慈悲の祈りⅠ リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 6月 09, 2025 神が、仏が、どんなにわたしたちを愛してくださっているかを思う時、自然と感謝の念が湧いてきて、神を、仏を、賛美する歌を歌いたくなります。ということで、即興で歌った讃美歌です。ただ、僕はプロの歌手ではないので、それをそのままお聴かせするのも憚られますので、ジュリアード出のバイオリニストに弾いてもらいました。愛と慈悲の導くままに← → リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
本物と偽物の宗教の見分け方 7月 08, 2025 すべての宗教は同じゴールに至る様々な道のようなもであるとは言っても、宗教の仮面をかぶったインチキなものも多いので、本物と偽物の見分ける方法が必要ですね。 僕は本物かどうか迷ったときは必ず 「その神は、または仏は、またはご本尊は、信じない者も救いますか」 と問うことにしています。これは嫌な質問、というか意地悪な質問、というか悪魔の問いだなと自分でも思うのですが、つまりは究極のところを試しているわけです。 要するに 「すべての人を救うのか」 と聞いているわけです。 さて、まずは仏教から、親鸞、というか浄土真宗ですが、答えは "YES!" です。試みに僕の理解している範囲でその概要を説いてみます。 阿弥陀仏はすべての衆生が仏になるまで自分は仏にならないと誓いました。もうこれだけで、すべての人を、信じない者も含めて救うということが宣言されているわけですが、ここで少し問題が・・・ 「但し、五逆十悪をば除く」 とか 「但し、正法誹謗の者をば除く」 とか、但し書きが付いている。この例外規定、悪い役人が法律を骨抜きにするためによくやる常套手段で、これがあるために阿弥陀仏の無限の慈悲が骨抜きにされてしまう。 この「例外条項」を入れたのは、最初は親切心から、親心から入れたのかもしれません。つまり、「すべての人を救う」と言ってしまったら、わたしたちは安心しきってしまい、甘えて 「じゃあ何でもやっていいのか」 となって、悪に落ちる馬鹿者が続出するのを心配してのことでしょう。しかし、なんでもやっていいからと言って悪を行うのは、結局我と我が身に仇をなすようなもの。悪とは最初に甘い汁を吸わせていい思いをさせて、後でそれ以上の苦しみを与えるものであり、結局割に合わない、損なものなのです。だから、どうせ救われるから何でもやっていいんだなと言って、悪行を重ねるのは愚かなことです。損だからです。 それでも、この例外規定というやつは、一旦入れてしまうと、無慈悲なニセ宗教者によって際限なく拡大解釈されてしまい、とうとうニセ宗教者を信じなければ 「誰も救われない」 ということにまで至ってしまう。法律の例外規定の恣意的拡大解釈、これまた悪い役人、悪い権力者がよくやる常套手段なのであります。 それで、親鸞の解釈はというと、この例外規定、もともとは無かったものが後で誰かが余計なお節介をして付け... 続きを読む
聖典を封印されてしまった 8月 06, 2025 次にキリスト教に行くと言っておきながらなんですが、その前に断っておくことがありました。 このサイトの聖典とか聖人からの言葉の引用って適当ですよね。ちゃんと、どの聖典のどの章にある、とか言って正確に出典を明示していない。「確か、こんな風に言ってたと思ます」みたいな書き方で済ませてしまっている。 これからもこのスタイルで行くつもりです。 これについては最初の方のポストで書いたと思いますが、「もう聖典のどこそこの語句を引用して説くスタイルはやめようと思う」からです。正確に出典を明示しながら聖句を引用して説くスタイル、実は20年以上前にもう散々やったのです。つまりは、聖典を見ると、慈悲の光がみえて、愛の光が見えてしょうがなくなって、その個所に付箋を貼っていたら1ページに何枚も付箋を貼ってしまい、嫁にも「バカじゃない」と言われる始末。そこをいちいちブログに書いたりしていた時期もあった。 だから、今でも手を伸ばせば届くところに聖典はあるのです。聖書、仏典、コーラン、ハディース、それにラーマクリシュナの福音。また聖人の書いた著作も結構あったのですが、実は思うところあって宗教関係の本はほとんど神田の宗教書を専門に扱う古本屋に送ってしまった。仏典は膨大ですから、今は主要なものしか手元には残ってません。大乗の涅槃経とか華厳経とか、取っとけばよかったな、とちょっと後悔しているものもある。仏教では仏典以外でどうしても捨てられなかったのは親鸞と日蓮の著作集が1冊ずつ。お互い隣同士で仲良く並んでいます。キリスト教関係ではアウグスティヌスやルターの著作も手放してしまい、残っているのは「聖フランシスコの小さき花」だけ。これだけはどうしても捨てられませんでした。前にキリスト教ならルター一択だとかいいながら、「聖フランシスコの小さき花」なんですよねえ。なんでだよ。 それでも、基本聖典はさすがに手放すには忍びなく、まだ残っているので、開いて調べれば出典を明示することはできるのです。 じゃあ、なぜそれをやらない? なんか封印されちゃってる感じなんですよね。神様に。仏さまに。 お前はもう読むなって。書物から顔を上げろって言われてる感じ。 だから、ここ20年ほど、一度も聖典開いてないです、ずっと。「ネトゲ廃人」になっていたせいもあるのですが。でも、このブログ、というか日記を書きだしてからも開いてない... 続きを読む
すべての人は救われるのか~キリスト教編~ 7月 17, 2025 すべての人は救われるのか? 今度はキリスト教に聞いてみましょう。 キリストは人類の贖罪のためにこの世に来たのですから、これですべての人が救われなかったら、十字架は何だったのか。また、「汝の敵を愛せ」と教えながら、自分の最大の敵である「信じない者」を愛さなかったら、そして救わなかったら、あの教えは何だったのか、と僕は思うのですが、キリスト教の教義としてはどうなのでしょうか。 キリスト教の聖職者の中にも、神の救いを異邦人(信じない人)にまで広げる人オリゲネスのような人はいたようです。オリゲネスは悪魔も最後には救われると説いたと今ChatGPTに聞いたら書いてあったので、イブリース(イスラム教の悪魔)も救われると僕が言ったのと似てるかな。でも、その考えは異端扱いのようですね。 そこでキリスト教最大の教父アウグスティヌスに聞いてみたのですが、彼は有名な著作の中で ”神の救いを異邦人(信じない人)にまで広げようとする人々もいるようだが、かれらがどうしてもそこまで言うなら、わたしは止めない” という趣旨のことを言っていたと思います。これは微妙な答えですね。「そこまでいうなら私は止めない」とは。教会としては「すべての人が救われる」といってしまったら 「それを言っちゃあおしまいよ」 って感じで、ぶっちゃけ過ぎだということなのでしょう。でも、完全に否定することもできなかったのです。親鸞は認めましたし、日蓮も最後にはしぶしぶ「すべての人が救われる」ことを認めましたが、アウグスティヌスは狡猾に逃げを打ってきました。でも、本当はわかってたんだと思いますよ。すべての人が救われるってことを。僕にはそう思えるのです。仏教に限らず、キリスト教やイスラム教やヒンズー教にしろ、すべての偉大なる聖人の方々は、神が、仏が、最後にはすべての人を救って下さるってことを。でも、それを言ってしまったら、「みな安心しきってしまって」、かえって私たちのために良くないから、あえて言わないのです。 ということで、僕が言う「すべての人が救われる」という主張はキリスト教では表向きは異端扱いですが、本当のところ、奥義のところではさあどうですかね。 ああ、ルターに聞くの忘れてました。でも次はイスラム教に聞いてみます。 愛と慈悲の導くままに ← → 続きを読む
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