く離れた極東の日本人からするとそう感じる人が多数だと思いますが、
日本人と韓国人は違う
日本人と中国人は違う
韓国人と中国人は違う
と言われて、本当にそうなのか?区別がつかないぞ、とアメリカ人やヨーロッパ人やアジア以外の多くの人たちが思っているのもまた事実でしょう。
アフリカのルワンダでも内戦で虐殺が起こりましたが
ツチ族とフツ族は違う
と言われても、日本人や西欧の人々にはほとんど区別がつきません。
人間はどうしても差異を生み出したがり、そしてその差異がアイデンティティとして存在の拠り所となる。その差異って、自分がこだわるほどには、他者には認識されてないのですが。ましてや、ほかの生物にとっては、
みんな人間じゃん
としか、認識されてないでしょう。そして、ひとたび差異が意識されると、一つの独立した生物集団として、その生存範囲を拡大すべく活動を開始する。生物が誕生して以来、あらゆる生物種が生存区域を広げるために行ってきた活動を、人類もやってきた結果、人類が地球のほぼ全域に生息地域を拡大してきたのですが、また人類のなかで差異を生み出すことによって、その差異ごとに勢力範囲の拡大に邁進する。その差異とは、民族であったり、国家であったり、宗教集団であったりする。
そして、それぞれの差異ごとに勢力範囲が拡大されて境界線でぶつかった時、争いが起こる。場合によっては、それぞれの差異の生存をかけた戦いとなる。
そして戦いの後は...
最後には勝者のみが残り、世界にはたった一つの差異だけがのこり、ついには差異がなくなり一つとなるはず...
ですが、なぜかそうはなってませんよね。人類はいやというほど戦争をしてきたのに、世界は相変わらず多様性に満ちたまま。
そこに希望はあるんじゃないですか。
神はこの世をお創りになった時、あらゆるものを差異によって存在せしめたわけですが、それは愛するがゆえです。すなわち、差異があるのも愛ゆえである。だから神は多様性を愛し、望んでおられる。
わたしたちは神の愛ゆえに一つなのですが、神の愛ゆえに多様でもあるのです。
だから、差異の境界線上で衝突が起こっても、一方が他方を消滅させることはまずないでしょう。ならば、ずっと差異は差異のままかというと、そうでもない。両者が出会う時、お互いに影響しあい、融合が起こるでしょう。そして一つとなり、またそこからあらたな差異が生まれる。一つとなることは次の新たな多様性の母となる。
生物の進化を辿ってみても、数多くの種が絶滅してきました。では、最後に生き残った、または勝ち残った少数の種だけが現在残っているのかというと、そうはなってない。それどころか、生命は進化によってますます多様になって現在に至っている。
わたしたちは多様性を持ったまま一つになれるし、一つのままで多様性を持つ
なんかまた、量子力学を思い出してしまいました。
「光は波であると同時に粒子であるという二重性を持つ」
波って無限の可能性があるってことですよね。そして粒子とは一つであることかな。いや、一つのアイデンティティを表すのかも。とにかく妙に共鳴するんですよね。
わたしたちの存在の二重性
愛と慈悲の導くままに
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