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すべての聖典を要約すると

 次はキリスト教に行くと言っておきながら、聖典の封印の話からまた道がそれてしまいそうです。ブログを書くときにいつも、 「次はどっちに行こうかな」 と迷う時があります。こっちに行ったらこっちの世界があり、あっちに行ったらまた別の世界がある。まるで量子力学のパラレルワールドみたいな感じです。粒子の位置が確定するごとに世界が分岐していくみたいな。 さて、話を元に戻すと、聖典が封印されてしまって、ここ15年か20年くらい一度も開いてないということをお話ししたと思います。手を伸ばせば届くところに今もあるんですけど。左の本棚にね。で、そうするとどうなるかというと、当然、 「どんどん忘れていってしまう」 ですよね。だんだん聖典の内容が定かでなくなり、「確かブッダてこう説いてたよな」とか、「聖書にこう書いてあったよな」とか「コーランにはこうあったよな」、「ラーマクリシュナはこう言ってたよな」みたいな感じで詳細がテキトーになっていきます。そしてついには、愛と慈悲しか残らない。 結局、たった二つを除いて全部忘れてしまいそうです。 1. 私たちは神に(仏に)愛されていること 2.私たちを愛してくださっているその神は(仏は)唯一全知全能であること 結局宗教ってこういうことじゃないですか。それを伝えるために、神は人類の民族一つ一つに預言者を遣わし、様々な聖典、様々な宗教が生まれたのです。その時代、その地域に応じて目の前にいる人に理解できるようにわかりやすく説いたので、時代が違えば、地域が違えば、説き方が違ったり、科学的事実と合わなくなったり、その土地の環境と合わなくなったりするでしょう。聖典の一字一句にこだわれば、他の聖典や、科学的事実やその土地の習俗や環境と衝突するに決まってるじゃないですか。 言葉って不便ですね。そして不完全。神とか仏とか、愛とか慈悲とか、その言葉の区別だけでも 「あー、めんどくさい」 と思っているのです。 とにかく、この2つの定理を基にして、もう一度進もうと思っています。 どうしてこの2つなのかはまた次回。 愛と慈悲の導くままに

聖典を封印されてしまった

 次にキリスト教に行くと言っておきながらなんですが、その前に断っておくことがありました。 このサイトの聖典とか聖人からの言葉の引用って適当ですよね。ちゃんと、どの聖典のどの章にある、とか言って正確に出典を明示していない。「確か、こんな風に言ってたと思ます」みたいな書き方で済ませてしまっている。 これからもこのスタイルで行くつもりです。 これについては最初の方のポストで書いたと思いますが、「もう聖典のどこそこの語句を引用して説くスタイルはやめようと思う」からです。正確に出典を明示しながら聖句を引用して説くスタイル、実は20年以上前にもう散々やったのです。つまりは、聖典を見ると、慈悲の光がみえて、愛の光が見えてしょうがなくなって、その個所に付箋を貼っていたら1ページに何枚も付箋を貼ってしまい、嫁にも「バカじゃない」と言われる始末。そこをいちいちブログに書いたりしていた時期もあった。 だから、今でも手を伸ばせば届くところに聖典はあるのです。聖書、仏典、コーラン、ハディース、それにラーマクリシュナの福音。また聖人の書いた著作も結構あったのですが、実は思うところあって宗教関係の本はほとんど神田の宗教書を専門に扱う古本屋に送ってしまった。仏典は膨大ですから、今は主要なものしか手元には残ってません。大乗の涅槃経とか華厳経とか、取っとけばよかったな、とちょっと後悔しているものもある。仏教では仏典以外でどうしても捨てられなかったのは親鸞と日蓮の著作集が1冊ずつ。お互い隣同士で仲良く並んでいます。キリスト教関係ではアウグスティヌスやルターの著作も手放してしまい、残っているのは「聖フランシスコの小さき花」だけ。これだけはどうしても捨てられませんでした。前にキリスト教ならルター一択だとかいいながら、「聖フランシスコの小さき花」なんですよねえ。なんでだよ。 それでも、基本聖典はさすがに手放すには忍びなく、まだ残っているので、開いて調べれば出典を明示することはできるのです。 じゃあ、なぜそれをやらない? なんか封印されちゃってる感じなんですよね。神様に。仏さまに。 お前はもう読むなって。書物から顔を上げろって言われてる感じ。 だから、ここ20年ほど、一度も聖典開いてないです、ずっと。「ネトゲ廃人」になっていたせいもあるのですが。でも、このブログ、というか日記を書きだしてからも開いてない...

霊性について

 自分が「ネトゲ廃人」になったからには、ゲーム中毒者の気持ちが分かる、ひいては中毒者全般の精神状態も今なら我が身のように分かる。 ってことは、人類がおよそ3000年前から「お金中毒」になって、魂をカネという悪魔に売り渡してしまって今に至る精神状態も分かる。 これは前にもポストしたことにつながってしまいますし、これについて考えるとまたいくらでも書き続けたくなりますし、それが自分の使命かなとも思うのですが、まずは自分が通ってきた宗教の道について書いている途中だったと思いますので、ちょっとそれは置いておこうかなと。 どこまで行きましたっけ。どうしてもわき道にそれてしまい、どこまで行ったかも忘れてしまいました。確かまず仏教に入って、親鸞に救われて、日蓮に慈悲の光を見たとこまで行ったかな。とにかく、仏典のどこを読んでも「私はお前を救う」と読めてしまい、慈悲の光が見えてしょうがないと書いたかと思います。 その慈悲の光ですが、白い光なのですが、視覚的なものではないですね。霊的なものです。霊的な光。 多分、神が、というかこの場合は仏が、僕を憐れんでくださり、信仰心を授けてくださったのですが、これが霊性を開花させてくださった。霊的な目を開かせてくださったのですね。 この「霊性」ってやつ、理性とはまた別のもの。また芸術的な感性ともまた別かな。こっちは通ずるところもある気がするのですが。 この「霊性」については、禅僧の鈴木大拙がその著「日本的霊性」の中で述べていますが、「これが分からないと宗教は話がとんと通じない」というもので、分かる人にはすぐ分かるのですが、分からない人には本当に「話がとんと通じない」から困っているのです。 じゃあ、霊性って何か特別な能力なのかというと、そうではなくて、「神を信じる心」「ほとけを信じる心」なのですから、わたしたちは無垢な子供の時は誰でも持っていたものです。嘘だと思うなら、試しに幼い子供に 「神様(仏様)にお願いしてみなさい」 って聞いてみてください。みんな素直に 「はい」 って言いますよ。その時 「神様(仏様)なんかいるもんか」 とかこましゃくれたことを言う子供はまずいませんよ。まわりの大人はだれも神様(仏様)のことなんて教えてないのにね。でも、少し大人になってきて少々知恵を付けてしまうと、その浅知恵だか猿知恵だかで疑ってかかるようになり、それと...

なぜ人は地獄を見なきゃいけないのか?

 すべての人は最後には救われるとして、一旦は地獄を見ることも神の(仏の)お計らいなのか? もちろん僕だって地獄なんか見たくありませんよね。だから 「神様、どうか僕(しもべ)を試みに会わせないで下さい」 と祈っている毎日ですが、それでも地獄を見るのが神の御心ならしょうがありません。その時はなるべく軽く済ませてもらえませんかね。 でも、なんで地獄を見なきゃいけない? よく、人気の聖職者とかで、「元暴力団員」とか、「元ヤンキー」とかいう方がいるじゃないですか。その方々がなぜ人気かというと、一度地獄を見たから地獄のことが良くわかるからじゃないですか。考えてみれば、地獄を知らずして、どうやって人を地獄から救うことができましょう。「元何某」とかいう人は、地獄にいる人の気持ちが良くわかるんじゃないですか。 つまり、神が一旦地獄を見させるのは、後で地獄にいる人たちを救うためじゃないですかね。 じゃあ僕はどうかというと、自分はクラスで一番瘦せていたくらいだったので喧嘩が強いはずもなく、できるだけヤバい奴らとは関わらないようにしてましたね。今でもそうですね。つまりはそっち方面の方は苦手。まあ、ウサギですね。それは草食動物が肉食動物を本能的に察知して、まさに脱兎のごとく逃げるのと同じで、生物に備わっている生存本能に従っているだけのこと。弱者は弱者なりに生き残る知恵を神は授けてくださっているんですよ。 じゃあ僕は地獄を見なかったかというと、まあ多分アレかな。あれって 「ネトゲ廃人」 前にも告白しましたけど、オンラインゲーム中毒、というかオフラインでもよくやっていたのでゲーム中毒ですね。それで妻子にも愛想をつかされて人生を棒に振るとこだった。というかもう棒に振ってますね。これまでにも何度もやめようとしたのです。プレステなんて3回も捨てたんですよ。ってことは3回買いなおしてるってことじゃん。重症。そのあと、ゲームはPCに移行しましたが、それからも何度もやめようとしては失敗。やめようとしたきっかけはいつも妻がブチ切れたことですが。当時はCD割られたりして。で、今はやめてから1年以上経過。最長記録だぞ。STEAMとかアプリごとアンインストールしたし。このまま逃げ切れるといいんだけど。 だから、ゲーム中毒者の気持ちはわかりますよ、手に取るように。そして、中毒ってゲームに限らず、ギャンブルとか...

すべての人は救われるのか~ラーマクリシュナ編~

 すべての人は救われるのか? 最後はラーマクリシュナ(たぶんヒンズー教?)に聞いてみましょう。 と言っておきながら、ラーマクリシュナに直接聞くの、忘れました。 仏教→キリスト教→イスラム教と来て最後にラーマクリシュナにたどり着いたころには、もうそんなの聞くまでもないことのように思われたのです。 最後は”愛の洪水” 「宇宙は神の子宮の中にある」 そう言っていたと思います。わたしたちは皆神の子宮の中にいるのですから、わたしたちが救われないなどということがあるでしょうか。考えられません。 わたしたちは皆神の愛の羊水の中にいるのです。 もうこの辺でいいかな。 「すべての人は救われる」などと言ってしまったら、ビジネスとしての宗教にとっては商売あがったりです。「あなたはこのままでは救われない」というからこそ、「ではどうすれば救われるのですか」と不安にさせて、そこですかざず「悪霊を払う」とかなんとか言って「お布施を要求」つまりは 「金を出せ」 と言って、無垢な人々からカネを巻き上げようとするのがビジネス宗教の手口です。 だから、僕がここでひたすらに「すべての人は救われる」と言うからには、ビジネスとしては成り立ちませんね。べつにいいです、それで。自分が生活していく分くらい、他の仕事で稼げますから。 ただし、最後には救われるかもしれないけど、今すぐかどうかはわからないな。だからといって、「今すぐ救われたければ金を出せ」などと言ってビジネスにしようなんて真似はしませんからご安心ください。 最後にはすべての人が救われるのだが、一旦は地獄を見るかもしれない。 実は僕はそう思っています。そして、その「地獄を見る」ことも、神の御計らいなのかなとも思っています。なぜ、地獄を見なければならないのか。それについては、次回考えたいと思います。 愛と慈悲の導くままに

すべての人は救われるのか~イスラム教編~

 イスラム教はすべての人を救うのか? マホメットに聞いてみたのですが、僕が 「アッラーはすべての人を救うはずです」 と言ったところ 「お前、それあまり言わない方がいいぞ。皆安心しきってしまうからな」 と言われました。 これはハディースの中で、預言者が、神がいかに慈悲深いお方であるかを、お気に入りの若い男に秘密裏に明かした後で言った言葉です。この 「お前、それあまり言わない方がいいぞ。皆安心しきってしまうからな」 という言葉は正確には「アッラーはすべての人を救う」という言葉に対する言葉ではなかったかもしれませんが、僕にはそう読めてしまいました。これまでもそうでしたが、僕は聖典をまったく個人的体験として、”体験的に”読んでしまっているので、教学的にはアウトでしょうが、”愛と慈悲の導くままに”進めば、そう読まざるを得なかったのです。 だいたい、あの偉大なる慈悲深きアッラーが、凡夫一人救えなくてどうしましょう。もし、どうしても、信じなければ救われないと言うなら、信じさせればいいだけの話です。あの偉大なる慈悲深きアッラーが、凡夫の心一つ変えられずにどうしましょう。今信じない人がいるのは、神が彼らを「かたくなにさせている」だけのことで、神がその気になったらすべての人に信仰心という恩寵を賜ることなどたやすいこと。現代においてわたしたちの多くが無信仰であるのも何かお考えがあってのことで、一時的なものに過ぎません。 僕にはアッラーが、「救う力があるのに救わない」などということがあるとは到底思われないのです。 「その気になれば救えるのに救わない」 あの慈悲深いアッラー(神)に限ってそんなことがあろうはずがない。思えば、ハディースやコーランの中に言葉を探すまでもなく、自明なことのように思われます。 ということで、イスラム教もすべての人を救うはずだ、と僕は思うわけです。 愛と慈悲の導くままに

すべての人は救われるのか~キリスト教編~

 すべての人は救われるのか? 今度はキリスト教に聞いてみましょう。 キリストは人類の贖罪のためにこの世に来たのですから、これですべての人が救われなかったら、十字架は何だったのか。また、「汝の敵を愛せ」と教えながら、自分の最大の敵である「信じない者」を愛さなかったら、そして救わなかったら、あの教えは何だったのか、と僕は思うのですが、キリスト教の教義としてはどうなのでしょうか。 キリスト教の聖職者の中にも、神の救いを異邦人(信じない人)にまで広げる人オリゲネスのような人はいたようです。オリゲネスは悪魔も最後には救われると説いたと今ChatGPTに聞いたら書いてあったので、イブリース(イスラム教の悪魔)も救われると僕が言ったのと似てるかな。でも、その考えは異端扱いのようですね。 そこでキリスト教最大の教父アウグスティヌスに聞いてみたのですが、彼は有名な著作の中で ”神の救いを異邦人(信じない人)にまで広げようとする人々もいるようだが、かれらがどうしてもそこまで言うなら、わたしは止めない” という趣旨のことを言っていたと思います。これは微妙な答えですね。「そこまでいうなら私は止めない」とは。教会としては「すべての人が救われる」といってしまったら 「それを言っちゃあおしまいよ」 って感じで、ぶっちゃけ過ぎだということなのでしょう。でも、完全に否定することもできなかったのです。親鸞は認めましたし、日蓮も最後にはしぶしぶ「すべての人が救われる」ことを認めましたが、アウグスティヌスは狡猾に逃げを打ってきました。でも、本当はわかってたんだと思いますよ。すべての人が救われるってことを。僕にはそう思えるのです。仏教に限らず、キリスト教やイスラム教やヒンズー教にしろ、すべての偉大なる聖人の方々は、神が、仏が、最後にはすべての人を救って下さるってことを。でも、それを言ってしまったら、「みな安心しきってしまって」、かえって私たちのために良くないから、あえて言わないのです。 ということで、僕が言う「すべての人が救われる」という主張はキリスト教では表向きは異端扱いですが、本当のところ、奥義のところではさあどうですかね。 ああ、ルターに聞くの忘れてました。でも次はイスラム教に聞いてみます。 愛と慈悲の導くままに