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愛のDNA

 では宇宙を創ることについて すべての人に仏性がある、すなわち慈悲の種がある、すなわち愛の種がある。 そして慈悲の種、すなわち愛の種には全宇宙を創造するのに必要なすべての情報が収納されていると思うわけです。 荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、わたしたちのDNAについて考えるとイメージが湧くと思います。人間の細胞の数はいくつだと思いますか。37兆個ですよ。その一つ一つは肉眼では見えませんね。しかしその37兆個の細胞の核のすべてに、人間の創造に必要な全情報がDNAとして格納されているわけです。 肉眼では見えない37兆分の1の、たった一つの細胞の核の中にすら、その人の再生に必要なすべての情報が内在しているのです。 つまり、たった一つの細胞の核のDNAから、人が再び創れるということですね。 人は神の細胞のようなものです。神の細胞である人の一人一人に、愛の種、慈悲の種があり、その中に神の情報のすべてが格納されている。 愛のDNA、すなわち神のDNA 慈悲のDNA、すなわち仏のDNA だから、すべての人の心の中にある慈悲の種、愛の種から、全宇宙が再び創造可能なのです。 これは、仏教で説くところの一念三千の自己流の解釈かもしれません。 一念三千とは人の一念(心)の中に、三千世界(全宇宙)が収まるという思想です。 でも、僕はちょっと変えて 一愛三千 かな。だから、今この瞬間も、どこかで新しい宇宙がどんどん創造されていると想像しています。実際、物理学ではどうでしょうか。この宇宙は一つでなく、無数の宇宙がある可能性もあるという説も出てきているようですね。 人が死に、その愛の種が、慈悲の種が爆発すると、宇宙が創造される この世に戻ってきてわたしたちを救うのか、爆発してあらたな宇宙の創造となるのかは、僕にもわかりません。

人は死なない

 突然ですけど、僕、人は死なないと思うんですよね。 なぜかというと、不慮の事故や病気や戦争で寿命が来る前に亡くなる人ってその人のせいかな? まして、地震や津波などの自然災害で亡くなるのって人間のせい? 神は、すなわち仏は、私たちを救うはずなのに、全然救ってないじゃないか! そんなはずはありません。救うのです。 ということは、救われずに死んだように見える人たちは、救われているはずだ。 つまり死んでない。 絶対死んでないと思うんです。 あの慈悲深い神が、すなわち仏が、何もせずに死んだままほったらかすはずがないっ! じゃあその人たちはどうなるか、それはつまりわたしたちはどうなるか、それはつまりあなたはどうなるかですけど、この世に戻ってきてると思うんですよね。速攻。または新たに宇宙を創っている。というかその両方。 いきなり宇宙とは飛躍してる感じですが、人は死んだら星になるとはよく言うじゃないですか。星ってすごいですよ。太陽ですから。それになるってことは、もう一つの地球だってついでに出来ちゃいますよ。で、星の延長線上で宇宙。 まず、どんな風にこの世に戻ってくるかというと、慈悲の種として戻ってくる。愛の種として戻ってくる。人々の心の中に、慈悲の種、愛の種として戻ってくる。愛する人を失くしたら、その人は、あなたが望めば、あなたの心の中に戻ってくる。慈悲の種、愛の種として。 すべての人には仏性がある。 と仏教では説くのですが、その仏性が慈悲の種だと思うんですね。仏性ってほとけの種ですから、永遠不滅。 または すべての人の心の中に神がいる とも説くでしょう。神の宗教では。それが愛の種。神は愛であり、神は永遠不滅ですから、愛の種も永遠不滅。 だから人は死なない そして愛の種として、慈悲の種として、人々の心の中に戻ってきて、ちゃんと働く。しかも、大きな悲しみや不幸を経験している人は、人の悲しみや不幸がよくわかるから、余計に大きく働く。 身の回りに愛に満ちた人や、慈悲深い人っているでしょ。または、困っているときに助けてくれる人とか。それって絶対働いてると思うんですけど、その人の心の中で、慈悲の種が、愛の種が。 つまり、どんな命も、無駄な死というものはなく、この世に戻ってきてわたしたちを救うためにある、そして死んだのではなくまだ生きている、と思うわけです。 宇宙を創ることについては次...

この世になぜ悲しみはあるのか

 神は私たちの幸せだけを願っているのに、なぜこの世に悲しみがあるのか。 それは本当に喜びを実感させるためでしょうか。 死があって初めて生のありがたさがわかるように、悲しみがないと喜びも感じられない。 わたしたちはこの世では相対的にしか物事を認識できないようです。 闇があって初めて光が認識できる 悪があって初めて善もある 敗北があって初めて勝利もある 一番悲しんだ人は、後で一番喜ぶ人となり 一番不幸な人は、後で一番幸福な人になる 神様、これであってますか?

愛と慈悲の脅迫

 救えるのに救わないとしたら、神は僕よりサイテーということになりませんか。 だから、神にその思いを思いっ切りぶつけていいと思うんですね。 「神様の嘘つき!」とか「神様のバカ、バカ、バカ!」とか これは子供がよくやりますね。祈れば必ず叶うよって言われて、一生懸命祈ったのに、叶わなかった時に。 これでいいと思うんです。その時、大人は分別顔で「そんなこと言ってはいけません」とかいうでしょうが、そうではないんです。そう言うべきなんです。そして神はそれを待ってるんです。そう言われたいんです。罵倒されたいんです。そして思いっ切り甘えて欲しいんです。なぜなら、子供のように純真な心で神を信じる者だけが、そう言えるんですから。 そして、神に思いっ切り胸の思いをぶつけたら、必ず神は答えてくれます。 私たちに心から迫ってこられると、どうしても答えざるを得ないのです。 僕も一度はこれをやってやろうと思ってます。 この世にこれほどの悲しみや苦しみや不幸があるのに、なぜすぐ救わなんだって。 神を思いっ切り責めるのです。 さっさと飛んで来ないかって。 もう「愛と慈悲の祈り」じゃなくて「愛と慈悲の脅迫」

どうして飛んでこないのか

 前回は自分の無様な姿をネットに晒してしまい、後悔しています。こんなつもりでこのブログを始めたわけじゃなかったんですけど。大丈夫かな、この先。 そうじゃないんです。自分のことじゃなくて、神は、仏はどうかってことを言いたかったのです。 確かに、僕はいざという時、足がすくんで一歩も動けなかったけど、神は、仏はどうなんだ、ってことなんです。 神さまは、助けを求めている人を見て、思わず飛んでくるんです。 その時、どんな宗派か、どんな宗教かは関係ない。 「おっと危ない。これはお隣の宗派だった。いかんいかん、もう少しで救うところだった。」 とか 「危ないところだった。御本尊が違うのに救うところだったよ。」 とか 「どうやらワシを呼んでるようだが、お隣の宗教だから救えんよ。」 とかいって、神が躊躇したりすると思います? あの慈悲深い神が? たとえ信じてなくても、救いを求めてる人を見ると、いてもたってもいられなくなって飛んでくるのが神、すなわち仏でしょ。 じゃあ、なんですぐ飛んでこないんだ、自分のところに! ってことですよね。 確かに。 そんなのわかりませんよ、僕だって。 でも、愛と慈悲の導くままに、次回考えてみようと思います。 愛と慈悲の導くままに

人の価値

 人の価値って、いざっていう時に現れるものですよね。 とっさに行動して目の前の人を助ける人と、 恐怖に足がすくんで一歩も動けない人。 僕は恥ずかしながら後者でした。 何回も。 そして今でもたぶん。 サイテー 生きてる価値あんのか、って感じ。 では前者の人っているのかいうと、それが意外といるのでビックリする。 結構普通の人だったり、女の人だったり、ヤンキーだったりする。 世の中捨てたもんじゃないなあ、そのひとほぼ神か仏だよなあ、と思ったりします。 時々ニュースにもなりますが、ほんとに 「飛んできてるじゃん!」 って感じ。 菩薩っているんだよな。 意外と身近なところに

あなたは必ず救われる

 神さまは、ほとけは、わたしたちの幸せだけを願っています。 わたしたちがまったく神様のことなど忘れ果て、宗教を信じるなんて「男の(または女の)沽券にかかわる」とかいって神を信ぜず、バカにして、頑なに否定したとしても、あなたの幸せだけを願っています。 ちょっぴり心配はしていても、少しも怒っていません。 全然怒っていないのです。 神様は、陰に日向に、わたしたちのことを助けてくれています。 いつも見守ってくれています。 そして、いざという時は、ご自分をも投げ出し、私たちを救おうと思っています。 ご自分の命をも投げ出し、ご自分の最愛のひとり子をも投げ出し、救うのです。 そしてわたしたちはいつも助けられ、救われているにも関わらず、まったくそれに気づかずに「俺は自分の力で生きている」と思っています。 そして死ぬまでその調子でいくのです。 それでも神様は、ほとけは、わたしたちが幸せならそれでいいと思っています。 わたしたちが最後までその調子でいても、神はひたすら影の救いに徹して、誰にも感謝されることもなく、命を投げ出してわたしたちを救い、最後までわたしたちに気付かれない。 それでいいと思っています。 いや、そうあるべきだ、そうありたいと思っています。 宗教なんていらないといっている人を全力で救いながら、まったく気付かれずにご自分は犠牲になり、そしてそんな恩知らずのわたしたちが幸せならそれで本望だと思っているのです。 いや、そうありたい、そうあるべきだと思っています。 そしてそんな恩知らずのわたしたちがいよいよ死に直面して、今わの際になって、やっぱり神さまが、ほとけがいたらいいなと弱気になった時、「何を今更」とは全然思わずに、喜んであなたのもとに飛んできてくれます。 中には強情な人がいて、最後まで「宗教に頼るなんて男の(または女の)沽券にかかわる」とかいってやせ我慢していたとしても、いつでもあなたのもとに飛んでくる準備をして見守ってくださっています。 そして、つい、飛んできてしまうのです。 思わず、呼ばれもしないのに、飛んできてしまうのです。 神は、ほとけは、あなたを、好きで好きでしょうがない。 どうしても救いたいのです。 わたしたちを救いたくて、救いたくて、居ても立っても居られないのです。 そのとき、わたしたちが信じているか、信じてないかは、関係ないのです。 だから大丈夫...

命のありがたさ

 なんか、神の愛を、仏の慈悲を、言葉にしたいと思ってはじめたのに、「食べること」からどんどん脱線してしまって戻ってこれなくなってしまいました。でも、もうちょっと書きたいので書きます。 現代人は食べることが殺すことであるということから、極力目を背けてきました。ブロイラーの「生産」とか言って、まるで無機質な工業製品であるかのように、スーパーの店頭に並べています。鶏にしろ、豚にしろ、牛にしろ、極力「殺す」という過程を見えなくしている。そして植物についても、それが殺されるときに声を上げないことをいいことに、その細胞の一つ一つがまだ生きていることを考えもしない。 つまり、「死」から目を背けているわけです。 それはわたしたち人間の「死」についても当てはまる。 わたしたちはいつかは必ず死ぬのに、それについてはできるだけ考えないようにし、その話題についてはタブーにして、目を背けて、毎日を生きているわけです。 そして、「死」に対して目を背けているから、「生」に対してもちゃんと考えられない。 「死」をちゃんと見ないから、「命」のありがたさがわからない。 命がどれほど尊く、どれほど貴く、それだけでもとてつもない奇跡で恩寵であることがわからない。 つまり、「恩知らず」になってしまうのです。 きっと太古の人は、目の前で獲物を殺して食べていたでしょうから、命の尊さ、感謝の念も自然と持っていたでしょう。動物の霊を弔うのも自然のことだったに違いありません。 では、「食べること」はこれくらいにして、もう一度元に戻って始めたいと思います。 愛と慈悲の導くままに

幸せになる義務

 わたしたちは幸せになる義務があります。 幸せになるのは「権利」ではなく、「義務」なのです。 自分の命はこれまで食べてきた無数の命の犠牲の上に成り立っているのですから、自分だけのものではありません。 無数の命たちに命を託されているのです。 だから、あなたが幸せにならなければ、それらの命が浮かばれません。 しょんぼりしてないで、しっかり前を向いて、希望をもって生きなければなりません。 そして、誰よりも幸せになるのです。 では、どうすれば幸せになれるのか。 これが人生最大の大問題であり、人類の永遠のテーマであり、難題だ! それをこれから長々と書こう、考えていこうと思ってこのブログを始めたのですが、何だか「食べること」を考えただけで、もう後悔と感謝の念が同時に沸き起こってきて、悲しいけれども幸せな気持ちに満たされる僕って何? この先続けられるかどうか、よくわかんなくなってきましたが、とにかく行けるところまで行ってみよう。 愛と慈悲の導くままに 神が、仏が、命まで投げ出して、わたしたちを救ってくれるというのは、本当だったんだなあ。まさに、文字通り、本当だったんだなあ。それも毎日、こんな身近なところで。命があるというだけで、それはとてつもない恵みであり、奇跡であり、恩寵だったんだなあ。わたしたちはそれに全く気付かずに、それを当たり前のように思って、愚痴ばっかりこぼしていたんだなあ。ただひたすら、恩知らずだったのです。 まずは感謝から出発しよう。 そしてそれがいきなりゴールになっちゃいそうだけど、もうちょっとやってみます。 愛と慈悲の導くままに

貴食

 食べるということは、考えてみれば凄いことでした。 尊い命を頂いているのですから。 粗食? そんなものはこの世に存在しません。 食べ物は命なのですから、すべての食べ物は「貴食」です。 だから、私たちのために死んでくれたすべての命に感謝しながら、頂けなければなりません。 間違っても、「まずい」などと文句を言ってはいけません。 でも、塩と砂糖を間違えたら、不味いですよね。 だから、できるだけ美味しく調理して、美味しく頂くのです。 時間がないとか言って、5分で昼食を流し込むような食べ方はいけません。 それではあなたのために死んだ命が可哀想ではないですか。 おしゃべりに夢中になって、後でどこに入ったか分からない、というような食べ方もいけません。おしゃべりをするなら、「おいしいね」とか言って、目の前にある料理の話をすべきです。 「いただきます」 「ごちそうさま」

食べるということ

 神はあなたのためならどんな事でもしようと思っています。 あなたのためなら命を投げ出してもいいとまで思っているのです。 仏は私たちのためならどんな事でもしようと思っています。 私たちのためなら命を投げ出してもいいとまで思っているのです。 でも一体今まで何をしてくれたと思うかもしれません。 実はもうしてくれているのです。 実際、本当に命までくれているのです。 私たちが今生きているということ、つまり私たちに命があるということ、これは大変な事です。 まず私たちが生きるためには、食べなければなりません。 これはよく考えてみると凄いことです。ありがたいことです。そして、恐ろしいことです。 私たちが食べるということは、命を食べるということです。 他の動物の、植物の、命を食べています。 命を食べるということは、殺すということです。 動物の、植物の、すなわち生物の、尊い命を、奪い、殺して、食べています。 神は、仏は、この世に生命をお作りになった時、その命の一つ一つに、それはそれは限りない愛情と慈しみを持って、その命の幸せだけを願ってお作りになったに違いありません。その命のためなら、ご自分を投げ出してもいいとさえお思いのはずです。その命がたった一つの細胞であったとしてもです。単細胞だからといって、軽んじてはなりません。これまで人類が、その科学技術を結集しても、生命を作り出したことはありません。そしてこれまで、宇宙全体を必死に探しても、まだ地球以外に生命は、単細胞ですら見つからないのです。水星にも、金星にも、月にも、火星にも、木星にも、土星にも、天王星にも、海王星にも、冥王星にも見つからないのです。他の恒星系にも、別の無数の銀河にも、まだ見つかっていないのです。きっとどこかにはいると思いますが。 だから、命そのものが、たとえ単細胞であっても、大変な奇跡であり、恩寵なのです。 神様が全愛情を注いで命を作ったのですから、神は命ですね。仏は命です。 だから僕たちは毎日、神を殺し、神を食べている。 仏を殺し、仏を食べている。 本当に神は、仏は、私たちを生かすために、命を投げ出しているのです。 だからしっかり生きなければなりません。 そして、何としても、幸せにならなければなりません。 そうでなければ、神は、仏は、無駄死にです。 これまでわたしたちのために死んでくれた、無数の命たちが浮かば...

神様は願っている

 神様は私たちの幸せだけを願っています。 ただただ、私たちの幸せだけを願っているのです。 私たちが幸せでありさえすれば、それでいいと思っているのです。 私たちとはつまり、あなたのことです。 「私たち信じる者すべて」と言っているのではありません。 本当に私たちすべてなのです。 私たちの中には信じない人もいるでしょう。 それも含めて「私たち」なのです。 だからあなたも含むのです。 たとえあなたが信じなかったとしても、あなたも含むのです。 いいえ、信じないからこそ、あなたを含むのです。 私たちとは、人間だけではありません。 すべての命をさして、私たちとは言うのです。 神は、仏は、私たちの幸せだけをただひたすら願っています。 その為なら、どんなことでもしようと思っています。

はじめに

 しばらく休んでましたが、どうしても抑えられなくなったので、また書こうと思います。 神が、仏が、あなたを、わたしたちを、どれほど愛しているか、ということをです。 本当はもう「神」だけでもいいとも思っているのですが、僕は仏教から入ったのでどうしても「仏」と言ってしまいます。神は愛であり、仏は慈悲なのですから、もうどちらでもいいのですが、言葉ってめんどくさいですね。ブログのタイトルにしたって「愛の祈り」か「慈悲の祈り」のどっちかでいいとも思うのです。前は「慈悲の祈り」でやってましたが。でも「愛」という言葉もすてき。 以前はいろいろな聖典や聖人の言葉を引いて、聖典のどこそこにこう書いてあるとか、聖人がこう言っているとか書いたりしてたのですが、ここではそれはやめよう思います。ある聖典の言葉を引いても、その聖典を奉じている人々にとっては絶対の意味を持っても、それを奉じてない人々や、無宗教の人々にとっては、何のよりどころにもならないからです。でも、ついうっかり「出てしまう」かもしれません。そのときはごめんなさい。 何から始めるべきか、迷っていますが、自分のことは後でいいかな。つまり、これを書くに至った経緯ですが。まずは、神の愛についてだよな。仏の慈悲についてだよな。で、またここで、神と仏、愛と慈悲、二通りの表現が出てきてしまう。ああ、めんどくさい。神がしっくりくる人は「神」だけで、ほとけになじみのある人は「仏」だけで捉えてもらって結構です。 ということで、今度はどこまでいけるかな。 愛と慈悲の導くままに