慈悲の祈りⅠ リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 6月 09, 2025 神が、仏が、どんなにわたしたちを愛してくださっているかを思う時、自然と感謝の念が湧いてきて、神を、仏を、賛美する歌を歌いたくなります。ということで、即興で歌った讃美歌です。ただ、僕はプロの歌手ではないので、それをそのままお聴かせするのも憚られますので、ジュリアード出のバイオリニストに弾いてもらいました。愛と慈悲の導くままに← → リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
聖典を封印されてしまった 8月 06, 2025 次にキリスト教に行くと言っておきながらなんですが、その前に断っておくことがありました。 このサイトの聖典とか聖人からの言葉の引用って適当ですよね。ちゃんと、どの聖典のどの章にある、とか言って正確に出典を明示していない。「確か、こんな風に言ってたと思ます」みたいな書き方で済ませてしまっている。 これからもこのスタイルで行くつもりです。 これについては最初の方のポストで書いたと思いますが、「もう聖典のどこそこの語句を引用して説くスタイルはやめようと思う」からです。正確に出典を明示しながら聖句を引用して説くスタイル、実は20年以上前にもう散々やったのです。つまりは、聖典を見ると、慈悲の光がみえて、愛の光が見えてしょうがなくなって、その個所に付箋を貼っていたら1ページに何枚も付箋を貼ってしまい、嫁にも「バカじゃない」と言われる始末。そこをいちいちブログに書いたりしていた時期もあった。 だから、今でも手を伸ばせば届くところに聖典はあるのです。聖書、仏典、コーラン、ハディース、それにラーマクリシュナの福音。また聖人の書いた著作も結構あったのですが、実は思うところあって宗教関係の本はほとんど神田の宗教書を専門に扱う古本屋に送ってしまった。仏典は膨大ですから、今は主要なものしか手元には残ってません。大乗の涅槃経とか華厳経とか、取っとけばよかったな、とちょっと後悔しているものもある。仏教では仏典以外でどうしても捨てられなかったのは親鸞と日蓮の著作集が1冊ずつ。お互い隣同士で仲良く並んでいます。キリスト教関係ではアウグスティヌスやルターの著作も手放してしまい、残っているのは「聖フランシスコの小さき花」だけ。これだけはどうしても捨てられませんでした。前にキリスト教ならルター一択だとかいいながら、「聖フランシスコの小さき花」なんですよねえ。なんでだよ。 それでも、基本聖典はさすがに手放すには忍びなく、まだ残っているので、開いて調べれば出典を明示することはできるのです。 じゃあ、なぜそれをやらない? なんか封印されちゃってる感じなんですよね。神様に。仏さまに。 お前はもう読むなって。書物から顔を上げろって言われてる感じ。 だから、ここ20年ほど、一度も聖典開いてないです、ずっと。「ネトゲ廃人」になっていたせいもあるのですが。でも、このブログ、というか日記を書きだしてからも開いてない... 続きを読む
宗教は人類の生存のための最適解 1月 03, 2026 前回「善なる大義のために悪を用いてはならない」と言いましたが、生存が脅かされるような危機的場合はどうなのでしょう。 「ひとたび生存となると、すべてが許される」 生存が掛かった生きるか死ぬかの究極的状況では、道徳、法律、善悪の概念などすべてが無効となってしまう。 戦争で街が包囲され、食糧が尽きると人間は共食いを始めます。そしてまずは子供から食われてしまう。そんな恐ろしいことが・・・と思うでしょうが、中国の歴史ではよくあったようですし、20世紀においても、山崎豊子の小説「大地の子」で国共内戦で中国共産軍に包囲され、飢餓に陥った国民党側の都市での住民同士の「共食い」現象が描かれてます。少年だった主人公も「食糧」として狙われ、食われそうになったところ、包囲が一部解け、危うく虎口(人口?)を脱したシーンが描かれています。人間、飢餓状態になると他人が食糧に見えてくるらしい。第2次世界大戦でも食糧の尽きた軍隊で敵などの人間を喰う「共食い」は行われていたらしい。 仏教ではそれを「餓鬼道に堕ちる」と言う。文字通り、餓えて鬼となって人を喰らう。実際、この世でも現出した世界だった。 生存の危機にさらされると、善悪なんて吹っ飛んでしまいます。でもそれは仕方ないですね。自分はそうならないと思っている人は、そういう状況に陥ったことがないから言えることであって、単に今まで運が良かっただけかもしれない。運悪く、餓鬼道に堕とされたら、餓鬼となって人を喰っているかもしれない。 神はわたしたちに命を下さった。命は一番大切なものですね。命を頂いた者は、命を落とさないのが至上命令。だから生存のためならすべてが許される。 それは宗教の説く教えは矛盾しないのか。宗教は平和を説き、慈悲を説き、愛を説き、しかし、わたしたちは命をつなぐという至上命題のためにはどんなことでもする。 矛盾しないと思います。なぜなら、神の教えは、仏の教えは 「われわれ人類の生存のため」の最適解 だからです。安易に「生きるためには何でも許される」からといって自分の利益のことだけを考えてすべての人類が行動したら、たちまち右も左も戦争状態。そして、その戦争が「餓鬼道」を現出する。宗教が慈悲を説き、愛を説き、平和を説くのは、「生きるためには人を喰う」世界を作り出さないためです。 また、戦争でなくても、極度な貧困によって生活できなくなり... 続きを読む
宗教の二つの定理から導き出されること 8月 18, 2025 これまで仏教→キリスト教→イスラム教→ラーマクリシュナ(ヒンズー教?)と通ってきて、それぞれの聖典を読んできましたが、どういうわけかある時点から神に(仏に)聖典を封印されてしまい、ここ15年か20年ほど一度も聖典を開けなくなりました。今も左の本棚にあるのにね。 そうすると、当然聖典の文言はどんどん忘れていってしまい、残ったことはと言えばたった二つのことだけ。 1. 神(仏)は私たちを愛している 2. 神(仏)は唯一全知全能である そして、この二つの定理から導き出されることは 「すべての人は救われる」 人は衆生と言うべきかもしれません。つまりはすべての命。 当然の帰結です。1+1=2 と言ってるのと同じくらい自明の理です。私たちが神(仏)から愛されており、その神(仏)が全知全能なら、救われるに決まってるじゃないですか。 これが言いたくて僕はここにいるんですけど、こんなことを言ったのは僕が最初じゃありません。親鸞も言ってるし、日蓮もしぶしぶ認めたし、キリスト教でもオリゲネスが言っていたし(異端扱いされちゃったらしいけど)、アウグスティヌスも否定はしなかったし(認めたわけではないけどね)、そしてマホメットからは「お前それ、あまり言わない方がいいぞ(みな安心しきってしまうからな)」って口止めされた気がしますけど。 だいたい、法華経で不軽菩薩がさんざん言いふらしていたことなんですね。 「わたしはあなた方を軽んじたりは致しません。あなた方はみんな仏になるでしょう」 すべての人を軽んじないから「不軽菩薩」という名が付いたんですが、これって 「すべての人は救われる」 って言い続けてるのと同じでしょ。 この菩薩、ちょっと面白いので僕は大好きなのですが、話が長くなりそうなのでこれは次回にします。 愛と慈悲の導くままに ← → 続きを読む
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