命のありがたさ
なんか、神の愛を、仏の慈悲を、言葉にしたいと思ってはじめたのに、「食べること」からどんどん脱線してしまって戻ってこれなくなってしまいました。でも、もうちょっと書きたいので書きます。
現代人は食べることが殺すことであるということから、極力目を背けてきました。ブロイラーの「生産」とか言って、まるで無機質な工業製品であるかのように、スーパーの店頭に並べています。鶏にしろ、豚にしろ、牛にしろ、極力「殺す」という過程を見えなくしている。そして植物についても、それが殺されるときに声を上げないことをいいことに、その細胞の一つ一つがまだ生きていることを考えもしない。
つまり、「死」から目を背けているわけです。
それはわたしたち人間の「死」についても当てはまる。
わたしたちはいつかは必ず死ぬのに、それについてはできるだけ考えないようにし、その話題についてはタブーにして、目を背けて、毎日を生きているわけです。
そして、「死」に対して目を背けているから、「生」に対してもちゃんと考えられない。
「死」をちゃんと見ないから、「命」のありがたさがわからない。
命がどれほど尊く、どれほど貴く、それだけでもとてつもない奇跡で恩寵であることがわからない。
つまり、「恩知らず」になってしまうのです。
きっと太古の人は、目の前で獲物を殺して食べていたでしょうから、命の尊さ、感謝の念も自然と持っていたでしょう。動物の霊を弔うのも自然のことだったに違いありません。
では、「食べること」はこれくらいにして、もう一度元に戻って始めたいと思います。
愛と慈悲の導くままに
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