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宗教の二つの定理から導き出されること

 これまで仏教→キリスト教→イスラム教→ラーマクリシュナ(ヒンズー教?)と通ってきて、それぞれの聖典を読んできましたが、どういうわけかある時点から神に(仏に)聖典を封印されてしまい、ここ15年か20年ほど一度も聖典を開けなくなりました。今も左の本棚にあるのにね。 そうすると、当然聖典の文言はどんどん忘れていってしまい、残ったことはと言えばたった二つのことだけ。 1. 神(仏)は私たちを愛している 2. 神(仏)は唯一全知全能である そして、この二つの定理から導き出されることは 「すべての人は救われる」 人は衆生と言うべきかもしれません。つまりはすべての命。 当然の帰結です。1+1=2 と言ってるのと同じくらい自明の理です。私たちが神(仏)から愛されており、その神(仏)が全知全能なら、救われるに決まってるじゃないですか。 これが言いたくて僕はここにいるんですけど、こんなことを言ったのは僕が最初じゃありません。親鸞も言ってるし、日蓮もしぶしぶ認めたし、キリスト教でもオリゲネスが言っていたし(異端扱いされちゃったらしいけど)、アウグスティヌスも否定はしなかったし(認めたわけではないけどね)、そしてマホメットからは「お前それ、あまり言わない方がいいぞ(みな安心しきってしまうからな)」って口止めされた気がしますけど。 だいたい、法華経で不軽菩薩がさんざん言いふらしていたことなんですね。 「わたしはあなた方を軽んじたりは致しません。あなた方はみんな仏になるでしょう」 すべての人を軽んじないから「不軽菩薩」という名が付いたんですが、これって 「すべての人は救われる」 って言い続けてるのと同じでしょ。 この菩薩、ちょっと面白いので僕は大好きなのですが、話が長くなりそうなのでこれは次回にします。 愛と慈悲の導くままに

宗教の二つの定理

 すべての聖典を要約すると 1. 神は(仏は)わたしたちすべてを愛してくださっている 2. わたしたちすべてを愛してくださっているその神(仏)は唯一全知全能である の二つの定理に集約されると思うのです。 まずはその1ですが、もし神様が(仏さまが)わたしたちを愛してくださらなければ、わたしたちはもう一巻の終わりです。絶望です。いくら神が全知全能であろうと、その神がわたしたちを愛していないのなら、わたしたちにとって神は何の意味もありません。神が私たちを愛してくださるからこそ、わたしたちにとって神は意味があるのです。 次にその2ですが、いくら神がわたしたちを愛してくれても、全知全能でなければこれまた意味がありません。神が全知全能でなければ、「こいつだけは神でも救えない」という事態が想定されます。そして「こいつだけは無理」という例外規定は常に拡大解釈されて、神の愛は骨抜きにされ、「こいつも、こいつも救えない」となり、ついには「みんな救われない」となる。 「こいつだけは救えない」 という時、その「こいつ」に自分が含まれる。「こいつ」とは自分のことである。 阿弥陀仏が菩薩のとき「すべての衆生が救われるまで自分は仏にならない」と誓ったのは、そういうことでしょう。 自分たちだけが救われて天国に行き、他の者たちが裁かれて地獄に落ちるのを良しとするのは、 「俺たちだけがリッチになりさえすれば、他の奴らが貧乏になろうとわしゃ知らん」 と言うのとどこが違う? 「俺たちファースト」ですか。 そりゃみんな自分がかわいいですが、それを堂々と公言するのって憚られませんか?じゃあ自分は他者に対して何をしたって言われれば大したことは何もしてないのですが、だからといって、開き直って自分ファーストを正当化しようとまではさすがに思いません。 なんか話がそれましたが、神が全知全能でなければ、愛があっても困ります。そして、神が全知全能なら、わたしたちひとりひとりを救うことももちろん可能なわけです。 「救えるのに救わない」 そんなわけないじゃん。 地獄に落ちるべき衆生を救うのが神の役目でしょう。 「そんなことお前に言われなくてもわかっておるわい」 そうでした。頼りにしておりますぞ、神様、ほとけさま。 なんか今日は変な終わり方になってしもうた。 愛と慈悲の導くままに

すべての聖典を要約すると

 次はキリスト教に行くと言っておきながら、聖典の封印の話からまた道がそれてしまいそうです。ブログを書くときにいつも、 「次はどっちに行こうかな」 と迷う時があります。こっちに行ったらこっちの世界があり、あっちに行ったらまた別の世界がある。まるで量子力学のパラレルワールドみたいな感じです。粒子の位置が確定するごとに世界が分岐していくみたいな。 さて、話を元に戻すと、聖典が封印されてしまって、ここ15年か20年くらい一度も開いてないということをお話ししたと思います。手を伸ばせば届くところに今もあるんですけど。左の本棚にね。で、そうするとどうなるかというと、当然、 「どんどん忘れていってしまう」 ですよね。だんだん聖典の内容が定かでなくなり、「確かブッダてこう説いてたよな」とか、「聖書にこう書いてあったよな」とか「コーランにはこうあったよな」、「ラーマクリシュナはこう言ってたよな」みたいな感じで詳細がテキトーになっていきます。そしてついには、愛と慈悲しか残らない。 結局、たった二つを除いて全部忘れてしまいそうです。 1. 私たちは神に(仏に)愛されていること 2.私たちを愛してくださっているその神は(仏は)唯一全知全能であること 結局宗教ってこういうことじゃないですか。それを伝えるために、神は人類の民族一つ一つに預言者を遣わし、様々な聖典、様々な宗教が生まれたのです。その時代、その地域に応じて目の前にいる人に理解できるようにわかりやすく説いたので、時代が違えば、地域が違えば、説き方が違ったり、科学的事実と合わなくなったり、その土地の環境と合わなくなったりするでしょう。聖典の一字一句にこだわれば、他の聖典や、科学的事実やその土地の習俗や環境と衝突するに決まってるじゃないですか。 言葉って不便ですね。そして不完全。神とか仏とか、愛とか慈悲とか、その言葉の区別だけでも 「あー、めんどくさい」 と思っているのです。 とにかく、この2つの定理を基にして、もう一度進もうと思っています。 どうしてこの2つなのかはまた次回。 愛と慈悲の導くままに

聖典を封印されてしまった

 次にキリスト教に行くと言っておきながらなんですが、その前に断っておくことがありました。 このサイトの聖典とか聖人からの言葉の引用って適当ですよね。ちゃんと、どの聖典のどの章にある、とか言って正確に出典を明示していない。「確か、こんな風に言ってたと思ます」みたいな書き方で済ませてしまっている。 これからもこのスタイルで行くつもりです。 これについては最初の方のポストで書いたと思いますが、「もう聖典のどこそこの語句を引用して説くスタイルはやめようと思う」からです。正確に出典を明示しながら聖句を引用して説くスタイル、実は20年以上前にもう散々やったのです。つまりは、聖典を見ると、慈悲の光がみえて、愛の光が見えてしょうがなくなって、その個所に付箋を貼っていたら1ページに何枚も付箋を貼ってしまい、嫁にも「バカじゃない」と言われる始末。そこをいちいちブログに書いたりしていた時期もあった。 だから、今でも手を伸ばせば届くところに聖典はあるのです。聖書、仏典、コーラン、ハディース、それにラーマクリシュナの福音。また聖人の書いた著作も結構あったのですが、実は思うところあって宗教関係の本はほとんど神田の宗教書を専門に扱う古本屋に送ってしまった。仏典は膨大ですから、今は主要なものしか手元には残ってません。大乗の涅槃経とか華厳経とか、取っとけばよかったな、とちょっと後悔しているものもある。仏教では仏典以外でどうしても捨てられなかったのは親鸞と日蓮の著作集が1冊ずつ。お互い隣同士で仲良く並んでいます。キリスト教関係ではアウグスティヌスやルターの著作も手放してしまい、残っているのは「聖フランシスコの小さき花」だけ。これだけはどうしても捨てられませんでした。前にキリスト教ならルター一択だとかいいながら、「聖フランシスコの小さき花」なんですよねえ。なんでだよ。 それでも、基本聖典はさすがに手放すには忍びなく、まだ残っているので、開いて調べれば出典を明示することはできるのです。 じゃあ、なぜそれをやらない? なんか封印されちゃってる感じなんですよね。神様に。仏さまに。 お前はもう読むなって。書物から顔を上げろって言われてる感じ。 だから、ここ20年ほど、一度も聖典開いてないです、ずっと。「ネトゲ廃人」になっていたせいもあるのですが。でも、このブログ、というか日記を書きだしてからも開いてない...

霊性について

 自分が「ネトゲ廃人」になったからには、ゲーム中毒者の気持ちが分かる、ひいては中毒者全般の精神状態も今なら我が身のように分かる。 ってことは、人類がおよそ3000年前から「お金中毒」になって、魂をカネという悪魔に売り渡してしまって今に至る精神状態も分かる。 これは前にもポストしたことにつながってしまいますし、これについて考えるとまたいくらでも書き続けたくなりますし、それが自分の使命かなとも思うのですが、まずは自分が通ってきた宗教の道について書いている途中だったと思いますので、ちょっとそれは置いておこうかなと。 どこまで行きましたっけ。どうしてもわき道にそれてしまい、どこまで行ったかも忘れてしまいました。確かまず仏教に入って、親鸞に救われて、日蓮に慈悲の光を見たとこまで行ったかな。とにかく、仏典のどこを読んでも「私はお前を救う」と読めてしまい、慈悲の光が見えてしょうがないと書いたかと思います。 その慈悲の光ですが、白い光なのですが、視覚的なものではないですね。霊的なものです。霊的な光。 多分、神が、というかこの場合は仏が、僕を憐れんでくださり、信仰心を授けてくださったのですが、これが霊性を開花させてくださった。霊的な目を開かせてくださったのですね。 この「霊性」ってやつ、理性とはまた別のもの。また芸術的な感性ともまた別かな。こっちは通ずるところもある気がするのですが。 この「霊性」については、禅僧の鈴木大拙がその著「日本的霊性」の中で述べていますが、「これが分からないと宗教は話がとんと通じない」というもので、分かる人にはすぐ分かるのですが、分からない人には本当に「話がとんと通じない」から困っているのです。 じゃあ、霊性って何か特別な能力なのかというと、そうではなくて、「神を信じる心」「ほとけを信じる心」なのですから、わたしたちは無垢な子供の時は誰でも持っていたものです。嘘だと思うなら、試しに幼い子供に 「神様(仏様)にお願いしてみなさい」 って聞いてみてください。みんな素直に 「はい」 って言いますよ。その時 「神様(仏様)なんかいるもんか」 とかこましゃくれたことを言う子供はまずいませんよ。まわりの大人はだれも神様(仏様)のことなんて教えてないのにね。でも、少し大人になってきて少々知恵を付けてしまうと、その浅知恵だか猿知恵だかで疑ってかかるようになり、それと...

なぜ人は地獄を見なきゃいけないのか?

 すべての人は最後には救われるとして、一旦は地獄を見ることも神の(仏の)お計らいなのか? もちろん僕だって地獄なんか見たくありませんよね。だから 「神様、どうか僕(しもべ)を試みに会わせないで下さい」 と祈っている毎日ですが、それでも地獄を見るのが神の御心ならしょうがありません。その時はなるべく軽く済ませてもらえませんかね。 でも、なんで地獄を見なきゃいけない? よく、人気の聖職者とかで、「元暴力団員」とか、「元ヤンキー」とかいう方がいるじゃないですか。その方々がなぜ人気かというと、一度地獄を見たから地獄のことが良くわかるからじゃないですか。考えてみれば、地獄を知らずして、どうやって人を地獄から救うことができましょう。「元何某」とかいう人は、地獄にいる人の気持ちが良くわかるんじゃないですか。 つまり、神が一旦地獄を見させるのは、後で地獄にいる人たちを救うためじゃないですかね。 じゃあ僕はどうかというと、自分はクラスで一番瘦せていたくらいだったので喧嘩が強いはずもなく、できるだけヤバい奴らとは関わらないようにしてましたね。今でもそうですね。つまりはそっち方面の方は苦手。まあ、ウサギですね。それは草食動物が肉食動物を本能的に察知して、まさに脱兎のごとく逃げるのと同じで、生物に備わっている生存本能に従っているだけのこと。弱者は弱者なりに生き残る知恵を神は授けてくださっているんですよ。 じゃあ僕は地獄を見なかったかというと、まあ多分アレかな。あれって 「ネトゲ廃人」 前にも告白しましたけど、オンラインゲーム中毒、というかオフラインでもよくやっていたのでゲーム中毒ですね。それで妻子にも愛想をつかされて人生を棒に振るとこだった。というかもう棒に振ってますね。これまでにも何度もやめようとしたのです。プレステなんて3回も捨てたんですよ。ってことは3回買いなおしてるってことじゃん。重症。そのあと、ゲームはPCに移行しましたが、それからも何度もやめようとしては失敗。やめようとしたきっかけはいつも妻がブチ切れたことですが。当時はCD割られたりして。で、今はやめてから1年以上経過。最長記録だぞ。STEAMとかアプリごとアンインストールしたし。このまま逃げ切れるといいんだけど。 だから、ゲーム中毒者の気持ちはわかりますよ、手に取るように。そして、中毒ってゲームに限らず、ギャンブルとか...