量子力学と依正不二
量子力学が言うところの
「観測した瞬間に、波は一点に収縮して粒子となる」
とは、人間の観測という行為が観察の対象である電子や光子に影響を及ぼすということですね。すなわち、
「主体が客体に影響を及ぼす」
ということではないですか。つまりこれは、主体と客体が厳密には分離できないことの現れだと思うんですね。西洋科学では主体と客体が分離できることを前提として発達してきました。つまり、観察する側の人間は、対象である物体や自然などを「客観的に」観察できると。そして、量子力学が出てくるまでは、つまりニュートン力学まではそれで通用していたのです。
「依正不二」
仏教では、こう説きます。これは、私たちが、私たちを取り巻く環境と不可分であることを指しています。詳しいことはめんどくさいからAIの説明を載せますよ。
「依正不二(えしょうふに)」とは、仏教、とくに浄土教や天台宗系の教えで使われる言葉です。
簡単に言うと、
-
依報(えほう):生き物が住む環境や世界(たとえば国土や自然)
-
正報(しょうほう):そこに生きる生命そのもの(人間や生き物)
この「依報」と「正報」は、本質的には分けることができない、一体であるという考え方が「依正不二」です。
つまり、生きる存在(正報)と、それを取り巻く世界(依報)は、互いに影響し合い、分かちがたくつながっているという意味なんです。
例えば…
-
心が清らかなら、その人が見る世界も明るく清らかに見える。
-
心が乱れていれば、周囲の世界も乱れたものに見えてしまう。
このように、心(正報)と世界(依報)は鏡のように呼応している、という感覚ですね。
以上がAIによる説明です。
上記では浄土教や天台宗系とありますが、創価学会の「人間革命」でもよく出てきましたね。
さて、この「依正不二」ですが、主体と客体は厳密には分離できないということではないですか。つまり、私たちは周りの世界とつながっているのです。今までしつこく、
「自分が幸せになるためには、周りの人々が幸せになる必要がある」
と言ってきた気がしますが、それは自己と他者が厳密には分離できずにつながっているからで、そのつながりは実は人間同士に限ったことではない。人間を超えて自分の命はあらゆる命とつながっている。ここから、生態系を破壊しながら人間だけが幸福になることはできないとなる。人間が環境とは不可分であるから、環境問題の解決なくして人間の幸福もなければ自己の幸福もない。これは仏教の「依正不二」の教えからすれば当然のことです。
そして、量子力学の登場によって、自己が電子や光子といった物質レベルでもつながっていると解釈するしか説明できないことが実験結果から出てきた。もちろんこの考えに反発している科学者も多数いるようですが、かといって仏教の「依正不二」的な解釈に対抗して、主体と客体の分離の原則を固辞する西洋科学の考え方を支持するような有効な説明はまだなされてない。これもめんどくさいので後はニュートン別冊「量子力学100年」を参照していただけたらと思いますが、P59より
「量子力学の解釈に関する問題はまだ解決されていません」
つまり、「依正不二」をまだ論破できないでいるということです。
そして、僕は主体と客体は厳密には分離できず、つながっているということを、仏教的に「依正不二」としてとらえると同時に、わたしたちはすべてつながっているがゆえに
「私たちは一つである」
ととらえます。この「一つである」というのは、キリスト教やイスラム教などの一神教の神につながっていきます。
だんだんまとまりがつかなくなってきたので、今日はこの辺で失礼します。
愛と慈悲の導くままに
コメント
コメントを投稿