人間社会における利他的行動(二宮金次郎の教えについて考えたこと)

 二宮金次郎の教えを聞くうちに、人間の利他時行動について考えさせられました。

彼の教えの3本柱は、

1. 勤勉(勤労に励むこと)

2. 分度(生活水準を収入の範囲内に収めること)

3. 推譲(2でできた余剰財産を譲ること)

ですが、その中で利他的行動として意識されているのは3の推譲において、余剰財産を社会のために使うということですね。1の勤勉については、江戸時代の農村では自給自足の側面も大きかったので、まずは自分の食糧を確保するためという自利の点が強く意識されていたようですが、高度に分業化された現代社会では、働くということが他者の利益に供する、すなわち他人が必要とする商品やサービスを提供することになるでしょう。つまり、1の勤勉の中にすでに利他が内在しているということです。そしてその見返りとして報酬を受け取る。働くと言うことは利他と利己が見事に並び立っている。まさに世界のあるべき姿ですね。自分が生きるためには金が要る。金を得るには仕事をしなければならない。仕事とは他者のニーズを満たすことである。すなわち利他的行動である。この世は利他時行動をしなければ生きられないようにできているのです。もし、利他時行動をせずに金を得ようとすれば、盗みや詐欺やぼったくりとなり、他者に損害を与えることになる。それはすなわち犯罪と呼ばれ、社会から制裁を受ける。

労働が神聖とされるのも納得です。

そして2の分度は仏教では「足るを知る」ということですね。生活水準を収入の範囲内に収めることは「借金」という選択肢がなければこれ以外取りようがありません。

で、3の推譲ですが、実は1の勤勉の中に、推譲の要素が内在されているのではないかと僕は考えるわけです。すなわち、江戸時代においては「年貢」として、現代では「税金」として、そもそも労働で得た報酬の中から強制的に社会に「譲らされている」ではないか、ということです。

つまり、人間がまっとうに生きようとすれば、それだけで1,2,3を満たすことになる。

そうです。何も難しいことはありません。ただ自分のためだけに生きようとしても、知らず知らずのうちに利他的行動をしているのです。またそうせざるを得ないようにこの世はできているのです。

だから、自分を卑下する必要はありません。スーパーヒーローのような自己犠牲の塊のような存在を目指さなくとも、生きているだけで立派。

ここで注意することは、仕事が本当に他者の役に立っているか、社会の役に立っているか、ということです。もし、そうでなければ、それは犯罪と異ならない。「仕事」という名に値しない。すなわち悪ですね。よく悪者が「仕事をするぞ」とかいって悪事を実行しますが、そんなの「仕事」じゃありませんよ。ただの「悪事」。そしてそれは社会から制裁を受ける運命にある。すなわち滅びる運命にあります。つまり、いつかは「サツにパクられる」のです。そして代償を払わされる。つまり強制的に利他的行為をさせられる。どうせ代償を払うなら、最初からまともな仕事をしておけば良かったじゃないか。

また、もう一つ注意することは「借金」です。2の分度を超えるためには、借金しなければならない。逆に言うと「借金」は分度を破壊する禁じ手であり、悪魔の誘惑ではないかと思うのです。借金が悪だと言うことはこれまでにも書いてきました。借金をしなければ生活できないというなら、それは社会に問題がありますね。失業した時の雇用保険や、事情があって仕事ができない人のために「生活保護」の制度が日本にはありますから、一応制度上は借金をしなければ憲法で保障されている「健康で文化的な最低限度の生活」ができないはずはない。でもその制度から漏れる人がいるならば、それは社会制度に不備があることになりますね。

つまり、普通に生きていれば、それだけで立派。

こんな風に自分が考えたがるのは、僕が神の愛を、仏の慈悲を、額面通りに信じているからだと思います。あの慈悲深い神が(仏が)、わたしたちに自己犠牲の塊のようなスーパーヒーローになることを望むだろうか。もっと楽な、誰にでもできる生き方を用意してくださってるのではないか、と思うのです。それは相当甘えた考えですけど。

「仏に甘える」

これを僕に教えてくれたのは親鸞ですね。

だから僕は仏に(神に)甘えるクセがついちゃってるので、二宮金次郎の教えを聞いても、こういった「甘えた解釈」になってしまうのですが。

愛と慈悲の導くままに


コメント

このブログの人気の投稿

聖典を封印されてしまった

本物と偽物の宗教の見分け方

すべての人は救われるのか~キリスト教編~