縁起の法について

 前回輪廻について考えた過程で、自分の為した行為がある結果を生み、その結果がまた次の結果を生む、という原因と結果の永遠の連鎖が出てきましたが、これは図らずも仏教で説く「縁起の法」でした。なので、今回は縁起について考えたいと思います。

Aに依ってBが成り立ち、Bに依ってCが成り立ち、Cに依ってDが成り立ち・・・

このようにあるものの成立が別のあるものに依存する状態、すなわちあるものが「縁」となって別のものが「起こる」と説くのが縁起の法です。

上では、Aが縁となってBが起こり、Bが縁となってCが起こり、Cが縁となってDが起こり・・・

となります。

そして、あらゆるものがこの縁起の法によって支配されているので、それ自体として成り立っているものはない、あらゆる存在は他者に依存しているのであるから、すべては空である。自分という存在も他者に依存しているが、その依存している他者もまた別の他者に依存している、よって自立した「私」というものはない、自分というのも空である。

「無我」

ですね。またあらゆる存在は実体がなく空であるとも言えます。

そこまでが仏教の説く縁起の法だったと思うのですが、実はとっくに忘れていて、今無理矢理思い出して書いてます。そして、自分も空、あらゆる存在も空、と見れば執着がなくなり、苦しみもなくなる、となるのかもしれませんが、本当にそうなのか。

自分という存在が他者に依って立ち、その他者は別の他者に依って立ち、という風に今度は逆に辿っていくとどうでしょう。

最初のAに行きつきますね。ではこの最初のAは何なのか。

これが僕は慈悲だと思うんですね。すなわち仏だと。

または愛、すなわち神であると。

以前のポストで「宇宙は慈悲から生まれた」と言ったり「世界は愛から生まれた」とか書いた覚えがありますが、この世界は神がお創りになったというのは一神教ではしっくり来ることだと思います。僕が仏教の後でキリスト教、イスラム教と通っていったので、その影響を自然に受けているのだと思います。

とにかく、縁起の法の途中だけ見れば、すべては空となりますが、あらゆる存在の太初の源を辿れば慈悲に行きつく。仏に行きつく。愛に行きつく。神に行きつく。

そして、その行きついたところの仏とは、神とは何かとなると、もはや存在とか非存在とかいう言葉では語れない。存在すると言ってしまえば、縁起の法に依り、その存在が依拠するところのものは何か、と問わねばならないからです。

すべてが慈悲から生まれたのですから、あらゆる存在に慈悲が貫かれています。あらゆる存在が慈悲につながっているのです。これは縁起の法が慈悲に依って起こり、慈悲に依って貫かれていることを意味します。だからあなたもまったくの空ではない。私もまったくの無我ではない。自分の中にたった一つの拠り所があり、それがすなわち慈悲である。それを仏教では仏性と言ったり、僕は「慈悲の種」すなわち「愛の種」と言ったりしています。

この世のあらゆる存在のたったひとつの拠り所が慈悲なのですから、この世に希望がないなんてことがあるでしょうか。希望はあるのです。

愛と慈悲の導くままに


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