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生贄について

 前回生贄として初子を神に差し出すことを命じた厳しい神の掟について考えたのですが、そこから「生贄」について考えたことを書こうと思います。 宗教では「生贄」を神にささげる儀式がありますよね。それを聞くたびに 「あの慈悲深い神様が、そんなことお求めになるかな?」 っていつも疑問に思ってたんですけど、聖書である人物が初子を神に差し出そうとしたその瞬間に "Stop!!" と神がお止めになったシーンを思い出して、 「ああ、やっぱり神は慈悲深かった」 と安堵しました。本当は生贄なんて欲してないんですよ、神は。 神は、人間を試そうとして、人が一番大切なものを自分に差し出せと命じているのですが、そもそも、この世のあらゆるものは、神のものなのです。存在そのものが神から来るのですから、あらゆるものは存在と同時に神に捧げられているのです。だから、何を今更神に捧げるというのか。 とはいっても、神に感謝するときに、手ぶらでは格好がつかない、というのがわれわれ凡人の考え。だから、何か自分にとって大切なものを「生贄」として捧げないと落ち着かないのです。 でも、本当は神様はそれはそれは慈悲深いお方なので、動物であれ人間であれ、すべての命の幸せを日夜考えておられます。その大切な命を殺して、血を流して、神に捧げるなんて・・・ "Stop!!" 当然、その瞬間、その直前に、神の制止の叫びが聞こえるはずです。もし、聞こえなければ、それは神を本当には信じてないのです。愛そのものであり、慈悲そのものであるところの神を、信じてないのです。信仰心が足りないのです。 神の愛を信じてないんですね。 だから、もう生贄の儀式はいらないですね。その代わり 「私たちを含め、この世のすべては最初からあなたに捧げられています。だから御心のままにお命じ下さい」 と唱えればいい。 愛と慈悲の導くままに

初子を差し出すことについて

 さて、15年以上一度も聖書を開かずに、というか開けずに、どうやってキリスト教について語るのか、そんな無茶苦茶なことできるわけない、と思いつつ、書こうとしている自分ですが、何から書こうかな。 もうどんどん忘れてしまって、愛しか残ってない、とは言うものの、聖書の神って厳しかったんじゃなかっけ?特に旧約聖書。うーん、確かにそんな気がするけど、でもやっぱり愛しか残ってないんですよねえ。言ってみれば、神の厳しさって、厳父の厳しさで、それは真実の愛に裏打ちされた、愛ゆえの厳しさって感じですかね。子供のころを思い出すと、父って厳しかったよなあ。でも、今から思えば、それがあってこそ今の自分があるっていうか。大人になってから振り返ると、愛ゆえの厳しさだったんだな、と逆に感謝する、みたいな感じでしょうか。 その厳しさも、今となってはだいぶ忘れてしまいましたが、いまだに覚えているのは、初子を神に差し出すってこと。なんて無慈悲なことを神様は要求するのかって、思いましたけど、いざ初子を神に差し出すために殺そうとしたその瞬間、 "Stop!!" 神からストップが掛かった。 そしてその瞬間、僕は慈悲の光を見た。例の白い光ですけどね。 神は人間がどれだけご自分に心を向けているか試みるために、厳しい試練をお与えになったのですが、ちゃんと心を向けたら、慈悲をかけてくださった。そんな場面が聖書にありましたよね。もう誰の初子のシーンだったかすら忘れたのですが、その場面だけ心に焼き付いている。 そして後に残るのは、初子を差し出させる神の厳しさよりも、直前でストップをかけて初子を救って下さった慈悲、すなわち愛の方なんですよね。 神はどうしても人の心をご自分に向けさせたかったんでしょう。それはわたしたちを幸せにするためです。幸せは神から来るのに、神に心を向けないでどうして幸せになれるでしょう。神はどうしてもわたしたちを幸せにしたいんですね。神は幸福そのものなのに、それから目を背けてどうするというのか。 初子を差し出すって、そんな厳しいことを・・・ では神は、ご自分は、どうされたのかというと キリストを差し出された。ご自分の初子を私たちのために差し出された ってことになるのかな。 愛と慈悲の導くままに

最後に愛だけが残った

というわけで親鸞からすんなりキリスト教に行けちゃったのですが、僕は原典主義なので、(仏教のときもそうでしたが)、まずは聖書を読もうと。 でも、キリスト教は便利ですよね。イスラム教もそうだけど、ちゃんと原典が整備されてある。仏教でも仏典結集とかいってブッタの教えをまとめようとする試みはなされたみたいですけど、それなのにあの膨大な量!収拾がつきません。 で、これから聖書を語るのかというと、そんな誰それたことできるはずもなく、今はする気もありません。でも、当時は聖書を読むと途中からどのページを読んでも 「神はお前を救う」 としか読めなくなり、困った。どこを読んでも 「神はお前を救う」 と書いてある。その「お前」とは人類すべてを指しているんですけどね。その人類すべてに中に僕も幸い含まれているはずなので、個人的に聖書に向き合っている時は 「神はお前を救う」 と聞こえるわけです。そしてその時、例の、というか霊の、あの白い光が見えるわけです。恍惚として昇天。法悦の状態。仏典を読んだときに体験した 「仏はお前を救う」 とどこを読んでも書いてあった時と同じ状態ですね。そして白い光が見えるわけですが、それが聖書で見た光と全く同じだったわけです。だから、親鸞からキリスト教に行ったからと言って、「改宗」したわけではなく、仏教徒のままキリスト教徒である、と言って平然としていられる。そしてさらに度が過ぎて、イスラム教徒でありヒンズー教徒(ラーマクリシュナ)である、となってしまうのですが、それはまた後の話。 一時は、白い光が見えた時、いちいちその聖書の言葉を引用してポストしたりしてたのですが、それも今となっては過去の話。もうそれはいいかなと。 だって、今は神様に封印されちゃって開けない。聖書がね。左の手に届くところに"THE STUDY BIBLE"あるにはあるんだけど。 で、ここ15年くらい、聖書も開いてません。当然、どんどん忘れて行ってしまう。そして、最後に残るのは愛だけ。愛だけしか残らない。でも、それだけあれば十分じゃないですか。 愛と慈悲の導くままに

象が針の穴を通る時の温度はどのくらい?

 さて、キリストの言葉通り、金持ちが天国に入るのは象が針の穴を通るより難しいとすると、金持ちのキリスト教徒と少欲知足な仏教徒では、天国に入るのはどっちだ?と思ったのですが、僕が考えた答えは 「どっちも天国に入れる」 です。神は慈悲深いですからね。仏ももちろん慈悲深い。じゃあ、キリストの言葉はどうなるのかというと、それはそのまま真実です。 矛盾してないか? いや、矛盾してません。要は、象が針の穴を通ればいいんですよね。神ならできるんじゃないですか。あの難しいことばかり言って我々を煙に巻いている物理学者の方々によると、この宇宙は原子より小さい点から始まったとか。このとてつもなく広大な宇宙が、原子より小さい点だったとは。ものの本を読んだときは観念的に「ふーん、そうか」と思いましたが、先日多摩川沿いを歩いていて、遠く関東平野を見晴らしながら、この景色が原子より小さい一点に凝縮することを想像すると 「貴様は本官を愚弄する気か!」 怒りが込み上げてきましたね。よくもまあ、学者というのはたわけたことを・・・じゃあ、やってみなさいよ。まずは、宇宙と言わず、ちっぽけな月からでいいから、針の穴くらいに小さくして見せろってんだ。 でも、その物理学者どもはロスアラモスでやってくれましたね。原爆ってやつを。小さな原子にとてつもないエネルギーが内蔵されていることをやってみせた。そしてそいつらが宇宙が原子より小さな一点にもなるって言い張るなら、やっぱりそうなのか?しぶしぶ認めます。 じゃあ、象が針の穴を通ることくらい、朝飯前ですよね。楽勝だよきっと。 でも、象が針の穴くらいに縮まると物質の密度が高くなりますよね。そうなると、分子間の距離が縮まって温度が高くなる。どのくらい?そうだ、われらが頼れる助手のChatGTPに計算してもらおう。以下その回答です。 面白い問いですね!端的に言うと、 ものすごく高温 — およそ10⁹ K(十億ケルビン)オーダー になります。ただしこれは単純化した見積もりで、実際にはその前に物質の性質が根本的に変わる(気体→完全に電離したプラズマ、核反応が起きる、場合によってはブラックホールに近い状態になる等)ので「温度」という概念がそのまま適用できなくなります。以下に計算と仮定を示します。 仮定 象の質量を m = 5000 kg (成年のアフリカゾウ程度)とする...

金持ちのキリスト教徒と少欲知足の仏教徒と、天国に入れるのはどっち?

 そろそろキリスト教に行くと言っておきながら、延び延びになってますが、親鸞はキリスト教へのいい橋渡しになっていました。思えばこれも神のお導きかも。というか仏のお導き? 悪人正機説を唱えたり、「自分は極悪人だ」と弟子に言ったり、親鸞はキリスト教の原罪にあたる観念を仏教の中で唱えていると、今思えば僕は感じるのですが、それを指してかどうかは知りませんが、 「親鸞の教えはキリスト教だ!」 とかいう人もいたようで、そんなタイトルの本もどこかで見た気もします。仏教学者の中にも、親鸞の教えは仏教の中でも特殊だという人もいるみたい。阿弥陀仏が人類の贖罪の意味でキリストに重なって見えるのもしかり。 そのせいか、親鸞を通ってからキリスト教に行くと、その教えが違和感なくストンと落ちる。腑に落ちるのです。なんかどこか聞いたような見たような、デジャブ?既視感ですね。 どっちが上とか言いたいのではないですよ。やたらと共鳴するのです。 で、キリスト教ですが、その聖典の「聖書」。はい、左下前方数十センチのところにありますが、前も言ったように、どういうわけか封印されて開けない! ここ15年くらい開いてないのです。キリスト教に限らずいろんな「聖典」ってやつも。だから、どんどん忘れて行ってしまうのですが、何かの拍子にふと思い出したりする。例えば前回のポストの 「金持ちが天国に入るのは、象が針の穴を通るより難しい」 というキリストの言葉。たぶんこんな感じだったよな。これってストレート過ぎて参っちゃいますよね。ど真ん中170キロの直球って感じ。キリスト教圏の人たちは当然聖書に慣れ親しんでいると思いまけど、どう思ってるんですかね。先進国ってキリスト教圏の国が多いですよね。いわゆる西洋諸国。金持ちばっかりじゃん!ほんとに聖書読んだことあるのかな? 時々疑問に思うんですけど、キリスト教だと、キリスト教徒以外天国に入れないそうですが、 「金持ちのキリスト教徒と少欲知足の仏教徒と、天国に入れるのはどっち?」 この問題の僕なりの答えは次にしようかな。 愛と慈悲の導くままに

いい人ってみんな貧乏なの?

 今頃になってなぜか山崎豊子の「白い巨塔」(医療を題材にした社会派小説)を読んだんですけど、嫁はドラマをずっと観てたそうで、弱者の味方の弁護士が事務所の家賃も払えずに引き払うシーンを思い出して、その貧乏さに笑った後で、ふと 「いい人ってみんな貧乏なの?」 って言ったんですね。そう言えば、白い巨塔に出てくる「いい」医者や医学者はみんな貧乏。その代表格の里見助教授なんか医者なのに狭い団地住まい。それに対して、豪勢な邸宅を構えている医者や教授はみんな俗物で金と名誉の亡者として登場する。 社会派の作家山崎豊子に書かせると、自然とそうなっちゃうみたいですね。彼女は新聞記者出身だから、きっと事実そうなんですよ。 「善人は貧乏。金持ちは悪人」 それにつけても思い出すのはキリストの言った 「金持ちが天国に入るのは、象が針の穴を通るより難しい」 という言葉。これで合ってましたっけ。 社会のリアリティを追求すると、自然とキリストの言うとおりになっちゃう。 仏教だって、富と名声を捨てろって言ってるので、同じか。

仏教の教えは草食動物の教え

 投資って心を持ってかれちゃうんですよね。 そして心が神に(仏に)向かなくなる。 結局、一言で言うとそういうことですね。 やっぱりカネが人類の最大の敵、というか罠だったんだな。 道理でイブリース(悪魔)の必殺技であるわけだ。 さて、投資の話はこの辺にして、親鸞の話をまたしたくなってきたので、続けますが、自分が暴力で攻撃されたらどうするのかという問いに対して、親鸞は 「ひたすら逃げろ」 と説いていたと思います。つまり、 「逃げて、逃げて、逃げまくれ」 ですね。僕も前にそう書いた記憶が。親鸞の影響でしょうか。敵が武力で攻撃してきたらひたすら逃げる。 「三十六計、逃げるし如かず」 これは立派な戦術です。そもそも、仏教って絶対平和主義なんですよ。原始仏典を読んでいると、僧侶が歩くとき、いつも下ばっか向いているんですね。これってなぜかというと、歩くときに小さな虫を踏んで殺さないためです。仏教は殺生を嫌いますから、いつも虫を踏んで殺さないように気を付けて歩いていた。 虫一匹殺せない これが仏教なんですよ。これじゃあ、人を殺せるわけがない。 だから、暴力で攻撃されたら逃げるしかない。これって完全に草食動物の教え、草食動物のストラテジーなんですね。じゃあ、いつも負けてばかりで、最後には滅びるか、というとそうこの世は単純ではない。草食動物がみんな絶滅したかというと、そんなことは全然なく、むしろ真っ先に絶滅するのは捕食者、肉食動物の方なんですよ。ライオンだったり、トラだったり、オオカミだったり。この世は思っているより奥が深いんです。 逃げるが勝ち っていいますが、これって本当かもしれないな。 とはいえ、親鸞から何代か後になると、教団がでかくなりすぎて逃げるに逃げられなくなり、一向一揆とかいって戦国大名を手こずらせたり、すごい時には追い出したりしていますが。家康も信長もさんざん手こずった。 でも、それってやっぱり親鸞の教えとは違うと思うんですね。 まずは逃げて、逃げて、逃げまくって、それでもダメならその時はその時ですよ。その時どうするかは、御仏に聞いてみようと思ってます。 愛と慈悲の導くままに