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慈悲の光を見た!

 それにしても僕はおめでたい奴だと自分でも思います。仏や菩薩に四六時中口説かれてると感じているのですから。 「わたしはお前を救う」 とは 「わたしはお前が好きだ」 「わたしはお前を愛している」 と言っているのと同じです。仏がわたしたち衆生を口説いているのと同じです。つまり、仏が僕を口説いている。というよりは、仏がわたし(女になった自分)を口説いている。 僕は男ですが、仏に口説かれている時は女になった方が良さそうですね。やっぱり、口説くのは男で、口説かれるのは女という方がしっくりきますから。そして毎日毎日、何千何万言もの言葉を費やしてこのわたしを口説いてくるのです。仏典のどこを開いても、流れてくるのは優しい愛のお言葉。いったいどこから流れてくるのか(仏典からでしょ)、光源氏もこれほどは、と思うほど。ほとけは口説くのがよっぽどお好きなようで、また口説きの名人のようで、しまいにはとうとうこちらが根負けしてしまい、 「もう好きにして」 となってしまいました。 「よーござんす。よくわかりました。こんなわたしでよかったら、どうぞ好きにしてくださいまし。わたしを奪って逃げてください。地獄でも極楽でも、もうどこでもいいですから、連れて行ってくださいましな」 て感じ。そしてついにほとけと一体となって恍惚となったわたし。というか僕。もうこうなってしまったら男とか女とか、性別は関係ないですね。この歓喜のエクスタシーを法悦と言ったりするそうですが、自分の言葉で言うと 「慈悲の光を見た!」 となります。そして仏典の中で「慈悲の光を見た」個所に付箋を貼っていったのですが、1ページに何枚も付箋を貼ってしまい、あっという間に付箋だらけになっていて、それを見た嫁に 「バカじゃない」 って言われる始末。そんなこと言ってたらほとけさんとほんとにどっか行っちゃうよ。 まあ、ずーっと恍惚となっていたらほんとにほとけになっちまいますから、いやいや娑婆に戻ってくるわけですが、ほんとにめでたい奴だなオレは、と自分でも思います。 今日はこの辺にしておきましょう。 愛と慈悲の導くままに

仏による愛の告白が止まらない

 そろそろ自分の信仰の話に戻ろうと思ます。仏典を読むうちに、 「わたしはお前を救う」 としか読めなくなったとこまでは行ったと思ます。「わたし」とは仏であったり菩薩であったりするのですが、とにかく、どうしてもそのお方は僕を救いたくて仕方がないようなのです。もちろん、仏典は僕だけに向けて書かれたわけではなく、すべての人に向けて書かれているわけですから、「わたしはお前を救う」とは、「わたしはすべての衆生を救う」という意味なのですが、読んでいる時は一人きりで読むわけですから、それは個人的には 「わたしはお前を救う」 と読めるわけです。その「わたし」が仏なのか菩薩なのかはもうどうでもいいです。ただただ、こんな自分をそんなにも案じてくださるお方がいるというだけで、この世に生まれてきた甲斐があったというものです。 「わたしはお前を救う」 という愛の告白が、延々と続くのですよ。ただでさえ膨大な仏典ですので、全部読んだわけではありませんが、来る日も来る日も、毎日毎日、四六時中、 「わたしはお前を救う」 という愛の告白が続くのです。延々と、延々と、手を変え品を変え、ありとあらゆる言葉で、愛の告白が続くのです。これでもか、これでもかと続くのです。これでも、まだわからないのか、という調子で続くのです。 仏は僕を好きで好きでしょうがないらしい。 僕の中にみなさんもはいっているので、みなさんが嫉妬する必要はないです。 仏の救いはみなさんにも必ず届きます。 信じてなくても届くのです。 「信じれば救われる」 ではなく 「救われるから信じろ」 なのです。だって、仏の慈悲って、無償の愛ですからね。 それがいつかはわかりません。僕はもうとっくに来ていると思いますが、見えない人のためにもう一回来ると思います。つまり 「救われれば信じる」 ですよね。みんなそう思っていますよね。誰だってそうですよね。そしてそんなことは仏は百も承知です。 愛と慈悲の導くままに

やっぱり「悪人正機説」のお世話になることに

 本当のクライマックスを書いていたら、いつの間にか自分が悪者の側に立っていて、無償の愛で救われる筋書きになっていました。 そんなはずじゃなかったんですが 「愛と慈悲の導くままに」書いたらこうなちゃったんですよ 「自分にやましいところがあるんじゃないの」 まさにその通りだと思います。自分の心の中にもあのイブリース(悪魔)は住んでいるのですから。こうしてみると、やっぱり親鸞の 「悪人正機説」 じゃないと困るわけですよ、僕は。これ、今でも何かと物議をかもす説ですが、これを批判する人は、自分はさも善人であるかのような顔をして言うんですよね。キリストに 「自分が今まで罪を犯したことがない人だけ、石を投げなさい」 と言われて、女に石を投げちゃうタイプですかね。ああ、おそろし、おそろし。 こうして、図らずも、親鸞の「悪人正機説」でなければ救われないことを、自分で証明するハメに。 でも、これで良かったのかなと思っています。 愛と慈悲の導くままに

本当のクライマックス

 さて、おごり高ぶったものが滅亡する様は、これまで歴史上で何度も繰り返されてきたことですが、それで終わりではなく、その後に最大のクライマックスがまだあるはずだ、と僕は思うわけですが、それを試みに書いてみようと思います。 「悪を倒す最大の攻撃は”無償の愛”である。悪魔はこれが一番の苦手で、これをやられると本当に困ってしまい、参ってしまい、悪魔が悪魔でいられなくなる。」 前にこう書いたと思います。でも、歴史上で悪が滅ぼされるとき、多くは暴力などの力によって倒されることが多く、”無償の愛”によって倒されたのではないように見えますね。 力によって悪を倒すとき、敵を悪に見立てて、敵を殺すということですね。 ところが、”無償の愛”によって悪を倒すとき、敵を殺すのではなく、敵を味方に変えて、敵を生かします。 これが、愛で倒すことのすごいところです。わたしたちに命を与えてくださったのは神なのですから、そのすべての命を生かす御業をお持ちのはずです。 ”汝の敵を愛せ” と神が言うのはそういう意味でしょう。 ”殺してはならない” 仏教でも殺生は禁じられています。 だから、本当のクライマックスはこれからで、おごり高ぶったものたちが倒された後、無償の愛によって救われて、悪魔の手から神の手に取り戻される。放蕩息子が最後に父のもとに帰ってくるように。敵が味方になって帰ってくる。 悪魔が悪魔でいられなくなる、とはそういう意味です。 でも、しでかした罪に対しては償いをしなければなりません。悪事は帳消しにはならない。なぜなら行為には結果が伴うからです。では、誰がこの落とし前を付けるのか。 神ご自身がおとしまえをおつけになる そして、悪事をしでかしながら、神に罪をなすりつけて、自分はのうのうと天国に行く。 そしてここは極楽浄土の蓮の池の前。そこから池の底を見ると地獄の様子が良く見えます。罪を犯した者が地獄の炎に焼かれて罪を償っています。そして、自分の罪を代わりに償っているのは自分の最愛の一人子、最愛の息子であるのを目撃する。たとえ生前に息子がいなくても、自分の命にかえても守りたい存在が、自分に代わって罪を償っているのを目撃する。 もう、天国どころではありません。極楽どころではありません。 こんなことなら、自分が地獄に行った方がマシだった。いまからでも遅くはない。 こうして、せっかく天国に行ったの...

イブリース、その見事な”負けっぷり”

 悪魔、すなわち稀代の名悪役イブリースは最近ちょっとやり過ぎだと言いましたが、僕は実はそんなに絶望してません。近視眼的に見れば悪が栄えてるように見えても、それはあくまでも一時的な繁栄に過ぎない。歴史を見れば、おごり高ぶった者が滅亡しなかったためしはありません。おごり高ぶった帝国しかり、おごり高ぶった権力者しかり。歴史はおごり高ぶった者の滅亡の歴史といっても過言ではない。そして、そのおごり高ぶった者が破滅するときの破滅に仕方といったらもう・・・ やっぱりイブリースは稀代の名悪役ですね。一時的に大いに栄え、おごり高ぶった絶頂のところで破滅させられるその負けっぷり、やられっぷりといったらもうやっぱり ”稀代の名悪役” としか言いようがありません。イブリースはその破滅っぷりを歴史の舞台で何度も何度も、いろんなパターンで演じて見せてくれました。そしてこれからもその見事な破滅っぷりをわたしたちに見せてくれることでしょう。 神は”高いものを低くされる”のがお好きなようです。 本当の悪は、自分が”ワル”だと承知して悪を行うものではなく、自分を神に等しいものと思いあがって無慈悲な行いをする者だと思います。本当の悪は、天使を装う。光を装う。 神は愛なのに、どうして無慈悲な行いと相容れることができましょう。 仏は慈悲なのに、どうして無慈悲な行いと相容れることができましょう。 その瞬間、悪は馬脚を露わす。 こうして悪は常に滅ぼされ、破滅させられるわけですが、そこでめでたしめでたしで幕が下りるのではなく、最後にもう1回、大きなどんでん返しがあると僕は思っているんですね。 それは次回に書こうと思います。 愛と慈悲の導くままに

稀代の名悪役”イブリース”

 結局悪魔って何なんですかね? たしかイスラムではイブリースだったと思います。こいつも神の被造物の一員で、天使だったと思いますが、人間を神に背かせることができると神に言ったために、 「それならやってみろ」 って神に言われて、人の心の中に悪魔として入り込んだという筋書きだったと思います。キリスト教ではサタンで、これもまた元天使ですね。こちらは堕天使か。 つまり、イブリースは神の承認のもとにわたしたちの心の中に悪魔として入り込んだということです。だいたい、たかが一天使の分際で、神に勝てるわけないじゃありませんか。格が違いすぎますよ。最初から勝負になってません。そんなことはイブリースも百も承知だったはずです。ということは、イブリースは 「悪役を敢えて買って出た」 ということになります。一番損な役回りを、一番の嫌われ役を、最後にはいつも見事に正義によって、すなわち愛によって、やられる役を、あえて買って出たのです。こいつがいないと、神の栄光が引き立たないからです。 それにしても、この悪役イブリース、最近ちょっと頑張り過ぎじゃね?やり過ぎ感がないこともないですが、これは彼が稀代の名悪役ってことか? そして彼は自分の役目を今でも見事に演じ続けているために、わたしたちの中に誰一人として100%の善人はいない、ということになるのです。 ではなぜいったい神はイブリースを悪役に抜擢しなければならなかったのか。 わたしたち人間の認識の仕方のせいでしょうか。 光と闇、善と悪、生と死 私たちは対立概念がないと、物事を認識できないらしい。だから、神を認識するためには、その対立概念として悪魔を立てる必要がある。悪役がいなければヒーローもいない。 人間の性(さが)って、ちょっと悲しいですね。 どうしてこうなのか? もしかしたら、脳内の神経回路の仕組みから来るのかな?神経細胞が受け取る情報って、結局電気信号だよね。電気信号って、オンかオフだよね。オンとオフの対立概念。または0と1の対立概念。 人間の認識の仕方が、オンとオフから成り立っている。ずーっとオンだったり、ずーっとオフだったら認識できない。 すべては神から来るのだけれど、神がすべてだと、そのままだと人間は神がわからん。 だとしてもこの稀代の名悪役、もうちょっと手加減してもらいたいものです。 愛と慈悲の導くままに

人を裁いてはならない

 わたしたちの中にどうして悪魔が住み着いているのか。 それは人を赦すためではないでしょうか。 自分の心の中にいる悪を自覚した時、他者の罪に対して自分は裁く権利がないことを知る。 自分だって心の中に悪魔がいるんだから同罪じゃないか。それを棚に上げて他人を裁くことなどどうしてできるのか、ってことです。 「人を裁いてはならない」 聖書の話を思い出しました。密通か何かが露見して、人々が石打の刑でその女性を処刑することを要求した時、キリストが「あなたがたの中で罪を犯したことがない人だけ石を投げなさい」といったところ、誰も石を投げれなかったため、その女性は救われたという話だったと思います。 わたしたち人間には、100%の悪人もいなければ、100%の善人もいない。悪人と思われている人のなかにも善の部分、仏教でいう仏性はあり、また善人と思われている人の中にも悪魔は住み着いている。 でも、その悪魔ってどこからきたのか。結局、神から来たんですよね。あらゆるものの創造主であらせられるのが神なのですから。神は、わざと、ゆえあって、あえて、悪魔をわたしたちの心の中に送り込んだに違いありません。 それは、わたしたちが他者を赦すためではないか そして、わたしたちが他者の罪を赦すとき、自分の罪も赦される時が来る そして、わたしたちが他人の罪を赦さない時、自分の罪もまた裁かれる時が来る わたしたちの中にいる神が、仏が、すなわち、わたしたちの心の中の愛が、慈悲が、他者の罪を、すなわち他人の中にいる悪魔を赦す つまりは、神が悪魔を赦すわけです。神が悪魔を無償の愛でもって赦すわけです。 ところが、悪魔ってやつはこの「無償の愛」ってやつが大の苦手で、これをやられると本当に困ってしまう。本当に参ってしまう。悪魔が悪魔でいられなくなってしまうのです。 というわけで、悪魔はこの「無償の愛」攻撃を食らって倒されてしまい、神の勝ちという筋書き。 やっぱり最後に愛は勝つんだよな。やっぱり悪魔は神の「やられ役」なんじゃないですか。 この「無償の愛」が、どんなに最強の武器なのかは、ドストエフスキーが確か「カラマーゾフの兄弟」の中で切々と説いてましたね。これを読んだときは、まるで聖典を読んでいるかのように錯覚しましたけど。慈悲の光が、愛の光が、見えて困った。 さてと、自分がひどいことをされたとき、相手をゆるせるってか...

慈悲の祈りⅠ

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 神が、仏が、どんなにわたしたちを愛してくださっているかを思う時、自然と感謝の念が湧いてきて、神を、仏を、賛美する歌を歌いたくなります。 ということで、即興で歌った讃美歌です。 ただ、僕はプロの歌手ではないので、それをそのままお聴かせするのも憚られますので、ジュリアード出のバイオリニストに弾いてもらいました。 愛と慈悲の導くままに

大きな命

 人の心の中には悪魔と神(仏)が同時に存在しているとして、その悪魔と神(仏)って何かなと考えていたのですが、それは「利己心」と「利他心」じゃないでしょうか。 人には誰でも利己心がありますね。 そして同時に、人には誰でも利他心も持ち合わせています。(どうも最近はお金至上主義のせいで利他心は肩身が狭そうですが) ところで、人間が利己的にばかり振舞うと自分の利益のために他人の物を取ったり(盗みや強盗)、他人をだましたり(詐欺)、自分の利益に邪魔なものは攻撃して排除しようとしたり(暴力、殺人、戦争)、もう自分以外は全部敵となってしまい、常に争いが絶えず、油断も隙もない世の中となり、この世は地獄となってしまいます。 つまり、短期的には自分の利益が得られても、社会全体が乱れてしまえば、結局自分の利益も守れなくなり、自己の利益も失います。 では、人間が利他的に振舞ったとしたらどうでしょう。一旦は自分が損みたいですけど、相手はハッピー。いい気分でしょうね。そして優しい気持ちになれるでしょうね。そして今度は自分も利他的に振舞おうとするでしょうね。そうしたら、またその相手がハッピー。いい気分でしょうね。そして優しい気持ちになれる。そして今度は自分も利他的に振舞ってもいいかも、ってなるかも。そうやってどんどんハッピーの輪が広がっていったらいいですね。 ところで、最初に利他的に振舞った人は損したように見えますが、それがそうでもない。確かに一時的には損ですよ。でもね、利他の輪が世の中に広まったら、世界は味方だらけになりますよ。盗みや詐欺や暴力や戦争もない平和な世界になってますね。そうしたら、自分が助けが必要になった時は、みんな助けてくれますよ。そして、その時は必ず来るのです。人は必ず年を取りますからね。体も心も衰えて、ついには人の助けなしでは生きられなくなる日が来るのです。その時に、まわりが優しい心の持ち主だらけだったらやっぱりハッピーですね。 利己心の行きつくところは地獄 利他心の行きつくところは天国 これは現世とは別のところの話ではなく、この世がそのまま地獄にもなるし天国にもなるのです。 では、この疫病神の利己心はどこからくるのか。 それは自分の命と他人の命を全くの別物と考えることから来るのではないでしょうか。 自己と他者を対立する別物として捉えることから来る あなたとわたしがま...

一番悪い奴ら

 自分の心の中に悪魔がいると白状しておきながら、すべての人の心の中に神が(仏が)いると言ったりして矛盾していますよね。 そうです。人間とは矛盾した存在なのです。 人の心の中には悪魔と神が同時に存在しているのです。 だから、100%悪人もいなければ、100%善人もいません。 どんなに善人に見える人間でも、かならずその人の心の中には悪魔がいる。そして、その闇の部分を暴き立ててスクープされたら、どんな人間もたちまち悪者に仕立て上げられてしまいます。 よく、週刊誌で有名人のスキャンダルが晒されているじゃないですか。そして、その人たちは偽善者で、実はとんでもない悪人だったと。 だいたいいつもそういう筋書きですけど、そして僕ら一般大衆はそれを見て留飲を下げていますけど。 でもね、もし自分が狙われてそれをやられたら、持ちこたえられる人なんて、この世に一人もいないと思います。少なくとも僕は3分と持ちませんね。たたけばいくらでもホコリが・・・ それが人間のあるがままの姿でしょ。 一番怖いのは、自分が潔癖だと思い込んでるやつらです。 一番怖いのは、やくざとマフィアとか、いかにも悪者って人じゃないんです。その人たちは自分たちがワルだって自覚してますから。 一番怖いのは、自分が絶対に正しいと思い込んでいる人。 つまり、政治的指導者とか、宗教的指導者とか、科学者です。 自分は間違いを犯さず、絶対的に正しいと思い込むと、他者に徹底的に無慈悲になれるんです。そして、何百万人もの人たちをガス室に送り込んで殺したり、テロで何千人も殺したり、原爆を開発して一瞬のうちに何十万人もの命を奪ったり・・・ やくざやマフィアにそんなことできますか。 一番悪い奴らは自分が一番正しいと思い込んでいる人