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すべての宗教の光源は一つ

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このままでは いつまでたってもキリスト教に行けませんし、さらにイスラム、ラーマクリシュナと続くわけですから、順を追っていくのは後回しにして、先に自分の信仰について要約しておこうと思います。 自分はまずは仏教から信仰に入ったのですが、ある時期から仏典のどこを読んでも「私はお前を救う」すなわち「仏はすべての衆生を救う」としか読めなくなったと書いたと思います。その時、慈悲の光が見えたのですが、これは視覚的なものではなく、霊的な光ですね。白い光。 そして、聖書、すなわちキリスト教の聖典(旧約聖書はユダヤ教の聖典でもある)を読んだ時も、まったく同じことが起こったわけです。ある時期から、聖書のどこを読んでも「私はお前を救う」すなわち「神はすべての人を救う」としか読めなくなった。その時、愛の光が見えたのです。白い光ですね。霊的な。そして、その光は仏典で見た時と同じ光だった。光源は一つだったわけです。 さらに、コーランとハディース、すなわちイスラムの聖典を読んだ時も、まったく同じことが起こったわけです。ある時期から、コーラン、ハディースのどこを読んでも「私はお前を救う」すなわち「アッラーはすべての人を救う」としか読めなくなった。その時、神の偉大なる慈愛の光が見えたわけです。白い光ですね。霊的な。そして、その光は仏典と聖書で見た光と同じ光だった。光源は一つだったのです。 そして最後にラーマクリシュナ(ヒンズー教?)に行ったわけですが、このいきさつはと申しますと、上記の経過を昔ネットで投稿していたわけですが、自分は仏教も信じるし、キリスト教も信じるし、イスラムも信じるとか言っていたら、この混乱を見るに見かねたある読者の方が「だったらラーマクリシュナがいいんじゃね?」と勧めてくれたのです。ということで、ラーマクリシュナの福音を読んだら、これまた全く同じことが起こってしまい、ラーマクリシュナの福音のどこを読んでも「私はお前を救う」すなわち「神はすべての人を救う」としか読めなくなった。その時、また愛の光を見たわけです。白い光ですね。霊的な。そして、その光は同じところから出ていた。 つまり、こういうことかなと今になって思うのですが、神の救いの光の光源は一つなのですが、人間というプリズムを通すと、言葉というプリズムを通すと、人類に向けた救いの光が7色に、そして無限の色の光に分かれてしまうのですね...

神は偉大なり

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 「神は偉大なり」 新たな言語で歌ってみた 愛と慈悲の導くままに

神の恵みは圧倒的

 前回はこの世には不条理なことが多くて、「神はいるのか」と疑問を感じる時があると言いましたし、それはみなさんも同じかと思いますが、神さまの名誉のために言っておかなければならないことがあります。それは この世の不条理さを考慮しても、神の恵みがこの世の圧倒している ということです。大きな視点で見れば、神の恩恵は圧倒的です。 人類が誕生してこの方、人口はどれだけ増えたのか。最近の研究によると、現生人類は最も少ない時は10万人程度の時期があったようです。それが今では84億人。どんだけ増えてんだよ。 この世は不条理だ、とか神様に文句を言ったら 「これまでどんだけお前らを増やしてやったのかわかってんのか」 と返されそうです。もし、遠い銀河から宇宙人が地球を見たら、 「人類の未曽有の繁栄」 と形容するに違いありません。人類だけではありません。生命が40億年前に誕生してから、地球は生命に満ち溢れています。何度か大量絶滅の時期があったようですが、すべて乗り越え、今も生命に満ち溢れています。宇宙から見たら、地球は 「生命の未曽有の繁栄」 と映るはずです。少なくとも地球は奇跡のような「未曽有の繁栄」を謳歌している。 この世は神の恵みが圧倒してますね。 この世が戦争や貧困など不幸に満ち、不条理が勝っていたら、人類はどんどん減っていって、今頃絶滅してもおかしくない。でも実際は意味不明なほど増えている。「不条理なほど」増えている。先進国では人口は頭打ちか減少傾向ですが、これ以上増えたらさすがにヤバいでしょ。 神の圧倒的な恵みを想うと、この世の不幸がかすんでしまいそうです。 宇宙から地球を見たら、その美しさに惚れ惚れする。 宇宙人には地球が奇跡の星、天国のように見えている。 地球は神に愛され、こんなに生命に溢れていて、人類は神に愛され、こんなに増えている。 それが事実、というか現実ですね。

救いを信じるということ

 「すべての人は救われる」すなわち「自分も最後は救われる」ことを知って何になるのか、っつう話ですが、これを知るのと知らないのとでは大違いだと思いますよ。 確かに世の中には一見不条理なことも多く、「神様(仏様)何やってんだ」と思う時もありますが、でも最後には救われるんだな、そしてこの不条理なことの落とし前はいずれ全部神様が付けてくださるんだな、と思えば救いはありますよ。 いったいどんな落とし前を付けてくださるのか、あの世からとくと拝見、と今から僕は楽しみなんですが、それでもなぜか神様(仏様)への信頼は揺らぎませんね。 ほとんど病気かもしれない。メンヘラですかね? で、「すべての人は救われる」すなわち「自分も最後は救われる」っつうことは「あなたも最後は救われる」と知れば、どうなるかというと、 カネ、カネ言わなくなる 自分を他人と比べて嫉妬しなくなる だって最後には救われるんですから、そんなに欲張らばなくてもいいじゃないか。 もう一ついいことは、自分は他人からどう見られているだろうか、という他人からの視線に加えて、神は(仏は)自分をどう思われるだろうか、という神の視点、仏の視点が加わります。そして、この神からどう見えるか、仏からどう見えるか、の視点が加われば、他人の視線なんてどうでもよくなります。もういちいち他人の評価を基準にしない。とはいえ、まったく他人からの評価が気にならなくなるのは無理ですが、それより神が自分をどう思われるか、仏が自分をどう思われるか、の方が大事。では、やたらとストイックになるかというと、そんな必要もない。なにせ「すべての人をお救いになる」ほどのお方ですから、優しいんのなんのって、たいていのことは目をつぶって赦してくださいます。見逃してくださいます。 この優しさ、仏典でも聖書でもコーランでもそしてもちろんラーマクリシュナの福音でも、そしていろんな聖人たちからも、耳にタコができるくらい聞かされました。多くの人は一神教の神は厳しく裁くお方だとお思いかもしれませんが、僕が見た光は真逆を示していました。 ではそろそろ次(キリスト教)に行けるかな。 愛と慈悲の導くままに

不軽菩薩

 「すべての人は救われる」 これって法華経に出てくる不軽菩薩がすでに 「わたしはあなた方を軽んじたり致しません。あなた方はみな仏になるでしょう」 と言いふらしたのと同じかなと思うところまで行きましたね。僕が「すべての人は救われる」というのと、不軽菩薩が「すべての人は仏になる」と言うのとは同じじゃないですか。つまり僕がやってるのは不軽菩薩の二番煎じってことか。 光栄なことです。 この菩薩、常に「わたしはあなた方を軽んじたりは致しません。あなた方はみな仏になるでしょう」と言いふらすものだから、みんなにウザがられて、しまいには石を投げられたり、棒でぶたれたりして迫害されます。で、この菩薩、どうしたかというと 「走って逃げてこれを避け、遠くから、『わたしはあなた方を軽んじたりは致しません。あなた方はみな仏になるでしょう』と叫んだ」 かっこわる。堂々と立ち向かうのではなく、敵に後ろを見せて卑怯にも走って逃げ、遠くから負け犬の遠吠えみたいに、また懲りずに捨て台詞を吐いている。 「すべての人は救われる」 と。つまり、 「それでもあなたは救われる」 と。何か俺のことを茶化して言ってんのか。確かこうだったよな。正確に引用すればいいんだけど、だからできないんですよ、それが。ほとけさんに仏典を封印されちゃって開けない。手を伸ばせば届くところ、左斜め前方数十センチのところに法華経あるんですけど。 とにかく、僕も攻撃されたら逃げて逃げて逃げまくって、遠くから 「それでもあなたは救われる」 って呪いの言葉を叫んでやろう。じゃなかった、祝福の言葉を。 どんなにかっこ悪くてもいいから、逃げて逃げて逃げまくって生き延びてやろう。せっかく神から頂いた大切な命だから、ギリギリ最後の瞬間まであがいて全うするぞ。そして、 「すべての人は救われる」 「それでもあなたは救われる」 と捨て台詞を遠くから投げつけてやろう。 これが草食動物、弱者の生き方かな。ウサギですね。逃げ足だけは早い。僕は喧嘩弱いからね。ウサギがライオンに向かっていったらただのバカうさぎでしょ。でも、弱いからって、そう簡単に食われてたまるか。 神はちゃんと弱者には弱者なりに生き延びる手段を与えて下さってるんですよ。 でも、「すべての人は救われる」からって、何なの?人生何が変わるっていうのさ。 それに、仏教の次はキリスト教に行くって言っと...

宗教の二つの定理から導き出されること

 これまで仏教→キリスト教→イスラム教→ラーマクリシュナ(ヒンズー教?)と通ってきて、それぞれの聖典を読んできましたが、どういうわけかある時点から神に(仏に)聖典を封印されてしまい、ここ15年か20年ほど一度も聖典を開けなくなりました。今も左の本棚にあるのにね。 そうすると、当然聖典の文言はどんどん忘れていってしまい、残ったことはと言えばたった二つのことだけ。 1. 神(仏)は私たちを愛している 2. 神(仏)は唯一全知全能である そして、この二つの定理から導き出されることは 「すべての人は救われる」 人は衆生と言うべきかもしれません。つまりはすべての命。 当然の帰結です。1+1=2 と言ってるのと同じくらい自明の理です。私たちが神(仏)から愛されており、その神(仏)が全知全能なら、救われるに決まってるじゃないですか。 これが言いたくて僕はここにいるんですけど、こんなことを言ったのは僕が最初じゃありません。親鸞も言ってるし、日蓮もしぶしぶ認めたし、キリスト教でもオリゲネスが言っていたし(異端扱いされちゃったらしいけど)、アウグスティヌスも否定はしなかったし(認めたわけではないけどね)、そしてマホメットからは「お前それ、あまり言わない方がいいぞ(みな安心しきってしまうからな)」って口止めされた気がしますけど。 だいたい、法華経で不軽菩薩がさんざん言いふらしていたことなんですね。 「わたしはあなた方を軽んじたりは致しません。あなた方はみんな仏になるでしょう」 すべての人を軽んじないから「不軽菩薩」という名が付いたんですが、これって 「すべての人は救われる」 って言い続けてるのと同じでしょ。 この菩薩、ちょっと面白いので僕は大好きなのですが、話が長くなりそうなのでこれは次回にします。 愛と慈悲の導くままに

宗教の二つの定理

 すべての聖典を要約すると 1. 神は(仏は)わたしたちすべてを愛してくださっている 2. わたしたちすべてを愛してくださっているその神(仏)は唯一全知全能である の二つの定理に集約されると思うのです。 まずはその1ですが、もし神様が(仏さまが)わたしたちを愛してくださらなければ、わたしたちはもう一巻の終わりです。絶望です。いくら神が全知全能であろうと、その神がわたしたちを愛していないのなら、わたしたちにとって神は何の意味もありません。神が私たちを愛してくださるからこそ、わたしたちにとって神は意味があるのです。 次にその2ですが、いくら神がわたしたちを愛してくれても、全知全能でなければこれまた意味がありません。神が全知全能でなければ、「こいつだけは神でも救えない」という事態が想定されます。そして「こいつだけは無理」という例外規定は常に拡大解釈されて、神の愛は骨抜きにされ、「こいつも、こいつも救えない」となり、ついには「みんな救われない」となる。 「こいつだけは救えない」 という時、その「こいつ」に自分が含まれる。「こいつ」とは自分のことである。 阿弥陀仏が菩薩のとき「すべての衆生が救われるまで自分は仏にならない」と誓ったのは、そういうことでしょう。 自分たちだけが救われて天国に行き、他の者たちが裁かれて地獄に落ちるのを良しとするのは、 「俺たちだけがリッチになりさえすれば、他の奴らが貧乏になろうとわしゃ知らん」 と言うのとどこが違う? 「俺たちファースト」ですか。 そりゃみんな自分がかわいいですが、それを堂々と公言するのって憚られませんか?じゃあ自分は他者に対して何をしたって言われれば大したことは何もしてないのですが、だからといって、開き直って自分ファーストを正当化しようとまではさすがに思いません。 なんか話がそれましたが、神が全知全能でなければ、愛があっても困ります。そして、神が全知全能なら、わたしたちひとりひとりを救うことももちろん可能なわけです。 「救えるのに救わない」 そんなわけないじゃん。 地獄に落ちるべき衆生を救うのが神の役目でしょう。 「そんなことお前に言われなくてもわかっておるわい」 そうでした。頼りにしておりますぞ、神様、ほとけさま。 なんか今日は変な終わり方になってしもうた。 愛と慈悲の導くままに