救いを信じるということ
「すべての人は救われる」すなわち「自分も最後は救われる」ことを知って何になるのか、っつう話ですが、これを知るのと知らないのとでは大違いだと思いますよ。
確かに世の中には一見不条理なことも多く、「神様(仏様)何やってんだ」と思う時もありますが、でも最後には救われるんだな、そしてこの不条理なことの落とし前はいずれ全部神様が付けてくださるんだな、と思えば救いはありますよ。
いったいどんな落とし前を付けてくださるのか、あの世からとくと拝見、と今から僕は楽しみなんですが、それでもなぜか神様(仏様)への信頼は揺らぎませんね。
ほとんど病気かもしれない。メンヘラですかね?
で、「すべての人は救われる」すなわち「自分も最後は救われる」っつうことは「あなたも最後は救われる」と知れば、どうなるかというと、
カネ、カネ言わなくなる
自分を他人と比べて嫉妬しなくなる
だって最後には救われるんですから、そんなに欲張らばなくてもいいじゃないか。
もう一ついいことは、自分は他人からどう見られているだろうか、という他人からの視線に加えて、神は(仏は)自分をどう思われるだろうか、という神の視点、仏の視点が加わります。そして、この神からどう見えるか、仏からどう見えるか、の視点が加われば、他人の視線なんてどうでもよくなります。もういちいち他人の評価を基準にしない。とはいえ、まったく他人からの評価が気にならなくなるのは無理ですが、それより神が自分をどう思われるか、仏が自分をどう思われるか、の方が大事。では、やたらとストイックになるかというと、そんな必要もない。なにせ「すべての人をお救いになる」ほどのお方ですから、優しいんのなんのって、たいていのことは目をつぶって赦してくださいます。見逃してくださいます。
この優しさ、仏典でも聖書でもコーランでもそしてもちろんラーマクリシュナの福音でも、そしていろんな聖人たちからも、耳にタコができるくらい聞かされました。多くの人は一神教の神は厳しく裁くお方だとお思いかもしれませんが、僕が見た光は真逆を示していました。
ではそろそろ次(キリスト教)に行けるかな。
愛と慈悲の導くままに
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