「葉隠」に慈悲の光を見た!

 「葉隠」に慈悲の光を見るとは思いもよりませんでした。

「葉隠」ですよ、葉隠。武士道精神の何たるかを述べた象徴的書物ですが、これが面白くて、面白くて。で、面白いだけじゃなくて、何で慈悲の光まで?こっちが聞きたいですよ。

実はまだ半分も読んでないんですけどね。ひょんなことから日本の名著シリーズを順番に読んでいこうと思い立って、しばらくは儒学者ばかりでしたが、新井白石、荻生徂徠ときて今「葉隠」。

山本朝常の言葉を記したものです。

「武士道とは死ぬことを見つけたり」

武士道を一言で言い表した有名な言葉をそこに見つけることができます。武士は主君のために死ななければなりません。毎日どうしたら主君のために死ねるか、それだけを考える。

主君のために手柄を立てて敵の首を取る。

そんなことは大した手柄にはなりません。なぜなら死んでないからです。武士にとって一番の手柄は、

主君のために討ち死にすること

佐藤継信が義経の身代わりになって敵の矢に当たって死ぬ。これが最高の手柄となります。自分は今日主君のために死ぬ。もうこれは決まったことですから、毎日朝起きたらまずは鏡を念入りに見て身だしなみを整えます。髪型もバッチリ、香油も付けて、どこから見てもいいオ・ト・コ。これでこそ武士です。これはただオシャレでしているのではありません。討ち死にした時に死に様が無様にならないためです。敵に打ち取られたときの死に様を美しく。それでこそ武士です。

そして敵を見たら猪突猛進。相手が何千人いようと一心に一番に突撃して死に物狂いで突っ込んで討ち死にしなければなりません。

これではただの犬死ではないか。

そう考えているようでは、そもそも武士の資格がありません。死を決することで相手が良く見えるようになり、良い知恵も湧く。死中に活を求めるのです。いや、言い間違えました。活を求めているようではいけません。死中に死を求めるのです。どこまでも武士は死なねばならない。ただし、主君の鍋島公が言っておられるように「死に物狂いの者を討ち取るのは至難の業」でありますから、そう簡単には討ち取られません。

そして、武士は高慢でなければなりません。

「自分は主君のために死を決しているのであるから、自分以上に忠の者はいるはずがないし、自分より勇の者もいるはずがない。」

として、周りの腰抜け侍たちを常に見下しています。ましてや金や利益にとらわれるなど、武士の風上にも置けません。だから武士は普通貧乏です。が、

武士は食わねど高楊枝

いつも高慢です。それでこそ武士です。

でも、主君が志村けんみたいにバカ殿だったらどうするのか。

諫めなければなりません。常に主君のためを思えばこそ、主君がバカ殿でいいわけがありません。しかし、すぐに直諫して勘気を被って

「切腹じゃ!」

となってしまったら、主君は相変わらずバカ殿のまま。それではいけません。主君を諫めるには細心の心遣いが必要です。まずは殿に親しい人のお耳に入れて、その人から進言してもらう。また、自分が進言する機会があったら、直接殿をお咎めするのではなく、まずは欠点を自分のこととして言い、その欠点によって自分は失敗したというように話して、殿自ら思い当たらせるように仕向けることで初めて聞き入れてくださるようにするのがよい、と葉隠には書いています。なんという細やかな心遣いでしょう。相手の気持ちを汲み取れない無骨者では武士は務まらないのです。

さてさて、ここまでは武士道なのでが、

「大気、すなわち大きな心というのは大慈悲のことである。神詠に、

慈悲の目ににくしと思う人あらじ 科(とが)のあるをば猶もあはれめ

というのがある。限りなく広く大きな心である。すべてに行きわたるということであろう。古代の日本・中国・インド三国にあらわれた聖人たちを今日まで変わりなく崇拝しているのも、それらの人の慈悲の心が広くいきわたっているからだ。何事も主君のため親のため、または多くの人のため、子供のためを思ってなすべきである。これが大慈悲と言うものだ。慈悲の心から出てくる知恵や勇気が本物である。慈悲の心をもって罰し、慈悲の心をもって働くので、限りなく強く正しいのである。自分のことばかり考えてするのは了簡が狭く、小心というものだ。これが悪事となるのである。勇気と知恵については、以前から分かっていた。慈悲については、このごろ、十分胸に入れたつもりである。」(「葉隠」 中央公論社)

いきなり仏に出会ってしまいました。まるで武士道から仏道に入ってしまったようです。読んでる書物を間違えたかと思ったほどです。どんな道でも究めれば一つにつながるとは、「葉隠」の別段でも言ってますし、他でも聞いたことです。神はどの道にもおはします。そもそも、山本朝常は武士として4つの請願を立てています。

一、武士道において絶対におくれをとらないこと

一、主君のお役に立つこと

一、親に孝行すること

一、大慈悲心を起こし、人のためになること

いきなり最後の請願で、菩薩となってしまわれました。また慈悲の光を見てしまいましたね。見るはずのないところに。仏はいかなるところにもいらっしゃいました。武士の中にも。

愛と慈悲の導くままに

←

コメント

このブログの人気の投稿

宗教は人類の生存のための最適解

聖典を封印されてしまった

宗教の二つの定理から導き出されること