人を裁いてはならない

 わたしたちの中にどうして悪魔が住み着いているのか。

それは人を赦すためではないでしょうか。

自分の心の中にいる悪を自覚した時、他者の罪に対して自分は裁く権利がないことを知る。

自分だって心の中に悪魔がいるんだから同罪じゃないか。それを棚に上げて他人を裁くことなどどうしてできるのか、ってことです。

「人を裁いてはならない」

聖書の話を思い出しました。密通か何かが露見して、人々が石打の刑でその女性を処刑することを要求した時、キリストが「あなたがたの中で罪を犯したことがない人だけ石を投げなさい」といったところ、誰も石を投げれなかったため、その女性は救われたという話だったと思います。

わたしたち人間には、100%の悪人もいなければ、100%の善人もいない。悪人と思われている人のなかにも善の部分、仏教でいう仏性はあり、また善人と思われている人の中にも悪魔は住み着いている。

でも、その悪魔ってどこからきたのか。結局、神から来たんですよね。あらゆるものの創造主であらせられるのが神なのですから。神は、わざと、ゆえあって、あえて、悪魔をわたしたちの心の中に送り込んだに違いありません。

それは、わたしたちが他者を赦すためではないか

そして、わたしたちが他者の罪を赦すとき、自分の罪も赦される時が来る

そして、わたしたちが他人の罪を赦さない時、自分の罪もまた裁かれる時が来る

わたしたちの中にいる神が、仏が、すなわち、わたしたちの心の中の愛が、慈悲が、他者の罪を、すなわち他人の中にいる悪魔を赦す

つまりは、神が悪魔を赦すわけです。神が悪魔を無償の愛でもって赦すわけです。

ところが、悪魔ってやつはこの「無償の愛」ってやつが大の苦手で、これをやられると本当に困ってしまう。本当に参ってしまう。悪魔が悪魔でいられなくなってしまうのです。

というわけで、悪魔はこの「無償の愛」攻撃を食らって倒されてしまい、神の勝ちという筋書き。

やっぱり最後に愛は勝つんだよな。やっぱり悪魔は神の「やられ役」なんじゃないですか。

この「無償の愛」が、どんなに最強の武器なのかは、ドストエフスキーが確か「カラマーゾフの兄弟」の中で切々と説いてましたね。これを読んだときは、まるで聖典を読んでいるかのように錯覚しましたけど。慈悲の光が、愛の光が、見えて困った。

さてと、自分がひどいことをされたとき、相手をゆるせるってか?

そりゃー無理でしょうね。でも、そうしたら、後で自分も裁かれるのもまた事実。

だから、もうどうしたらいいかわかんないし、どうしようもないので、神に、仏にすがるしかないです、ってのが親鸞の他力本願の思想だと僕は勝手に思っています。

愛と慈悲の導くままに


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