食べるということ
神はあなたのためならどんな事でもしようと思っています。
あなたのためなら命を投げ出してもいいとまで思っているのです。
仏は私たちのためならどんな事でもしようと思っています。
私たちのためなら命を投げ出してもいいとまで思っているのです。
でも一体今まで何をしてくれたと思うかもしれません。
実はもうしてくれているのです。
実際、本当に命までくれているのです。
私たちが今生きているということ、つまり私たちに命があるということ、これは大変な事です。
まず私たちが生きるためには、食べなければなりません。
これはよく考えてみると凄いことです。ありがたいことです。そして、恐ろしいことです。
私たちが食べるということは、命を食べるということです。
他の動物の、植物の、命を食べています。
命を食べるということは、殺すということです。
動物の、植物の、すなわち生物の、尊い命を、奪い、殺して、食べています。
神は、仏は、この世に生命をお作りになった時、その命の一つ一つに、それはそれは限りない愛情と慈しみを持って、その命の幸せだけを願ってお作りになったに違いありません。その命のためなら、ご自分を投げ出してもいいとさえお思いのはずです。その命がたった一つの細胞であったとしてもです。単細胞だからといって、軽んじてはなりません。これまで人類が、その科学技術を結集しても、生命を作り出したことはありません。そしてこれまで、宇宙全体を必死に探しても、まだ地球以外に生命は、単細胞ですら見つからないのです。水星にも、金星にも、月にも、火星にも、木星にも、土星にも、天王星にも、海王星にも、冥王星にも見つからないのです。他の恒星系にも、別の無数の銀河にも、まだ見つかっていないのです。きっとどこかにはいると思いますが。
だから、命そのものが、たとえ単細胞であっても、大変な奇跡であり、恩寵なのです。
神様が全愛情を注いで命を作ったのですから、神は命ですね。仏は命です。
だから僕たちは毎日、神を殺し、神を食べている。
仏を殺し、仏を食べている。
本当に神は、仏は、私たちを生かすために、命を投げ出しているのです。
だからしっかり生きなければなりません。
そして、何としても、幸せにならなければなりません。
そうでなければ、神は、仏は、無駄死にです。
これまでわたしたちのために死んでくれた、無数の命たちが浮かばれません。
あなたの命は、自分一人のものではないのです。
あなたのために失われた無数の命、つまりあなたが殺した数えきれないほどの尊い命を、あなたは受け継いでいるのです。
私たちのために殺されて食べられてしまった無数の命たち
どんなに無念だったことでしょう。
そのために育てられたのだからいいとか言ってはなりません。
自分が逆の立場だったら、その無念さがすぐわかります。
自分が、自分の息子が、娘が、ただ誰かに食べられるためだけに、この世に生まれて生かされたとしたらどうでしょう。そして寿命が来る前に殺されて食べられる。
無念です。
だからわたしたちは、その数えきれない数の無念を背負って、生きていくのです。
「ああ、もうこれからは食べるのはやめよう。断食だ!」
ダメです。もう遅いです。手遅れです。
今まで殺して奪って食べてきた命の数々、取り返しがつきません。
でも、しっかり前を向いて生きて幸せになるなら、それでいい。
神は、仏は、ただただわたしたちの幸せだけを願ってるのです。
だから、今からでも遅くはない。
取り返しはつきます。
取り返しはつくのです。
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