最後に慈悲だけが残った
そういうわけでいよいよ仏典に突入。
で、詳しい仏典の解説はここでは全部省略。
ズッコケたかもしれませんが、いちいち仏の素晴らしい御言葉に感動して、そのたびにブログに上げる、ということは実は以前にやったからです。15年か20年前くらいかな。もういつだったかも忘れたよ。
確かに仏典は多過ぎましたが、面白かったですよ。聖なる言葉を面白いとは不謹慎かもしれませんが、本当に面白いんだからしょうがない。もう、もしかしてほとけさん、ねらってんのか?そんなに笑かせたい?って思うくらい。特に大乗の涅槃経とか。もちろん難解な部分もありましたよ。中論とか摩訶止観とかね。で、仏典や聖人の聖典を読み進めていくと、いつのころからか不思議なことが起こった。どこを読んでも
「私はお前を救う」
と書いてある。ページの表を見ても、裏を見ても
「私はお前救う」
と書いてある。縦にしても横にしても、前を読んでも後ろを読んでも
「私はお前を救う」
と書いてある。もう、仏典の言葉が、聖人の言葉が全部
「私はお前を救う」
と読めてしまう。そうとしか読めなくなってしまった。とうとう仏典を読み過ぎて頭がおかしくなってしまったんですかね。そんな単純な解釈でどうする、って思うでしょうが、そうとしか読めなくなったんだからしょうがない。ちなみに、「私はお前を救う」というところの「お前」は誰を指しているかというと、直接には読んでいる本人ですが、実は
「すべての人」
を指しているのです。だから、正確には
「ほとけはすべての人を救う」
です。そして「すべての人」とは本当に「すべての人」なのです。「但し、正法誹謗の者をば除く」とか「五逆十悪の者をば除く」じゃないですよ。信じないものも含め、臨終で念仏を唱えそこなっても、ほとけは「すべての人」を救うのです。すなわち、神はすべての人を救うのです。悪人だからこそ救うのです。そして信じないからこそ救うのです。
どこを読んでも、そう書いてある。というか、そういう風にしか読めなくなった。
ん?間違っている?
そうかなあ。少なくとも親鸞はそう言ってると僕には読めたけど。でも、あの一番厳しい日蓮は違うでしょ、っておっしゃるかもしれませんが、そうですか。ちゃんと「正法誹謗の者をも救う」って三度問い詰められて白状してませんでしたっけ。
もう難しいことは全部忘れました。
そして最後に慈悲だけが残ったのです。
今日はこの辺にしておきます。で、またかよってお思いでしょうが、法華経の観音経から僕が観音菩薩に救いを強要している歌をどうぞ。
コメント
コメントを投稿