量子力学と仏教
前にも感じたことですが、量子力学の話を聞くと、どうも仏教の教えと重なる気がしてしょうがないんですよね。もちろん全く同じじゃないですよ。でも、どう言ったらいいかな、どこかで聞いたことあるような、既視感というか、デジャブ?みたいなものを感じるのです。さっきも別冊ニュートンの「量子力学100年」を読んでいたのですが、
「光は粒子であると同時に波の性質を持つ」
はあ?そんなことがあっていいんですか?完全に矛盾じゃないですか。
「光に限らず、電子も、そしてあらゆる物質粒子も粒子であると同時に波の性質を持つ」
ふざけてますよねえ。粒子であれば実在する物質として存在し、波であれば物質としての実体はないではありませんか。
色即是空 空即是色
般若心経ですか?色とは実体、すなわち粒子で、空とは実体がない、すなわち波ですか。
どうやら、科学にしろ哲学にしろ、存在の根源に迫ろうとすると矛盾にぶつかるようです。そういえば自然科学も哲学も”philosophy"といって元々は区別されてなかったようですね。理性によって物事の本質を理解しようとする試みを指している。だとすれば、科学にしろ、仏教哲学にしろ、理性的に存在の根源に迫ろうとすると似たような過程を通って最後には矛盾にぶつかってしまう。だから量子力学の話を聞くとデジャブ感があるんですよね。仏教を通った者としては。
とことん突き進んでいって矛盾にぶつかったってことは、逆にいい線行ってるんじゃないですかね。きっとゴールは近い。そして、科学では、物質が粒子という性質と波の性質を併せ持つのは矛盾しているが、観測結果からそう導き出されるのだから、矛盾は矛盾のままで、法則として受け入れてしまえ!ということのようです。それで自然現象が説明できるんだからいいじゃないかと(全然良くないけどね)。そして、どんどん応用されているようですね。半導体とかトランジスタとか青色LEDとか。もう日常生活になくてはならないものばかりじゃないですか。そしてこれからは量子コンピュータとか超電導とか量子暗号とかが開発中だそうです。矛盾は矛盾として解決されないままでですよ。
仏教では、始めに「有」を説き、次に「無」を説き、そして最後に「有」でも「無」でもなく「中」を説くとか言っていたかと思います。理性で存在の根源に迫ろうとすると有であると同時に無であるという風になってしまい、矛盾してしまうが、それをそのまま受け入れて「中」と言ってしまえ、現実はそれで回ってるし、それで説明できるのだからいいじゃないか、みたいな感じ。量子力学と全く同じとは言いませんが、なんかデジャブなんですよね。
科学も宗教も実は仲がいい?科学は宗教のこと嫌いみたいだけど本当は気があるんじゃないの?ツンデレですか?と思ったらさっきの「量子力学100年」の58ページに
「私が大学生の時に量子力学を教えてくれた教授は「これは宗教の一種だ」なんてこともいってましたよ。」
って東大教授が言ってるじゃないですか。ほら。それにしても科学者が宗教とかいっていいんですか?量子力学教?
しかもですよ、
「観測した瞬間に、波は1点に収縮して粒子になる」
何ですか、この「観測」って。誰が観測すんの?よーし観測するぞ、ていってちょっと油断した隙に猫ちゃんが見てしまったら波は収縮すんのかな?人間じゃなきゃダメ?じゃあ、また観測するぞって、いってまたもや油断した隙に赤ちゃんが間違って見ちゃったら、波は収縮すんのかな?赤ちゃんじゃダメ?じゃあ3歳児だったら?大人じゃなきゃダメ?じゃあ、ボケ老人だったら?観測した瞬間に、観測したことも忘れてしまって、
「わし、今観測したっけな?」
ってなっちゃったら波は収縮すんのかな?いや、一旦収縮するけど、あのボケ老人、観測したことも忘れているからまた波に戻ろうってか?または、今度は僕がちゃーんと観測するとして、観測器をのぞいたら、
「しまった、コンタクトをつけ忘れてた。よく見えないぞ!」
って時、波は収縮するのかな?
この「観測」についても、科学者の間で結論は出てないそうです。そしてみんなその解釈について困っているらしい。アインシュタインも
「月は君が見ている時にしか存在しないとほんとうに信じているのかね」
といってこの解釈に疑問を呈したそうですが、その後の展開を見るとどうやらアインシュタインの方が旗色が悪そうだぞ。つまり本当に月は私たちが観測した時しか存在しないかもしれないと。そんな馬鹿な、と僕でも思いますが、この問題についてもまだ決着はついてないそうです。
とにかく、量子力学って面白いですね。そして仏教も面白いよ。キリスト教やイスラム教より仏教の方が量子力学と相性がいい気がするな。うまく言い表せないけど、なんか同じ音楽を聴いているみたいな感じ。
この解釈問題については、重要な示唆が含まれている気がするので次回にまた考えたいです。今日はこの辺で失礼します。
愛と慈悲の導くままに
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