大きな命

 人の心の中には悪魔と神(仏)が同時に存在しているとして、その悪魔と神(仏)って何かなと考えていたのですが、それは「利己心」と「利他心」じゃないでしょうか。

人には誰でも利己心がありますね。

そして同時に、人には誰でも利他心も持ち合わせています。(どうも最近はお金至上主義のせいで利他心は肩身が狭そうですが)

ところで、人間が利己的にばかり振舞うと自分の利益のために他人の物を取ったり(盗みや強盗)、他人をだましたり(詐欺)、自分の利益に邪魔なものは攻撃して排除しようとしたり(暴力、殺人、戦争)、もう自分以外は全部敵となってしまい、常に争いが絶えず、油断も隙もない世の中となり、この世は地獄となってしまいます。

つまり、短期的には自分の利益が得られても、社会全体が乱れてしまえば、結局自分の利益も守れなくなり、自己の利益も失います。

では、人間が利他的に振舞ったとしたらどうでしょう。一旦は自分が損みたいですけど、相手はハッピー。いい気分でしょうね。そして優しい気持ちになれるでしょうね。そして今度は自分も利他的に振舞おうとするでしょうね。そうしたら、またその相手がハッピー。いい気分でしょうね。そして優しい気持ちになれる。そして今度は自分も利他的に振舞ってもいいかも、ってなるかも。そうやってどんどんハッピーの輪が広がっていったらいいですね。

ところで、最初に利他的に振舞った人は損したように見えますが、それがそうでもない。確かに一時的には損ですよ。でもね、利他の輪が世の中に広まったら、世界は味方だらけになりますよ。盗みや詐欺や暴力や戦争もない平和な世界になってますね。そうしたら、自分が助けが必要になった時は、みんな助けてくれますよ。そして、その時は必ず来るのです。人は必ず年を取りますからね。体も心も衰えて、ついには人の助けなしでは生きられなくなる日が来るのです。その時に、まわりが優しい心の持ち主だらけだったらやっぱりハッピーですね。

利己心の行きつくところは地獄

利他心の行きつくところは天国

これは現世とは別のところの話ではなく、この世がそのまま地獄にもなるし天国にもなるのです。

では、この疫病神の利己心はどこからくるのか。

それは自分の命と他人の命を全くの別物と考えることから来るのではないでしょうか。

自己と他者を対立する別物として捉えることから来る

あなたとわたしがまったく同じとは言いませんよ。あなたの命と私の命は別物。確かにそう見えるけど本当にそうか?

表面的にはわたしたち一人一人は別の人生を生きていて、命はそれぞれ自分個人にだけ属するように見えますが、根っこのところで私たちはみんなつながっているのです。お互いに依存しあっているのです。命自体がつながっているのです。

つまり、わたしたちはみんなで「大きな命」を生きている

たとえば、桜の木のように

桜の木には春になるとそれはたくさんの、たくさんの花を咲かせますね。その花のひとつひとつが、ひとりひとりのそれぞれの命。でも、花の命はすべて木につながっているのです。そしてみんなで大きな桜の木として、大きな命を生きている。

花だけが一人で生きているのではないのです

そして、花が散っても、すぐに、短い時の間に散っても、木は生きている。

大きな命は生きているのです。

しかも、散ったその花から、実ができ、種ができ、その種から、木が生まれる。

散った小さな命から、大きな命さえ新たに生まれるかもしれないのです。

利他心とはそういうことです。小さな命は、大きな命に全部つながっているから、その大きな命の利益になるように生きろということなのです。

大きな命が損なわれれば、小さなひとりひとりの命も生きてはいけないのです。

だから、本当は利他ではなく、全体を利するという意味で利全と言うべきかもしれない。そして、全体に中に自己も含まれるのだから、利他は利己と、究極的には矛盾しない。それどころか、真の利己とは利他である。

宗教が愛を説き、慈悲を説くのも、利他を説いているんですよね。

それは神が、仏が、わたしたちに本当に幸せになってほしいから

わたしたちはみんなでひとつの大きな命を生きてるんですよって教えてくれてるんですよ。

そして、その大きな命を、神と言ったり、仏と言ったりしているんじゃないですか。

愛と慈悲の導くままに

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