葉隠の読みすぎに注意
ああ、とうとう楽しかった葉隠も読み終わってしまいました。
「武士道とは死ぬことを見つけたり」
とはよく言ったもので、日本の武士たちはどうしても討ち死にしたくて仕方がないようです。子供や孫に囲まれながら、安らかに息を引き取るという幸せそうな大往生も
「同じ死ぬなら敵中に駆け入り、突き殺されて死にたいものだ。こうしておめおめと年を取り、老衰して死ぬのはまことに残念である」(葉隠)
とつくづくと不満を述べる。それでこそ武士です。
無念なり 畳の上の 大往生
武士はこうでなければなりません。一にも二にも武士は死あるのみ。やることと言ったら死ぬことしかありません。毎日、毎朝、死ぬのです。
そんことできるわけないじゃん!
いや、できるのです。やるのです。大丈夫です。ちゃんと葉隠にやり方が書いてあります。
『一、必死の観念は、一日ごとに仕切ることだ。毎朝身心をしずめたのち、弓、鉄砲、槍、太刀さきでずたずたにされ、大浪に巻き込まれ、大火の中に飛び込み、雷電に打ちひしがれ、大地震にゆり動かされ、数千丈の崖から飛び下り、病死・頓死などのときの死期の心を想い、毎朝おこたらずに、死んでおくとよい。古老の言に、「軒を出れば死人なり、中門を出れば敵が待つ」ということがある。用心をせよというのではない、その前に死んでおけという意味である。』(「葉隠」)
こうして死んでおけば、心おきなくなすべきことができるというもの。たとえ敵が雲霞の如く押し寄せてきても、
『慶長三年(1598)正月、蔚山で明軍数十万が攻め寄せてきたとき、日本勢もあまりの大軍にあきれはて、かたずを飲んで見まもっていた。直茂公が、「さてさて、おびただしい人数だ。あれでは何十万という大軍だろう」とおおせになると、神右衛門が、「日本では数知れぬことを三歳牛の毛の数と申しますが、これがつまりその、三歳牛の毛の数でございますな」と言ったので、人々は思わず笑い出し、力を取り戻したという。』(葉隠)
圧倒的な数の敵軍を前にしても、味方を笑わせるユーモアも持ち合わせる。これでこそ武士です。なおこれは有名な蔚山城の戦いですが、この後、日本軍は2度も明朝連合軍を撃退しています。(詳しくはこちら)葉隠に当時の貴重な肉声を聞くことができました。
しかし、最終的には日本は撤退するわけですから、いくら武士といえども無理なものは無理。ここを取り違えて葉隠を読みすぎると精神万能主義に陥る危険があります。討ち死が人生の最高の目標であるところの武士が戦闘機に乗ったらどうなるでしょう。もう結果は明らかですね。
「神風特攻隊」
ゼロ戦に250キロ爆弾を抱えたまま、敵空母に突っ込んでしまいます。(写真)
そして現代でも三島由紀夫のように、自衛隊の市谷駐屯地に乗り込んで、自衛隊幹部を「諫言」して切腹するといった事件を引き起こしかねません。(詳しくはこちら)かれも武士道に凝っていて、葉隠を読みすぎたみたい。
結局、朝鮮出兵では中国軍の圧倒的数の前に撤退、第二次世界大戦では米軍の圧倒的物量の前に無条件降伏、三島は自衛隊を決起させること能わず。武士でも無理を通すことはできないのです。
では、葉隠に、死に急ぐ武士たちに、救いはないのか。
いや、ちゃんとあるじゃないですか。前にもご紹介した、葉隠にある山本常朝の立てた4つの誓願の最後の中に。
一、大慈悲心をおこして、人のためになること
今日は長くなったのでこれについては次回考えます。
愛と慈悲の導くままに
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