宗教は人類の生存のための最適解

 前回「善なる大義のために悪を用いてはならない」と言いましたが、生存が脅かされるような危機的場合はどうなのでしょう。

「ひとたび生存となると、すべてが許される」

生存が掛かった生きるか死ぬかの究極的状況では、宗教を含め、道徳、法律、善悪の概念などすべてが無効となってしまう。

 戦争で街が包囲され、食糧が尽きると人間は共食いを始めます。そしてまずは子供から食われてしまう。そんな恐ろしいことが・・・と思うでしょうが、中国の歴史ではよくあったようですし、20世紀においても、山崎豊子の小説「大地の子」で国共内戦で中国共産軍に包囲され、飢餓に陥った国民党側の都市での人間同士の「共食い」現象が描かれてます。少年だった主人公も「食糧」として狙われ、食われそうになったところ、包囲が一部解け、危うく虎口を脱した、いや「人口」を脱したシーンが描かれています。人間、飢餓状態になると他人が食糧に見えてくるらしい。特に子供は。第2次世界大戦でも食糧の尽きた軍隊で敵などの人間を喰う「共食い」は行われていたらしい。


仏教ではそれを「餓鬼道に堕ちる」と言う。文字通り、餓えて鬼となって人を喰らう。実際、この世でも現出した世界だった。


生存の危機にさらされると、善悪なんて吹っ飛んでしまいます。でもそれは仕方ないですね。自分はそうならないと思っている人は、そういう状況に陥ったことがないから言えることであって、単に今まで運が良かっただけかもしれない。運悪く、餓鬼道に堕とされたら、餓鬼になって人を喰っているかもよ。

神はわたしたちに命を下さった。命は一番大切なものですね。命を頂いた者は、命を落とさないのが至上命令。だから生存のためならすべてが許される。

考えてみれば、この世に命が誕生してから何十億年というもの、生命あるものは生存のためにあらゆる手段を尽くしてきた。光合成する生物が登場した時も、そのせいで酸素が増えましたが、当時のほかの生物にとって酸素は猛毒で、多くの種が絶滅した。生命の歴史は殺戮の歴史でもあるわけです。でも、殺しても、殺しても、食われても、食われても、生命ってなくなんないね。神様はそれに勝る繁殖力、生命力をすべての生物にお与えになっているからです。それで生態系のバランスは取れている。この世は生命に満ち溢れ、パラダイスのよう。餓鬼道に堕ちながら、天国にいる。天国と地獄が同時にあるんだけど、どっちに傾いているかっていうと、圧倒的に天国に傾いている。1:100くらいの感じかな。いや、1:1万くらい?だって、皆さんの中で、餓鬼道に堕ちている人ってどれくらいいるんですか?人を喰ったことある人っています?まずいないでしょ?じゃあ、1:10億くらいで神の恵みが勝っているのかな。


で、話を戻すと、生存のためならすべてが許されるのは認めるとして、そのことと宗教の説く教えは矛盾しないのか。宗教は平和を説き、慈悲を説き、愛を説き、しかし、わたしたちは命をつなぐという至上命題のためにはどんなことでもする。


矛盾しないと思います。なぜなら、神の教えは、仏の教えは


「われわれ人類の生存のため」の最適解


だからです。安易に「生きるためには何でも許される」からといって自分の利益のことだけを考えてすべての人類が行動したら、たちまち右も左も戦争状態。そして、その戦争が「餓鬼道」を現出する。宗教が慈悲を説き、愛を説き、平和を説くのは、「生きるためには人を喰う」世界を作り出さないためです。

また、戦争でなくても、極度な貧困によって生活できなくなり、

「生きるためには盗むしかない」

となるかもしれない。宗教がおしなべて貧者、弱者救済を説くのも、人々を盗まざるを得ないような状況に落とさないためです。結局、悪を手段として用いずとも「生存」できる世界を作るための最短距離、最適解として宗教はある。そして、さらに言うと、悪を手段として用いる生存戦略よりも、愛と慈悲と平和を説く宗教による生存戦略のほうが、優れている。宗教は実際に人類生存のための最適解なのです。宗教はきれいごとや絵空事ではなく、生命の進化が生存戦略の最適解として生み出した現実的な手段なのです。

さて、そうはいっても宗教がいつも機能しているわけではなく、現実に

「生存のためには悪をなさねければならない」

状況に堕とされたときはどうすればいいのか。その時まず考えるのは

「本当にそうなのか?善なる手段は尽くされたのか?」

ただ手っ取り早く楽な手段を選ぼうとしているだけではないのか?そして、それでもわからないときは

「神に聞く」

「仏に聞く」

「わたしには生存のための手段がありません。神様、仏様、どうすればよいでしょう?」

そのとき神は、仏は、なんでもしなさい、と言うかもしれないし、言わないかもしれない。とにかく生き延びろ、と言うかもしれないし、私のところに来なさい、と言うかもしれない。それは僕にもわかりません。僕もそうなったら、そのとき聞いてみようと思っています。そしてどうするか決めます。そして、その時、神は、仏は

「あとは私に任せなさい」

そう言うと思うんですけど。でも、それがどういう意味かはわかりません。


愛と慈悲の導くままに


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