輪廻について
いくらなんでも仏教の教えが「仏は衆生を救う」としか説いてないということで終わらせるのもひど過ぎますね。とはいっても、実はその他はほとんど忘れてしまって今となっては記憶の彼方に行ってしまったのですが、無理に思い出してみます。
そういえば、仏教では輪廻を説いてましたね。人には前世というものがあって、今の生は前世の生まれ変わりだと。だから、前世での行為が今の生を規定していると。つまり、前世で悪いことをすれば、その罪が今の生に及ぶと。今不幸なのは前世での行いが悪かったからだと。そして今幸せなのは前世での功徳のおかげであると。
ふーむ。ところで皆さん、自分の前世覚えてますか?
覚えてませんよね。少なくとも僕は覚えてません、ぜーんぜん。
見覚えのない罪を今着せられるって、なんか不条理ですよね。自分が前世で人を傷つけて、それをはっきり覚えているなら報いを受けるのも諦めがつきますが、「記憶にございません」となると・・・
だから、僕はもう輪廻なんて信じてないのです。この後、僕がキリスト教→イスラム教と通って行って、その先々で輪廻なんて説いてなかったから信じてないのではありません。ほとけを信じているから輪廻を信じてないのです。
仏教では輪廻を説く
はい、そうですね。
そして君はほとけを信じている
はい、そうです。
そして輪廻を信じてない
はい、そうです。
どういうこと?
ほとけを信じるとは慈悲を信じることです。僕はほとけの慈悲を信じています。そして、その慈悲深いほとけがですよ、前世で罪を背負ってしまったわたしたちを、浄めもせずにそのまま罪を今生に持ち越させて、何もせずに平気で見ていた、とは僕には到底信じられないのです。そのときほとけは何をしていたのですか。前世で?前世にはほとけも菩薩もいなかったと?いたでしょうね。億千万もの仏と菩薩が。その億千万もの仏と菩薩が、その時、わたしたちが罪を背負って死んでいくのを見ながら何もせずにただボサッと突っ立っていたと?
到底信じられません。
それでも、百歩譲って、仏教では輪廻を説いているのだから、輪廻はあるとしましょう。そして、今生、私たちはまた悪さをしてしまい、罪を背負って、そのまま来世に持ち越してしまう。それをほとけは、菩薩は、また黙って見ているだけ。
これまた到底信じられません。
もしそうだとしたら、僕は
「どうか今生の罪をお浄め下さい」
と祈ります。
「私だけでなく、すべての人の罪をお浄め下さい」
と祈ります。そして、仏は、菩薩は、お聞き届けくださる。とすれば、前世でもこんな風に祈る輩は大勢いたはずです。前世でも、前前世でも、前前前世でも。
そしてこの世が生まれたときからほとけはいたのですから、最初から、罪深い私たちをほったらかすなんてことはありえないのです。
そもそもこの世は慈悲から生まれた
ほとけから生まれたのですよ
というわけで、通常解釈されている意味での輪廻を僕はもう信じてないし、あったとしても「もう輪廻は勘弁してください」とほとけにお願いしているところですが、別の意味での前世と輪廻については信じています。というか、前世とか輪廻とかってこういう意味なのかな、ってのはありますよ。
それについては次回ということで。今日はこの辺にしておきます。
愛と慈悲の導くままに
そうそう、観音菩薩のイメージをChatGPTに作ってもらったのですが、なかなかいいのでこちらもどうぞ。仏教伝来のYoutubeにも使いましたが、縦長なので携帯の待ち受け画面にしたらピッタリでした。
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