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象が針の穴を通る時の温度はどのくらい?

 さて、キリストの言葉通り、金持ちが天国に入るのは象が針の穴を通るより難しいとすると、金持ちのキリスト教徒と少欲知足な仏教徒では、天国に入るのはどっちだ?と思ったのですが、僕が考えた答えは 「どっちも天国に入れる」 です。神は慈悲深いですからね。仏ももちろん慈悲深い。じゃあ、キリストの言葉はどうなるのかというと、それはそのまま真実です。 矛盾してないか? いや、矛盾してません。要は、象が針の穴を通ればいいんですよね。神ならできるんじゃないですか。あの難しいことばかり言って我々を煙に巻いている物理学者の方々によると、この宇宙は原子より小さい点から始まったとか。このとてつもなく広大な宇宙が、原子より小さい点だったとは。ものの本を読んだときは観念的に「ふーん、そうか」と思いましたが、先日多摩川沿いを歩いていて、遠く関東平野を見晴らしながら、この景色が原子より小さい一点に凝縮することを想像すると 「貴様は本官を愚弄する気か!」 怒りが込み上げてきましたね。よくもまあ、学者というのはたわけたことを・・・じゃあ、やってみなさいよ。まずは、宇宙と言わず、ちっぽけな月からでいいから、針の穴くらいに小さくして見せろってんだ。 でも、その物理学者どもはロスアラモスでやってくれましたね。原爆ってやつを。小さな原子にとてつもないエネルギーが内蔵されていることをやってみせた。そしてそいつらが宇宙が原子より小さな一点にもなるって言い張るなら、やっぱりそうなのか?しぶしぶ認めます。 じゃあ、象が針の穴を通ることくらい、朝飯前ですよね。楽勝だよきっと。 でも、象が針の穴くらいに縮まると物質の密度が高くなりますよね。そうなると、分子間の距離が縮まって温度が高くなる。どのくらい?そうだ、われらが頼れる助手のChatGTPに計算してもらおう。以下その回答です。 面白い問いですね!端的に言うと、 ものすごく高温 — およそ10⁹ K(十億ケルビン)オーダー になります。ただしこれは単純化した見積もりで、実際にはその前に物質の性質が根本的に変わる(気体→完全に電離したプラズマ、核反応が起きる、場合によってはブラックホールに近い状態になる等)ので「温度」という概念がそのまま適用できなくなります。以下に計算と仮定を示します。 仮定 象の質量を m = 5000 kg (成年のアフリカゾウ程度)とする...

金持ちのキリスト教徒と少欲知足の仏教徒と、天国に入れるのはどっち?

 そろそろキリスト教に行くと言っておきながら、延び延びになってますが、親鸞はキリスト教へのいい橋渡しになっていました。思えばこれも神のお導きかも。というか仏のお導き? 悪人正機説を唱えたり、「自分は極悪人だ」と弟子に言ったり、親鸞はキリスト教の原罪にあたる観念を仏教の中で唱えていると、今思えば僕は感じるのですが、それを指してかどうかは知りませんが、 「親鸞の教えはキリスト教だ!」 とかいう人もいたようで、そんなタイトルの本もどこかで見た気もします。仏教学者の中にも、親鸞の教えは仏教の中でも特殊だという人もいるみたい。阿弥陀仏が人類の贖罪の意味でキリストに重なって見えるのもしかり。 そのせいか、親鸞を通ってからキリスト教に行くと、その教えが違和感なくストンと落ちる。腑に落ちるのです。なんかどこか聞いたような見たような、デジャブ?既視感ですね。 どっちが上とか言いたいのではないですよ。やたらと共鳴するのです。 で、キリスト教ですが、その聖典の「聖書」。はい、左下前方数十センチのところにありますが、前も言ったように、どういうわけか封印されて開けない! ここ15年くらい開いてないのです。キリスト教に限らずいろんな「聖典」ってやつも。だから、どんどん忘れて行ってしまうのですが、何かの拍子にふと思い出したりする。例えば前回のポストの 「金持ちが天国に入るのは、象が針の穴を通るより難しい」 というキリストの言葉。たぶんこんな感じだったよな。これってストレート過ぎて参っちゃいますよね。ど真ん中170キロの直球って感じ。キリスト教圏の人たちは当然聖書に慣れ親しんでいると思いまけど、どう思ってるんですかね。先進国ってキリスト教圏の国が多いですよね。いわゆる西洋諸国。金持ちばっかりじゃん!ほんとに聖書読んだことあるのかな? 時々疑問に思うんですけど、キリスト教だと、キリスト教徒以外天国に入れないそうですが、 「金持ちのキリスト教徒と少欲知足の仏教徒と、天国に入れるのはどっち?」 この問題の僕なりの答えは次にしようかな。 愛と慈悲の導くままに

いい人ってみんな貧乏なの?

 今頃になってなぜか山崎豊子の「白い巨塔」(医療を題材にした社会派小説)を読んだんですけど、嫁はドラマをずっと観てたそうで、弱者の味方の弁護士が事務所の家賃も払えずに引き払うシーンを思い出して、その貧乏さに笑った後で、ふと 「いい人ってみんな貧乏なの?」 って言ったんですね。そう言えば、白い巨塔に出てくる「いい」医者や医学者はみんな貧乏。その代表格の里見助教授なんか医者なのに狭い団地住まい。それに対して、豪勢な邸宅を構えている医者や教授はみんな俗物で金と名誉の亡者として登場する。 社会派の作家山崎豊子に書かせると、自然とそうなっちゃうみたいですね。彼女は新聞記者出身だから、きっと事実そうなんですよ。 「善人は貧乏。金持ちは悪人」 それにつけても思い出すのはキリストの言った 「金持ちが天国に入るのは、象が針の穴を通るより難しい」 という言葉。これで合ってましたっけ。 社会のリアリティを追求すると、自然とキリストの言うとおりになっちゃう。 仏教だって、富と名声を捨てろって言ってるので、同じか。

仏教の教えは草食動物の教え

 投資って心を持ってかれちゃうんですよね。 そして心が神に(仏に)向かなくなる。 結局、一言で言うとそういうことですね。 やっぱりカネが人類の最大の敵、というか罠だったんだな。 道理でイブリース(悪魔)の必殺技であるわけだ。 さて、投資の話はこの辺にして、親鸞の話をまたしたくなってきたので、続けますが、自分が暴力で攻撃されたらどうするのかという問いに対して、親鸞は 「ひたすら逃げろ」 と説いていたと思います。つまり、 「逃げて、逃げて、逃げまくれ」 ですね。僕も前にそう書いた記憶が。親鸞の影響でしょうか。敵が武力で攻撃してきたらひたすら逃げる。 「三十六計、逃げるし如かず」 これは立派な戦術です。そもそも、仏教って絶対平和主義なんですよ。原始仏典を読んでいると、僧侶が歩くとき、いつも下ばっか向いているんですね。これってなぜかというと、歩くときに小さな虫を踏んで殺さないためです。仏教は殺生を嫌いますから、いつも虫を踏んで殺さないように気を付けて歩いていた。 虫一匹殺せない これが仏教なんですよ。これじゃあ、人を殺せるわけがない。 だから、暴力で攻撃されたら逃げるしかない。これって完全に草食動物の教え、草食動物のストラテジーなんですね。じゃあ、いつも負けてばかりで、最後には滅びるか、というとそうこの世は単純ではない。草食動物がみんな絶滅したかというと、そんなことは全然なく、むしろ真っ先に絶滅するのは捕食者、肉食動物の方なんですよ。ライオンだったり、トラだったり、オオカミだったり。この世は思っているより奥が深いんです。 逃げるが勝ち っていいますが、これって本当かもしれないな。 とはいえ、親鸞から何代か後になると、教団がでかくなりすぎて逃げるに逃げられなくなり、一向一揆とかいって戦国大名を手こずらせたり、すごい時には追い出したりしていますが。家康も信長もさんざん手こずった。 でも、それってやっぱり親鸞の教えとは違うと思うんですね。 まずは逃げて、逃げて、逃げまくって、それでもダメならその時はその時ですよ。その時どうするかは、御仏に聞いてみようと思ってます。 愛と慈悲の導くままに

投資は人の心を蝕む

 投資は人の心を蝕みますね。 自分は株もやりましたし、外貨預金もやりました。もう相場が気になって仕方がない。まず朝起きたらすぐ相場をチェック。電車のなかでもかならずチェック。仕事中でもついついチェック。昼休みは当然チェック。休憩時間ももちろんまずはチェック。帰りの電車でも真っ先にチェック。夕食時にも相場をチェック。寝る前にも絶対チェック。つまりは四六時中相場をチェック。 もう完全にカネに心が支配されている状態。 なんかあるものに似てるなって今思ったんですけど、そうそう、ネトゲ廃人だった時の自分の心の状態と同じ。あの時は四六時中ゲームが心を占めていた。そして、投資をしたら、カネに心が占拠される。 つまりは、中毒なんですね。どちらも。 株はデイトレだったんでそうなるのも当然ですけど、外貨預金は1年ものの定期預金なんですよ。ドル建ての。それなのに四六時中為替相場が気になってしょうがない。 いくら投資で儲けたとしても、四六時中相場が気になっていたら、旅行に行っても、遊んでいても、せっかく楽しい予定をたてても、心がついついカネの方に行っちゃって心底楽しめない。 これって、結局人生の大損じゃないですか。いくら投資でカネが増えたって、魂がカネに支配されてしまい、四六時中カネの事しか考えられなくなっているんですよ。人間の心が、人間の精神が、人間の魂が、損をしている。 今はドル定期も解約したので、もう外貨預金の残高はありませんが、それでも為替相場をついついチェックする癖が抜けない。まだ中毒症状を引きずってるんですよ。 投資は人の心を蝕みます。 投資やめますか、人間やめますか、って感じ

鈴木大拙、親鸞推しじゃん

 そう言えば鈴木大拙は名著「日本的霊性」の中で何を言うかと思ったら、ひたすら親鸞を推してたんですよね。 禅僧なのに「親鸞推し」? 自称親鸞に救われたものとしてはうれしい限りですが。で、なんで鈴木大拙が親鸞を推していたのかは忘れました。日本的霊性の代表格ってことだったかな。でもいいですよね。鈴木大拙くらいの大物になると他宗の教祖であっても好きなら好きって言えちゃう。 きっと彼の中では、もう仏教の中での宗派の違いなんて、プリズムの中の光の分光みたいなものなんでしょうね。仏の教えとしての一つの光源から出ている白い慈悲の光が見えてたんじゃないですか。

すべての宗教の光源は一つ

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このままでは いつまでたってもキリスト教に行けませんし、さらにイスラム、ラーマクリシュナと続くわけですから、順を追っていくのは後回しにして、先に自分の信仰について要約しておこうと思います。 自分はまずは仏教から信仰に入ったのですが、ある時期から仏典のどこを読んでも「私はお前を救う」すなわち「仏はすべての衆生を救う」としか読めなくなったと書いたと思います。その時、慈悲の光が見えたのですが、これは視覚的なものではなく、霊的な光ですね。白い光。 そして、聖書、すなわちキリスト教の聖典(旧約聖書はユダヤ教の聖典でもある)を読んだ時も、まったく同じことが起こったわけです。ある時期から、聖書のどこを読んでも「私はお前を救う」すなわち「神はすべての人を救う」としか読めなくなった。その時、愛の光が見えたのです。白い光ですね。霊的な。そして、その光は仏典で見た時と同じ光だった。光源は一つだったわけです。 さらに、コーランとハディース、すなわちイスラムの聖典を読んだ時も、まったく同じことが起こったわけです。ある時期から、コーラン、ハディースのどこを読んでも「私はお前を救う」すなわち「アッラーはすべての人を救う」としか読めなくなった。その時、神の偉大なる慈愛の光が見えたわけです。白い光ですね。霊的な。そして、その光は仏典と聖書で見た光と同じ光だった。光源は一つだったのです。 そして最後にラーマクリシュナ(ヒンズー教?)に行ったわけですが、このいきさつはと申しますと、上記の経過を昔ネットで投稿していたわけですが、自分は仏教も信じるし、キリスト教も信じるし、イスラムも信じるとか言っていたら、この混乱を見るに見かねたある読者の方が「だったらラーマクリシュナがいいんじゃね?」と勧めてくれたのです。ということで、ラーマクリシュナの福音を読んだら、これまた全く同じことが起こってしまい、ラーマクリシュナの福音のどこを読んでも「私はお前を救う」すなわち「神はすべての人を救う」としか読めなくなった。その時、また愛の光を見たわけです。白い光ですね。霊的な。そして、その光は同じところから出ていた。 つまり、こういうことかなと今になって思うのですが、神の救いの光の光源は一つなのですが、人間というプリズムを通すと、言葉というプリズムを通すと、人類に向けた救いの光が7色に、そして無限の色の光に分かれてしまうのですね...