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一人でも救えたら御の字

 最近は 「一人でも救えたら御の字」 だよなあ、って思うんですよねー。神が、仏が、すべての人を愛するように、自分もそうなりたいとは願うものの、すべての人って一人一人の総和なんですよね。ではまずその第一歩の一人から始めないことには始まらないじゃないですか。 で、その最初の一人って誰? 例の嫁? 「君子の道も夫婦から」って儒教でも説いているように、まずは妻でもいいじゃじゃいですか。 自分の親? 儒教がうるさく「孝」を説くのも、それが究極の親である神に直通するのは前に考えたこと。 で、よく考えてみたら、みんな最初の一歩からコケてない? 今AIに聞いてみたら、アメリカの離婚率は約45%、日本の離婚率は約32%とか。そういう僕だって何度も三下り半を突き付けられて・・・しょっちゅう崖っぷち。親孝行だってちゃんとできているかどうか。自信がない。 一番身近にいる人を愛することすら難しいですよね。そんなことで「すべての人を愛する」なんていつのことになるやら。 このブログだって、せめてたった一人だけでいいから届いたらなあ、と願って書いてるんですけど。アクセス件数見れば現実わかるよなー。 さて、気を取り直して続きを書こう。何の話だっけ?そうそう、まずはすべての道も一歩から、すべての愛も一人からってことでしたね。 それは一人以外は愛さないってことじゃない。一人をちゃんと愛せたら、みんなをもちゃんと愛せるようになれるんじゃないかなと。親をちゃんと愛せたら、神をちゃんと愛せるようにね。 つまり、上ばっか見てないで、ちゃんと足元を見ようと思う今日この頃なのです。 愛と慈悲の導くままに ←

照明さんという仕事

 前回は「スポットライトを浴びないかもしれないけど重要な仕事はいくらでもある」と言いましたが、ふと「照明さん」の仕事を思い出したのでちょっと書いておこうと思います。 「照明さん」って舞台で照明を担当する仕事ですね。まさに「スポットライトが当たる」んじゃなくて「スポットライトを当てる」仕事。 この前、津軽三味線の兄弟とピアノ連弾の兄弟のコラボコンサートに行ったんですけど、ふと「照明、きれいだなあ。いい仕事してるなあ」と思ったんですね。普通観客として照明に目を向けるってあまりないかもしれませんが。僕も少し舞台関係の仕事に携わったことがあるんですけど、舞台って出演者が主役ですが、それを支える人たちとして照明、音響、舞台監督、大道具・小道具、などそれぞれ専門のスタッフがいる。その人たちを全部別々に雇うわけですが、みなさん職人さんなので気難しかったりする。でも、腕はプロフェッショナルなのでその技に対しては敬意を払わざる負えない。どうしても一目置いてしまうんですね。舞台でも照明に助けられたってことも実はよくある。 これは「スポットライトが当たんないかもしれないけどこれがなければ回らない仕事」のほんの一例ですが、世の中には自分の知らない重要な仕事ってのがまだまだ沢山あるんだろうな。 ←   →

嫉妬について(2)

 前回は嫉妬について考えましたが、まだ言い尽くしてないことがあるなあと気付いたのでその続きを書きます。 相手に嫉妬する場合、役割が別々ならば脳の細胞と足の細胞のたとえで行けると思いますが、同じ役割の場合はどうなのか。 つまり、お互いが競争関係にある場合ですね。 そこには一握りの勝者と莫大な数の敗者がいる。 その目指す道が魅力的であればあるほど、死屍累々たる敗者がいるわけです。 しかし、競争によってお互いがしのぎを削り合うわけですから、全体のレベルは必然的に上がりますね。そうするとその座を射止めた勝者のレベルも当然上がる。そしてその勝者が社会で役割を果たすなら、社会の貢献度も当然上がる。 つまり、競争によって人類の全体としてのパフォーマンスは向上するわけです。 そして、その死屍累々たる敗者も、競争を通じて勝者のレベルを間接的に上げているわけですから、人類全体のパフォーマンスの向上に結果的に寄与していることになる。だから、やってきたことは決して無駄ではない。 勝者は敗者を含めたプレーヤー全体を代表してそこにいる。 どうやら、全体のパフォーマンスを高めるための手段として生命は競争というシステムを採用しているみたい。そもそも私たちが生まれるにあたってもそうじゃない?精子が卵子にたどり着く可能性って、何千万から何億分の一ですよ。一回の射精で放出される精子の数がそうだから。競争倍率何千万倍から何億倍。じゃあ、勝った精子くんはスーパーヒーローだな。 ということで、今回はあまり慰めにはならなかったかもしれないけど、夢破れても他者の夢の実現とそのパフォーマンスの向上、ひいては人類全体のパフォーマンスの向上に地味に貢献してたのも事実なのでした。 でも、できれば勝者になりたかったなあ。そりゃーね。 で、死屍累々たる敗者はどうすればいいのか? 潔く別の道を歩もう! ズコッ!夢をあきらめないで、とでも言うと思った? しょうがないじゃん。いつまでも引きずっててもさ。実は 「大きな命」 のなかの小さな細胞として、果たすべき任務はいくらでもある。人の細胞の数って37兆個ですよ。そしてそのひとつひとつが全部果たすべき役割を持って任務を果たしている。だったら人類全体でも数十億しかいないんだから、いくらでも仕事はあるはずだよな。一見地味でスポットライトは浴びないかもしれないけど、実はとても重要で...

嫉妬について

 嫉妬って誰にでもあると思うんですけど、人が誰かに嫉妬しているのを聞かされるのって本当にきつくないですか。 そういう僕だって嫉妬の感情はあるんですけど、ああ、今自分は誰かさんに嫉妬してるなって気付いた時の感じの悪さっていったら 「オレって最低。愛を語る資格なし」 他人の成功を素直に喜べないって、どんだけ器小さいんだよ そして誰かさんが他人に嫉妬してるのを聞かされる時のあの感じの悪さっていったらもう、 つらいというか、悲しいというか、せつないというか、いたたまれないというか、やるせないというか、救いがないというか とにかく悲しくて悲しくてしょうがない感じ。 人間だれしも嫉妬の感情はあるとは思いますが、それをなるべく人には言わない方がいいですよ。周囲にいる人たち全員が絶望しそうになるから。ものすごい負の波動が半径数百メートルに最速で伝わっていく感じ。 で、この嫉妬ってやつ、どこから来るかっていうと、他人と自分を比較することから来るんですね。相手と比べて自分が下と思えば嫉妬する。ってことは相手と比べて自分が上と思えば軽蔑するってことじゃん。どっちにしてもイヤなヤツじゃね?自分もそうか。 常に他者との相対的基準でしか自分の価値を測れないんでしょうね。その相対的価値基準から抜け出るために宗教がある。宗教って絶対的価値基準を持ってるから。 さて、前にも 「大きな命」 で書きましたが、わたしたちはみんなでひとつの「大きな命」を生きてると思うんですね。そしてわたしたちひとりひとりはその「大きな命」の細胞みたいなものかなって僕はイメージしてるんです。そしてひとつひとつの細胞にはそれぞれ役割がある。脳の細胞だったり、足の細胞だったり。だとしたら、足の細胞が脳の細胞に嫉妬したり、脳の細胞が足の細胞を軽蔑したりしたらどうでしょう?お互いに足を引っ張り合ったら全体としての体が調子悪くなっちゃうよね。脳だけあっても足がなきゃ動けないじゃん。頭で考えたことを実行できません。また足だけあっても脳がなきゃそもそもどこに歩いていくか決めらんないじゃん。どっちも必要なんですよ。結局、嫉妬と軽蔑は全体としての機能を損ない、それは個々にもダメージとなって跳ね返ってくる。 他者と自己がお互いに依存しあっており、その運命、その幸福も不幸も、お互いに避けがたく結びついている、ということが見えてない。 宗教...

儒教の教えも愛がすべて

  前々回のポスト で、儒教の教えは忠恕のみだという論語の言葉にふれて、その忠恕とは愛ではないかと僕は書いたのですが、それに伊藤仁斎は答えてくれました。 「仁は、徳のうちでも偉大なものである。しかしこれを一語によっていいつくそうとすれば、愛そのものだ。」 「愛から発するときは、本物であるが、愛から発しない時は、いつわりのものに過ぎない。だから君子(徳のある人)は慈愛の心をもっとも大切にし、残忍酷薄の心をいちばん悲しんだ。」 「慈愛の心があらゆるものにまじりあってゆきわたり、残忍で薄情な心が少しもない、これこそ仁と言うのである。」 「ほんのわずかの時間にもあり、眠っているあいだもはたらき、心に常に愛があり、愛が心に満ち、心と愛が完全に一つとなっている、これこそ仁である。だから徳というものは、人を愛するのがいちばん大切であり、人の心をそこなうより不善なことはないのだ。」 「仁は究極のところ愛につきる」 以上、仁斎の言葉です。 これで儒教の教えは愛がすべてであるということがはっきりしました。 キリスト教も愛がすべてだったよな。 儒教の伝統ある中国とキリスト教が根強いアメリカが今覇権争いとかしてますけど、きっと分かり合えますよ。人々の心の中にある愛があふれ出して、世界を覆いつくすようになれば。 愛と慈悲の導くままに ←   →

愛の道を実践してみた

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 人を愛するのが道なのはわかりました。 では早速実践してみよう。 ということで、真っ先に視界に入った人はというと・・・ いました!例の嫁です。 いいじゃないですか、嫁だって!立派に人であることには変わりありません。しかも、もとはと言えば何の血のつながりもない赤の他人だったのですから、人は人。 この嫁、結構難敵なんですよねえ。すぐ怒る。 「ママってさあ、細かいことでヒステリー起こしてすぐキレるよねー。典型的な地雷女じゃん!ママみたいな女、絶対彼女にしたくない!パパがかわいそうだよ」 こないだ息子が言ってくれました。さすがに嫁はショックを受けたみたいで口をあんぐり開けてしばし茫然自失。 「よく言ってくれた、息子よ。」 僕は隣でバンバン机をたたいて大笑い。思いっきり留飲を下げることができました。 この女性、ちょっと独特な言語を操ります。何かの記念日近くになると、光り物をさして 「これ、買ってくれてもいいよ」 何か言葉遣いおかしくない? この前もアメーバブログかなんか知らないけど一杯チェックしていて気に入ったお店とかを見つけると僕に見せつけてきて 「一緒に行ってあげる」 はあ?こっちからまだ誘ってもないんですけど。普通の人間の言葉とは別系統の言語体系が存在するらしい。ツンデレ語?ツンデレ構文? そんな彼女のお気に入りの女性、というかロールモデルは 「マリーアントワネット!」 まあヅカファン(タカラヅカファン)でもあるしね。じゃあ、理想の男性はルイ16世?そういう僕は仏を信じる自称「足るを知る男」ですけど。贅沢は敵・・・に近い。 マチアプだったら絶対にマッチングしないよね。じゃあ何で結婚してんの?僕もわかんない。でも、「足るを知る」を説く僕のおかげで、我が家のマリーアントワネット様は断頭台の露と消えずに済んでるんですよ。夫婦で二人合わせるとプラスマイナスがちょうど相殺されて「中庸」となる。ほんとか?たぶん。 愛の道を実践して人を幸福にするという使命を実行しようとしたんですけど、いきなり強敵が現れましたねー。ほとんど Mission Impossible! 早速挫折か?ハードル高すぎ。とにかく「一緒に行ってあげる」という店に行ってみた。 じゃーん! ここは隣駅にある、とあるハワイアンカフェ。一押しのパンケーキ1690円! 中央にそそり立つのは須弥山ですか?ホイップクリー...

論語に慈悲の光を見た!

 また見てしまいました。慈悲の光を。 と言いたいところですが、本当のところ、今回は見ていません。でも実質同じ感じなんですよね。以前は本当に見えたのですが。今回はちょっと違う。なんかじわっと来る感じ。誰かが 「火の信心ではダメだ。水の信心でないと」 と言ってましたが、その水のようにじわって来る感じ。それ言ってたの、誰だっけ?えーと、思い出した、 ”山本伸一” さて、昔の優男(在原業平)のように 「思ひ余りて言葉足らず」 になってしまいそうですが、自分の拙い文章力ではしょうがない。きっと伝わらないのを承知で書いています。 「夫子の道は忠恕のみ」(論語) 伊藤仁斎の注「自分のすべてをつくすのを忠といい、他人をおしはかることを恕という。自分の心を出しつくすと、他人と自分の区別がなくなる。他人の心をおしはかると、かゆみもいたさもすべてわが身にひとしとこたえる。(弟子の)曽子は忠恕の二字で夫子(孔子)の道を言い尽くせると考えた。」 聖典を引用しないと前に言っておきながら、自ら誓いを破ってしまいました。儒教は宗教?論語は聖典?だからいっか。 相手を自分のように思うことを愛と言い、慈悲と言う。忠恕が愛でなくてなんでしょう。忠恕が慈悲でなくてなんでしょう。 もうこれを聞けたら 「朝(あした)に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」(これも論語) って感じ。でも、夕べに死んだら全然可じゃないでしょ。せっかく道を聞いたんだから、その道をどこまでも歩いていきたいよね。だから簡単に死ぬわけには行かないんですよ。ということで、今年は定期健診で 「がん検診も受けるぞ!」 で、「大腸がん検査を受ける」に〇したら、嫁が 「トイレが汚れるからやめて!」 どうやら、嫁は僕の命よりトイレが汚れることの方が心配みたい。いや、ぜったい受けるぞ!大腸がんだけでなく、胃がんと肺がん検診も。 今、日本の名著シリーズで中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行と来て伊藤仁斎の「論語古義」にいるんですが、上記のところから一歩も前に進めない。それにしても儒学者ばかりだな。江戸時代(17世紀~19世紀)の名著モノって儒学者しかおらんのか? 蓋しマホメットが 「神はそれぞれの民族に一人ずつ預言者を遣わした」 と言ってたのは本当だったんだな。中国でも2600年も前にちゃんと愛を説いている。愛ていうか慈悲ていうか仁ていうか忠恕。あなたとわ...