嫉妬について

 嫉妬って誰にでもあると思うんですけど、人が誰かに嫉妬しているのを聞かされるのって本当にきつくないですか。

そういう僕だって嫉妬の感情はあるんですけど、ああ、自分は誰かに嫉妬してるなって気付いた時の感じの悪さっていったら

「オレって最低。愛を語る資格なし」

他人の成功を素直に喜べないって、どんだけ器小さいんだよ

そして誰かさんが他人に嫉妬してるのを聞かされる時のあの感じの悪さっていったらもう、

つらいというか、悲しいというか、せつないというか、いたたまれないというか、救いがないというか

とにかく悲しくて悲しくてしょうがない感じ。

人間だれしも嫉妬の感情はあるとは思いますが、それをなるべく人には言わない方がいいですよ。周囲にいる人たち全員が絶望しそうになるから。ものすごい負の波動が半径数百メートルに最速で伝わっていく感じ。

で、この嫉妬ってやつ。どこから来るかっていうと、他人と自分を比較することから来るんですね。相手と比べて自分が下と思えば嫉妬する。ってことは相手と比べて自分が上と思えば軽蔑するってことじゃん。どっちにしてもイヤなヤツじゃね?自分もそうか。

常に他者との相対的基準でしか自分の価値を測れないんでしょうね。その相対的価値基準から抜け出るために宗教がある。宗教って絶対的価値基準を持ってるから。

さて、前にも「大きな命」で書きましたが、わたしたちはみんなでひとつの「大きな命」を生きてると思うんですね。そしてわたしたちひとりひとりはその「大きな命」の細胞みたいなものかなって僕はイメージしてるんです。そしてひとつひとつの細胞にはそれぞれ役割がある。脳の細胞だったり、足の細胞だったり。だとしたら、足の細胞が脳の細胞に嫉妬したり、脳の細胞が足の細胞を軽蔑したりしたらどうでしょう?お互いに足を引っ張り合ったら全体としての体が調子悪くなっちゃうよね。脳だけあっても足がなきゃ動けないじゃん。頭で考えたことを実行できません。また足だけあっても脳がなきゃそもそもどこに歩いていくか決めらんないじゃん。どっちも必要なんですよ。結局、嫉妬と軽蔑は全体としての機能を損ない、それは個々にも損害となって跳ね返ってくる。

他者と自己がお互いに依存しあっており、その運命、その幸福も不幸も、お互いに避けがたく結びついている、ということが見えてない。

宗教がわたしたちはひとつですよ、わたしたちはみな兄弟ですよ、って説くのもそういうことかなって思うんです。

相手と自分が実は深く結びついていて、みんなでひとつの「大きな命」を生きてるってことが分かったら、嫉妬するって結局自分を傷つけることになるって気付くと思うんですけど。

それを自分で言っときながら、まだ時々嫉妬している自分を発見するときがある。まあ自分は100%の善人はいないって主張してもいますから、最後まで完全に消えることはないんでしょうが。同時に100%の悪人もいないと思っているから、嫉妬から抜け出せる希望も必ずあると思うんですね。どんなに嫉妬深い人だって。

愛と慈悲の導くままに





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