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「量子のもつれ」と「ビッグバン」

量子力学の中でも、「量子のもつれ」もまた不思議な現象で面白いですね。この「量子のもつれ」とは何かというと、 「量子のもつれ(量子もつれ、英: Quantum Entanglement)」とは、量子力学における非常に不思議で重要な現象で、 2つ以上の粒子が互いに密接に関連し合った状態 にあることを指します。これらの粒子は、空間的にどれだけ離れていても、一方の状態を測定するともう一方の状態が即座に決まる、という特性を持ちます。 🔍 具体的に言うと: たとえば、2つの電子がもつれ状態にあるとします。この2つはそれぞれ スピン (電子の性質の一つ)という状態を持っており、もつれたペアの場合、「一方が上向きなら、他方は必ず下向き」というように完全に相関しています。 あなたが一方の電子を観測して「スピン上」と分かると、 もう一方の電子は観測する前から「スピン下」と決まっていたように振る舞います。 たとえ2つの電子が地球と月ほど離れていても、結果は即座に関連づけられるのです。 🤯 なぜ不思議なのか? アインシュタインはこの現象を「 遠隔作用のようなもの(spooky action at a distance) 」と呼び、懐疑的でした。 古典物理学では、物体が相互に影響を与えるには何らかの「情報伝達」が必要で、その速度は光速を超えることはできないとされています。 しかし、量子もつれでは あたかも情報が瞬時に伝わっている かのような相関が観測されます。 🧪 実用面では? 量子もつれは以下のような最先端技術の基礎になっています。 量子暗号通信 (盗聴不可能な通信) 量子テレポーテーション (情報の瞬時転送) 量子コンピュータ (重ね合わせやもつれを利用) 簡単にまとめると、 量子もつれ = 離れていても互いに状態が深く結びついている粒子の状態  はい、助手のAIさんに説明してもらいました。使えるなあ、この助手。これからもよろしく頼みます。 それにしても凄いですよ、この「量子のもつれ」というのは。情報が瞬時に伝わるのですよ、距離に関係なく。何億光年離れていても、瞬時に伝わる!?普通はどんな情報も光速を超えて伝わることはできないはずなのに。何億光年も離れていたら、何億年後にしか伝わらない...

量子力学と依正不二

 量子力学が言うところの 「観測した瞬間に、波は一点に収縮して粒子となる」 とは、人間の観測という行為が観察の対象である電子や光子に影響を及ぼすということですね。すなわち、 「主体が客体に影響を及ぼす」 ということではないですか。つまりこれは、主体と客体が厳密には分離できないことの現れだと思うんですね。西洋科学では主体と客体が分離できることを前提として発達してきました。つまり、観察する側の人間は、対象である物体や自然などを「客観的に」観察できると。そして、量子力学が出てくるまでは、つまりニュートン力学まではそれで通用していたのです。 「依正不二」 仏教では、こう説きます。これは、私たちが、私たちを取り巻く環境と不可分であることを指しています。詳しいことはめんどくさいからAIの説明を載せますよ。 「依正不二(えしょうふに)」とは、仏教、とくに浄土教や天台宗系の教えで使われる言葉です。 簡単に言うと、 依報(えほう) :生き物が住む環境や世界(たとえば国土や自然) 正報(しょうほう) :そこに生きる生命そのもの(人間や生き物) この「依報」と「正報」は、 本質的には分けることができない、一体である という考え方が「依正不二」です。 つまり、 生きる存在(正報)と、それを取り巻く世界(依報)は、互いに影響し合い、分かちがたくつながっている という意味なんです。 例えば… 心が清らかなら、その人が見る世界も明るく清らかに見える。 心が乱れていれば、周囲の世界も乱れたものに見えてしまう。 このように、心(正報)と世界(依報)は鏡のように呼応している、という感覚ですね。 以上がAIによる説明です。 上記では浄土教や天台宗系とありますが、創価学会の「人間革命」でもよく出てきましたね。 さて、この「依正不二」ですが、主体と客体は厳密には分離できないということではないですか。つまり、私たちは周りの世界とつながっているのです。今までしつこく、 「自分が幸せになるためには、周りの人々が幸せになる必要がある」 と言ってきた気がしますが、それは自己と他者が厳密には分離できずにつながっているからで、そのつながりは実は人間同士に限ったことではない。人間を超えて自分の命はあらゆる命とつながっている。ここから、生態系を破壊しながら人間だけが幸福になることはできない...

量子力学と仏教

 前にも感じたことですが、量子力学の話を聞くと、どうも仏教の教えと重なる気がしてしょうがないんですよね。もちろん全く同じじゃないですよ。でも、どう言ったらいいかな、どこかで聞いたことあるような、既視感というか、デジャブ?みたいなものを感じるのです。さっきも別冊ニュートンの「量子力学100年」を読んでいたのですが、 「光は粒子であると同時に波の性質を持つ」 はあ?そんなことがあっていいんですか?完全に矛盾じゃないですか。 「光に限らず、電子も、そしてあらゆる物質粒子も粒子であると同時に波の性質を持つ」 ふざけてますよねえ。粒子であれば実在する物質として存在し、波であれば物質としての実体はないではありませんか。 色即是空 空即是色 般若心経ですか?色とは実体、すなわち粒子で、空とは実体がない、すなわち波ですか。 どうやら、科学にしろ哲学にしろ、存在の根源に迫ろうとすると矛盾にぶつかるようです。そういえば自然科学も哲学も”philosophy"といって元々は区別されてなかったようですね。理性によって物事の本質を理解しようとする試みを指している。だとすれば、科学にしろ、仏教哲学にしろ、理性的に存在の根源に迫ろうとすると似たような過程を通って最後には矛盾にぶつかってしまう。だから量子力学の話を聞くとデジャブ感があるんですよね。仏教を通った者としては。 とことん突き進んでいって矛盾にぶつかったってことは、逆にいい線行ってるんじゃないですかね。きっとゴールは近い。そして、科学では、物質が粒子という性質と波の性質を併せ持つのは矛盾しているが、観測結果からそう導き出されるのだから、矛盾は矛盾のままで、法則として受け入れてしまえ!ということのようです。それで自然現象が説明できるんだからいいじゃないかと(全然良くないけどね)。そして、どんどん応用されているようですね。半導体とかトランジスタとか青色LEDとか。もう日常生活になくてはならないものばかりじゃないですか。そしてこれからは量子コンピュータとか超電導とか量子暗号とかが開発中だそうです。矛盾は矛盾として解決されないままでですよ。 仏教では、始めに「有」を説き、次に「無」を説き、そして最後に「有」でも「無」でもなく「中」を説くとか言っていたかと思います。理性で存在の根源に迫ろうとすると有であると同時に無であるという風になってし...

縁起の法について

 前回輪廻について考えた過程で、自分の為した行為がある結果を生み、その結果がまた次の結果を生む、という原因と結果の永遠の連鎖が出てきましたが、これは図らずも仏教で説く「縁起の法」でした。なので、今回は縁起について考えたいと思います。 Aに依ってBが成り立ち、Bに依ってCが成り立ち、Cに依ってDが成り立ち・・・ このようにあるものの成立が別のあるものに依存する状態、すなわちあるものが「縁」となって別のものが「起こる」と説くのが縁起の法です。 上では、Aが縁となってBが起こり、Bが縁となってCが起こり、Cが縁となってDが起こり・・・ となります。 そして、あらゆるものがこの縁起の法によって支配されているので、それ自体として成り立っているものはない、あらゆる存在は他者に依存しているのであるから、すべては空である。自分という存在も他者に依存しているが、その依存している他者もまた別の他者に依存している、よって自立した「私」というものはない、自分というのも空である。 「無我」 ですね。またあらゆる存在は実体がなく空であるとも言えます。 そこまでが仏教の説く縁起の法だったと思うのですが、実はとっくに忘れていて、今無理矢理思い出して書いてます。そして、自分も空、あらゆる存在も空、と見れば執着がなくなり、苦しみもなくなる、となるのかもしれませんが、本当にそうなのか。 自分という存在が他者に依って立ち、その他者は別の他者に依って立ち、という風に今度は逆に辿っていくとどうでしょう。 最初のAに行きつきますね。ではこの最初のAは何なのか。 これが僕は慈悲だと思うんですね。すなわち仏だと。 または愛、すなわち神であると。 以前のポストで「宇宙は慈悲から生まれた」と言ったり「世界は愛から生まれた」とか書いた覚えがありますが、この世界は神がお創りになったというのは一神教ではしっくり来ることだと思います。僕が仏教の後でキリスト教、イスラム教と通っていったので、その影響を自然に受けているのだと思います。 とにかく、縁起の法の途中だけ見れば、すべては空となりますが、あらゆる存在の太初の源を辿れば慈悲に行きつく。仏に行きつく。愛に行きつく。神に行きつく。 そして、その行きついたところの仏とは、神とは何かとなると、もはや存在とか非存在とかいう言葉では語れない。存在すると言ってしまえば、縁起の法に依...

輪廻について(2)

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 インドの社会事情を考慮すれば、輪廻の思想が生まれた理由も分かる気がしますね。自分の置かれている状況が自分の努力ではどうにもならなく思える時、その原因を前世に求めるしか納得できる説明は見つからない、となるのではないでしょうか。 インドはカースト制度によって身分が固定された社会でした(そして多分今でもそうなのかな)。社会が固定的で現生の個人的努力ではもはや上昇の道は絶たれている、となると輪廻の思想にすがる以外に希望の道が閉ざされているとも言えます。現在自分が不幸な位置にいるのは前世での報いであると。そして、今生で善根を積めば来世では一段上の位置に上がることができる、と考えることによって、せめてもの希望をつないできたと。 さて、今はもう僕は輪廻を信じてないと言いましたが、過去の生と現在の生との間に全くつながりがないとは考えていません。それどころか、過去の生と現在の生は密接に結びついています。しかし特定の個としての過去の生が、現在の特定の個の生と結びついているとはとらえていません。 人間の個体の発生過程を見てみると、卵子が受精して受精卵となって胚が形成される過程において、単細胞から多細胞、魚類から両生類、そして哺乳類へと進化した痕跡が残っているのが見られるようです。これは人のDNAに生命の誕生から現在までの進化の歴史が記憶されているということではないでしょうか。ひとつ前の生どころか、生命38億年の生をずっと受け継いで今わたしたちは生きているということですね。個対個のつながりはなくとも、全体対個のつながりはあるのです。しかし、全体は個ひとつひとつの集まりなのですから、結局は個と個のつながりの無限の蓄積とも言える。そして次の世代へとその記憶はまた受け渡される。しかしその記憶は過去に受け継いだものとは全く同じではない。現在の生によって変化を受けた新たな記憶として次に受け渡される。過去の生と現在の生と未来の生との連綿としたつながり。これがすなわち前世と現世と来世のつながりであり、輪廻なのかなと思ったりしています。 ただ、このつながりは、DNAに限ったことではないと思います。人は生きている限り、一人ではありません。必ず周りの世界と交渉しています。人だけでなく、周囲の生物、そして周囲の環境に影響を及ぼしています。どんなに孤独に生きているつもりでも、かならず世界と交渉しているの...

輪廻について

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 いくらなんでも仏教の教えが「仏は衆生を救う」としか説いてないということで終わらせるのもひど過ぎますね。とはいっても、実はその他はほとんど忘れてしまって今となっては記憶の彼方に行ってしまったのですが、無理に思い出してみます。 そういえば、仏教では輪廻を説いてましたね。人には前世というものがあって、今の生は前世の生まれ変わりだと。だから、前世での行為が今の生を規定していると。つまり、前世で悪いことをすれば、その罪が今の生に及ぶと。今不幸なのは前世での行いが悪かったからだと。そして今幸せなのは前世での功徳のおかげであると。 ふーむ。ところで皆さん、自分の前世覚えてますか? 覚えてませんよね。少なくとも僕は覚えてません、ぜーんぜん。 見覚えのない罪を今着せられるって、なんか不条理ですよね。自分が前世で人を傷つけて、それをはっきり覚えているなら報いを受けるのも諦めがつきますが、「記憶にございません」となると・・・ だから、僕はもう輪廻なんて信じてないのです。この後、僕がキリスト教→イスラム教と通って行って、その先々で輪廻なんて説いてなかったから信じてないのではありません。ほとけを信じているから輪廻を信じてないのです。 仏教では輪廻を説く はい、そうですね。 そして君はほとけを信じている はい、そうです。 そして輪廻を信じてない はい、そうです。 どういうこと? ほとけを信じるとは慈悲を信じることです。僕はほとけの慈悲を信じています。そして、その慈悲深いほとけがですよ、前世で罪を背負ってしまったわたしたちを、浄めもせずにそのまま罪を今生に持ち越させて、何もせずに平気で見ていた、とは僕には到底信じられないのです。そのときほとけは何をしていたのですか。前世で?前世にはほとけも菩薩もいなかったと?いたでしょうね。億千万もの仏と菩薩が。その億千万もの仏と菩薩が、その時、わたしたちが罪を背負って死んでいくのを見ながら何もせずにただボサッと突っ立っていたと? 到底信じられません。 それでも、百歩譲って、仏教では輪廻を説いているのだから、輪廻はあるとしましょう。そして、今生、私たちはまた悪さをしてしまい、罪を背負って、そのまま来世に持ち越してしまう。それをほとけは、菩薩は、また黙って見ているだけ。 これまた到底信じられません。 もしそうだとしたら、僕は 「どうか今生の罪をお浄め下さ...

慈悲の光

 自分で作った「仏教伝来Ⅱ」のYoutubeを見て、今更思ったのですが、こんな歌作ってるから、仏典や聖典のどこを読んでも 「私はお前を救う」 と書いてある、となってしまったんだな。だって、いきなり大音量で 「救い給え~♪」 ですからね。ほんまぶしつけでうるさいわい。「まにまに」の時もそうでしたが、懲りずにまたやってしまったのです。観音様も迷惑だったに違いありません。 「うるさいわい、わしは耳がいいんじゃ。そんなに大声で歌わなくても聞こえてるっちゅうに」 そうでした。観音様は地獄耳で、それはもう、声に出さなくても念じるだけで私たちを危機から救ってくださるのです。 念彼観音力 ということで、これはほとんど仏罰でしょうか、「救い給え~♪」の答えとして、仏典の、聖典の、どこを見ても 「私はお前を救う」 としか読めなくなってしまった。ちょっと困るんですけど、これじゃあ。教義のテストとかあったら、 「それは、仏は衆生を救う、という意味であります!」 「そこも、仏は衆生を救う、という意味であります!」 「どこもかしこも、仏は衆生を救う、という意味であります!」 「結局、どこを読んでも、仏は衆生を救う、としか書いてないのであります!」 あ~ダメだ~、0点だ~、失格だ~。 観音さん、おちょくってんのかな、僕はからかわれてる? 「お前が、救い給え~♪とか言うから、その報いじゃろうが」 そうでした。確かに 「私はお前を救う」 は答えになってます。そういえば、歌ではそのあと「慈しみ給え~♪我が子らを♪」と来ますが、「我が子ら」とは仏の子らという意味です。そしてわたしたちは一人残らず仏の種を、慈悲の種を、すなわち仏性を持っているので、仏の子らとはわたしたちすべてです。だから「救い給え~♪」といってすべての人が救われるのを祈っています。だから 「私はお前を救う」 の「お前」とは僕のことであると同時にあなたのことであります。そして「私」とは観音菩薩ですが、観音はわたしたちを救うために仏が化身となって現れるので、そのまま仏ですね。仏の慈悲が観音となって現れると。とにかく、 「私はお前を救う」 と読めたとき、慈悲の光が見えるんですよ。もうまぶしくてしょうがない。その光に打ち倒される感じ。白い光ですね。 今日はこの辺でやめときます。

最後に慈悲だけが残った

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 そういうわけでいよいよ仏典に突入。 で、詳しい仏典の解説はここでは全部省略。 ズッコケたかもしれませんが、いちいち仏の素晴らしい御言葉に感動して、そのたびにブログに上げる、ということは実は以前にやったからです。15年か20年前くらいかな。もういつだったかも忘れたよ。 確かに仏典は多過ぎましたが、面白かったですよ。聖なる言葉を面白いとは不謹慎かもしれませんが、本当に面白いんだからしょうがない。もう、もしかしてほとけさん、ねらってんのか?そんなに笑かせたい?って思うくらい。特に大乗の涅槃経とか。もちろん難解な部分もありましたよ。中論とか摩訶止観とかね。で、仏典や聖人の聖典を読み進めていくと、いつのころからか不思議なことが起こった。どこを読んでも 「私はお前を救う」 と書いてある。ページの表を見ても、裏を見ても 「私はお前救う」 と書いてある。縦にしても横にしても、前を読んでも後ろを読んでも 「私はお前を救う」 と書いてある。もう、仏典の言葉が、聖人の言葉が全部 「私はお前を救う」 と読めてしまう。そうとしか読めなくなってしまった。とうとう仏典を読み過ぎて頭がおかしくなってしまったんですかね。そんな単純な解釈でどうする、って思うでしょうが、そうとしか読めなくなったんだからしょうがない。ちなみに、「私はお前を救う」というところの「お前」は誰を指しているかというと、直接には読んでいる本人ですが、実は 「すべての人」 を指しているのです。だから、正確には 「ほとけはすべての人を救う」 です。そして「すべての人」とは本当に「すべての人」なのです。「但し、正法誹謗の者をば除く」とか「五逆十悪の者をば除く」じゃないですよ。信じないものも含め、臨終で念仏を唱えそこなっても、ほとけは「すべての人」を救うのです。すなわち、神はすべての人を救うのです。悪人だからこそ救うのです。そして信じないからこそ救うのです。 どこを読んでも、そう書いてある。というか、そういう風にしか読めなくなった。 ん?間違っている? そうかなあ。少なくとも親鸞はそう言ってると僕には読めたけど。でも、あの一番厳しい日蓮は違うでしょ、っておっしゃるかもしれませんが、そうですか。ちゃんと「正法誹謗の者をも救う」って三度問い詰められて白状してませんでしたっけ。 もう難しいことは全部忘れました。 そして最後に慈悲だけが...

仏教伝来

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 さて、神に恩寵を請う歌を歌ってじかに信仰心を頂いたのですが、それからどうすべきか。 信仰心は持っているが、どの宗教にするか、そしてどの宗派にするかは白紙の状態。ちょっと普通とは逆かもしれません。西洋などキリスト教が根付いている地域ならそのままキリスト教、中東などイスラム教が根付いている地域ならイスラム教、ユダヤ人ならユダヤ教、インド人ならヒンズー教と、地域に根付いている宗教があるなら迷うことはないかもしれません。それどころか、生まれた時から洗礼を受けていたりして最初から入信しているかもしれません。日本は仏教が文化としては根付いていても、実際に信じている人は少ない。さて、どれにしようかな。新興宗教は活発な活動が目立ってますが、怪しげなものもあるようなのでどうしよう。まずはオーソドックスな伝統宗教からですかね。 ということで、やはり日本に身近にある仏教から入ろう。 といってもすぐに入信するわけではありません。どの宗教も、そしてどの宗派も、自分たちだけが正しくて、他では救われないとか言っているらしい。それが本当だとしたら大変です。間違って救われない宗教に入ってしまったら一巻の終わりではないですか。だからどの宗教にするかは一世一代の大勝負となります。間違いは許されない。 じゃあどうするか。 少なくとも向こうの話くらいは聞かないことには話になりません。だから最低でもそれぞれの宗教の聖典、そしてそれぞれの宗派の開祖のお言葉があるならその宗派の聖典くらいは読まないと判断のしようがありません。だから、まずは 仏教→キリスト教→イスラム教 みたいな順序で話を聞いてみようかな、つまり聖典のお言葉を聞いてみようかなと思ったわけです。つまり 仏典→聖書(旧約、新約)→コーラン、ハディース で行こうかなと。ユダヤ教はユダヤ民族限定っぽいし旧約聖書で通るからいいか、そしてヒンズー教もインド限定に近い印象なので後回しでいいか、とその時は思いました。ユダヤ教徒とヒンズー教徒の方、すいません。とにかくあれもこれも一遍には手が付けられないのです。 ところで、仏教といってもいっぱいありますよね。まずは上座部仏教と大乗仏教に分かれているらしい。しかも日本は鎌倉時代に多くの宗派ができて、大乗仏教のなかでもいろんな宗派があるらしい。はじめは天台宗、真言宗、そして後には浄土宗、禅宗、日蓮宗などなど。そ...

まにまに

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 僕はまず仏教から入ったと言いましたが、その前にそもそも宗教に惹かれたきっかけを述べるべきですね。日本では仏教が根付いているとはいってもそれは文化的、または葬式などの生活の上でのことで、現代の日本人で信仰を持っている人は実際には少数派ですね。つまり、本当に宗教を信じている人はごく少数であると。ただし新興宗教系で活発に活動しているものはあるようですが。いわば、現代日本は宗教の空白地帯のようなものです。そのなかで生まれ育った僕も当然ずっと無宗教で来たわけです。そのような環境で信仰心を得るというのはまず無理でしょうね。 では、なぜ僕が宗教に惹かれたのかというと、実は音楽がきっかけなのです。前に銀行に就職して1年半で辞めたと書きましたが、その理由は「金に仕えるのをやめて神のもとに走った」からではなく、ただ単に「音楽がやりたかったから」です。音楽と言っても作る方ですね。ここは信仰のブログなので音楽について詳しいことは書きませんが、始めは宗教とは全然無縁の音楽をやってましたね。というか作ってましたね。今どきの世代の音楽。ところが、ある時期から宗教音楽にやたらと惹かれるようになった。日本の古代の神楽歌とか、グレゴリウス聖歌とか、仏教の声明とかコーランの朗読とか。声明やコーランは音楽ではありませんがCDが出てますね。作るにしてもどうしてもそういう方向に行ってしまう。どんな道にも突き詰めていくとそこには必ず神がいらっしゃるとは誰かが言っていましたが、その通りで、音楽であっても突き詰めていくと神に至るというのは本当だったんだな、というのが僕の実感です。音楽の中に聖なる存在をやたら感じるといいますか、また聖なる存在を表わしたくなるといいますか、やたらと神を、すなわち仏を、賛美したくなる。どうしても止まらないわけです。 そしてその時が来た それがいつだったか、はっきりと覚えているわけではありませんが、今思えばあれだったかなと思っている曲があります。神を賛美する曲ばかり作るようになった、というかそれしか作れなくなった。しかも自分は作る方で演奏するとか歌う側ではなかったにもかかわらず、自分で歌ってしまっている。神を賛美するのに人に任せることなんてできません。だから、自分に歌の技量なんてないのは百も承知ですが自分で賛美せざるを得ない。だから自分で歌ったのです。まともな音楽のセンスの持ち主...