自然界における利他的行動

 前回は人間界における利他的行動について考えまてみました。人間は社会的生き物である以上、どんなエゴイストであっても生活の糧を得るためには働かざるを得ず、働くとは他者の利益に供することですから、利他的行動を取らざるを得ない。そして利他的行動を取らずに自己の利益だけを得る行為は多くの場合犯罪として定義され、社会的制裁を受ける。

では、人間以外の動物や植物はどうなのか。

まずは、植物と動物の関係を見てみましょう。植物は花を咲かせ、実を結びますね。昆虫が花の蜜を吸ったり、動物が実を食べたりしますね。一見すると、植物が一方的に動物に利用されているようですが、昆虫が花の蜜を吸う時に体に花粉が付き、その昆虫が他の花に行って花粉を受粉させます。動物が実を食べると、種が糞として出されますが、その種から芽が出るので植物は自分は動けないけど自分の生息区域を広げます。

つまり、お互いに自分の利益しか考えずに行動しているのに、ちゃっかり利用されている。生の営み自体に利他的行動が組み込まれているということでしょう。

動物でも、アリやハチなどは社会的生活を営みますね。そうすると一つ一つの個体は高度に分業化されている。偵察に行くもの、食物を運ぶもの(働きアリとか)、卵を産むもの(女王バチとか)、授精させるもの(オスの蜂なんかただそのためだけの機能しかなかったりする)、巣が攻撃されたときに戦って自爆するアリまでいるらしい(アリにも神風特攻隊がいるらしい)。

サルの群れでも、リーダーは群れを守るために体を張って戦ったりする。ライオンが狩りする時も、連係プレーでやるしね。

意外と自然界でも利他的行動はありますね。お互い協力した方が、種として生存に有利だからでしょう。つまり、利他的行動が自己の利益にもなっている。さらに言うと、利他的行動を発達させた方が自己が生き残る可能性も高まるのではないですか。

それでも、魚などを見てると、ただひたすら下位の魚やプランクトンを食って生きているだけのようにも見えますが、そのような究極的な利己的行動を取って生きたとしても、最後には自分が他の魚に食われることで、帳尻が付く。自分が食われるって、究極の利他的行動、というか利他的結果ですね。だって、自分の命を相手に差し出すんですよ。いやいやだけど。仏典では釈迦が極端な利他的行動の見本として空腹のトラに自分の命を差し出して食わせましたが、オキアミとか普通に実地でそれをやっている。いやいやだけどね。いやいやでもいいじゃないですか。僕たちが肉を食う時、「このニワトリ君は喜んで僕に命を差し出してくれたのか、それともいやいやだったか」なんて考えないもんね。食われることで相手の命の役に立っている事実は変わらない。そして、オキアミをたらふく食い続けたクジラもついには寿命が尽きて死んで、深海へと落ちていく。そこでは深海生物が待っていて、深海のカニとか大王グソクムシとか、深海ザメとかの大切な食糧になる。クジラはでかいので、その死体だけでちょっとした深海の生態系を形成するほどだ。

相手を殺して食うという究極の利己的行動の対極には、自分の命を差し出して食われるという究極の利他的行動があり、それで釣り合っているってことですか。

考えてみれば、すべての生物は自然界の生態系に組み込まれていて、その網の目に中でお互いに関連しあいながら生きていく。どんな生き物も一人で孤立して生きていくことはできない。生態系の中でお互いに利用し利用されながらバランスを取って生きるしかない。そして、その大本になる植物だけど、水と窒素などの無機物と一緒に太陽エネルギーを他の生き物が利用できる形に変換してくれている。つまり、植物は物質世界とつながっていて、太陽、つまり宇宙とつながっている。

結局、どんな生き物も、自利と利他が釣り合った状態でしか生きられないのですから、私たちが生きる時も、利他的行動を意識することで、すっとより良く生きられるんじゃないでしょうか。

二宮金次郎が言っていたんですが、彼の説く推譲(他者に譲ること)は、田畑に種を蒔くようなもので、後で何百、何千倍にもなって帰ってくると比喩していました。ただ、単に金をあげるだけでは相手が惰情に流れて必ずしも実を結ばないので、それで相手が立ち直って大きな実を結ぶように譲ることが肝要だとも言ってましたね。お金をあげても、飲んじゃいました、ギャンブルですっちゃいました、じゃ意味がない。

でも利他が何百倍、何千倍にもなって自分に帰ってくるんだったら本当に素敵じゃありません?

利他=自利なら1倍で損得ないけど、何百、何千倍ならめっちゃ得ってことじゃん。

愛と慈悲の導くままに

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