ノルマの正体(2)

 前回は不条理なノルマを課すのは未来に属する結果を人間が支配できるという傲慢から来ると考えたのですが、それは己を神の立場に置くことに他なりません。

人間がその器でもないのに己を神の立場に置くとどうなるか。

傲慢と無慈悲さが全面に表れ出る

無理なノルマを押し付けた結果、不正による表面上の数合わせで何とか取り繕うことによって、内部にはひずみが蓄積していきますね。そして社会には損害が蓄積される。そして目標達成という勝利に酔いしれているまさにその絶頂のときに、ひずみも頂点に達し、崩壊が始まります。

破滅の時が来たのです。

何か前に書いたのに似てますね(悪は割に合わない、悪を罰するのに神が一旦持ち上げる道理)。もうこれではっきりしたでしょう。ノルマによる破滅の仕方は悪の破滅の仕方そっくりです。すなわち、

ノルマは悪である

ということがはっきりしました。「殺してはならない」「盗んではならない」と説いたモーゼの十戒のように、というかその続きの11戒として

「ノルマを課してはならない」

と言うべきではないでしょうか。

神の支配権を否定し、人間が未来と未来に属するところの結果を支配できると思い上がる。もちろん、その傲慢のツケとして想定外のことが必ず起こり、それを取り繕うために不正とインチキと嘘を重ね、ついにはそれが明るみに出て破滅する。

そして、人間が謙虚になって、未来と未来に属する結果について言う時は常に

「インシャーアッラー(神が望むなら)」

と付け加えるなら、無理な数値目標を人に課すなどという思い上がった越権行為は、神を信じる者として、畏れ多くてとてもできることではありません。

イスラム教徒でなくとも

「人事を尽くして天命を待つ」

という儒教の教えでも十分です。

人間が謙虚になるためには、人間を越えた力の存在を認めなければなりません。これがすなわち信仰であり、宗教です。そして信仰がなければ人間が謙虚になれないとすれば、人は信仰を得るまでは永遠にノルマ地獄から抜け出せないことになります。

信仰と言っても、どこかの宗教の信者になるという話ではありません。人間が原初から、そして生まれた時からみんな持っていた、神だか仏だか天だか知りませんが、自分を越えた圧倒的な力を素直に認めて恐れ畏む心があればいいのです。

そして、未来と未来に属する結果は神の御心次第、天命次第だからといって、途方に暮れる必要もありません。神の御心、天命は直接には伺い知れませんが、だからといって全部がデタラメではありません。神は愛そのものであり、慈悲深く慈愛あまねきお方であり、仏は慈悲そのものであり、天命も正義にたがわないはずなのですから、わたしたちの望むところの目標設定が、多くの人の幸福に寄与すればするほど、神の御心に叶うことになり、達成される可能性も高まるのは間違いありません。

結局、わたしたちの目標が愛に根差していれば、慈悲に根差していれば、正義に根差していれば、「インシャーアッラー(神が望むなら)」という言葉はそのまま「神の望むところ」となるでしょうから、たとえ紆余曲折があろうとも、どんなに困難な道のりであっても、ついには実現することになります。

だから僕にできることも微力ながらも人事を尽くすことだけですね。

で、ノルマは課さないし、課されたら断る。それでも課してきたらそこから立ち去る。

そうやって生きれるところまで生きてやろうと思っています。

愛と慈悲の導くままに

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