慈悲の祈りⅠ リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 6月 09, 2025 神が、仏が、どんなにわたしたちを愛してくださっているかを思う時、自然と感謝の念が湧いてきて、神を、仏を、賛美する歌を歌いたくなります。ということで、即興で歌った讃美歌です。ただ、僕はプロの歌手ではないので、それをそのままお聴かせするのも憚られますので、ジュリアード出のバイオリニストに弾いてもらいました。愛と慈悲の導くままに← → リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
宗教の二つの定理から導き出されること 8月 18, 2025 これまで仏教→キリスト教→イスラム教→ラーマクリシュナ(ヒンズー教?)と通ってきて、それぞれの聖典を読んできましたが、どういうわけかある時点から神に(仏に)聖典を封印されてしまい、ここ15年か20年ほど一度も聖典を開けなくなりました。今も左の本棚にあるのにね。 そうすると、当然聖典の文言はどんどん忘れていってしまい、残ったことはと言えばたった二つのことだけ。 1. 神(仏)は私たちを愛している 2. 神(仏)は唯一全知全能である そして、この二つの定理から導き出されることは 「すべての人は救われる」 人は衆生と言うべきかもしれません。つまりはすべての命。 当然の帰結です。1+1=2 と言ってるのと同じくらい自明の理です。私たちが神(仏)から愛されており、その神(仏)が全知全能なら、救われるに決まってるじゃないですか。 これが言いたくて僕はここにいるんですけど、こんなことを言ったのは僕が最初じゃありません。親鸞も言ってるし、日蓮もしぶしぶ認めたし、キリスト教でもオリゲネスが言っていたし(異端扱いされちゃったらしいけど)、アウグスティヌスも否定はしなかったし(認めたわけではないけどね)、そしてマホメットからは「お前それ、あまり言わない方がいいぞ(みな安心しきってしまうからな)」って口止めされた気がしますけど。 だいたい、法華経で不軽菩薩がさんざん言いふらしていたことなんですね。 「わたしはあなた方を軽んじたりは致しません。あなた方はみんな仏になるでしょう」 すべての人を軽んじないから「不軽菩薩」という名が付いたんですが、これって 「すべての人は救われる」 って言い続けてるのと同じでしょ。 この菩薩、ちょっと面白いので僕は大好きなのですが、話が長くなりそうなのでこれは次回にします。 愛と慈悲の導くままに ← → 続きを読む
聖典を封印されてしまった 8月 06, 2025 次にキリスト教に行くと言っておきながらなんですが、その前に断っておくことがありました。 このサイトの聖典とか聖人からの言葉の引用って適当ですよね。ちゃんと、どの聖典のどの章にある、とか言って正確に出典を明示していない。「確か、こんな風に言ってたと思ます」みたいな書き方で済ませてしまっている。 これからもこのスタイルで行くつもりです。 これについては最初の方のポストで書いたと思いますが、「もう聖典のどこそこの語句を引用して説くスタイルはやめようと思う」からです。正確に出典を明示しながら聖句を引用して説くスタイル、実は20年以上前にもう散々やったのです。つまりは、聖典を見ると、慈悲の光がみえて、愛の光が見えてしょうがなくなって、その個所に付箋を貼っていたら1ページに何枚も付箋を貼ってしまい、嫁にも「バカじゃない」と言われる始末。そこをいちいちブログに書いたりしていた時期もあった。 だから、今でも手を伸ばせば届くところに聖典はあるのです。聖書、仏典、コーラン、ハディース、それにラーマクリシュナの福音。また聖人の書いた著作も結構あったのですが、実は思うところあって宗教関係の本はほとんど神田の宗教書を専門に扱う古本屋に送ってしまった。仏典は膨大ですから、今は主要なものしか手元には残ってません。大乗の涅槃経とか華厳経とか、取っとけばよかったな、とちょっと後悔しているものもある。仏教では仏典以外でどうしても捨てられなかったのは親鸞と日蓮の著作集が1冊ずつ。お互い隣同士で仲良く並んでいます。キリスト教関係ではアウグスティヌスやルターの著作も手放してしまい、残っているのは「聖フランシスコの小さき花」だけ。これだけはどうしても捨てられませんでした。前にキリスト教ならルター一択だとかいいながら、「聖フランシスコの小さき花」なんですよねえ。なんでだよ。 それでも、基本聖典はさすがに手放すには忍びなく、まだ残っているので、開いて調べれば出典を明示することはできるのです。 じゃあ、なぜそれをやらない? なんか封印されちゃってる感じなんですよね。神様に。仏さまに。 お前はもう読むなって。書物から顔を上げろって言われてる感じ。 だから、ここ20年ほど、一度も聖典開いてないです、ずっと。「ネトゲ廃人」になっていたせいもあるのですが。でも、このブログ、というか日記を書きだしてからも開いてない... 続きを読む
救いを信じるということ 8月 24, 2025 「すべての人は救われる」すなわち「自分も最後は救われる」ことを知って何になるのか、っつう話ですが、これを知るのと知らないのとでは大違いだと思いますよ。 確かに世の中には一見不条理なことも多く、「神様(仏様)何やってんだ」と思う時もありますが、でも最後には救われるんだな、そしてこの不条理なことの落とし前はいずれ全部神様が付けてくださるんだな、と思えば救いはありますよ。 いったいどんな落とし前を付けてくださるのか、あの世からとくと拝見、と今から僕は楽しみなんですが、それでもなぜか神様(仏様)への信頼は揺らぎませんね。 ほとんど病気かもしれない。メンヘラですかね? で、「すべての人は救われる」すなわち「自分も最後は救われる」っつうことは「あなたも最後は救われる」と知れば、どうなるかというと、 カネ、カネ言わなくなる 自分を他人と比べて嫉妬しなくなる だって最後には救われるんですから、そんなに欲張らばなくてもいいじゃないか。 もう一ついいことは、自分は他人からどう見られているだろうか、という他人からの視線に加えて、神は(仏は)自分をどう思われるだろうか、という神の視点、仏の視点が加わります。そして、この神からどう見えるか、仏からどう見えるか、の視点が加われば、他人の視線なんてどうでもよくなります。もういちいち他人の評価を基準にしない。とはいえ、まったく他人からの評価が気にならなくなるのは無理ですが、それより神が自分をどう思われるか、仏が自分をどう思われるか、の方が大事。では、やたらとストイックになるかというと、そんな必要もない。なにせ「すべての人をお救いになる」ほどのお方ですから、優しいんのなんのって、たいていのことは目をつぶって赦してくださいます。見逃してくださいます。 この優しさ、仏典でも聖書でもコーランでもそしてもちろんラーマクリシュナの福音でも、そしていろんな聖人たちからも、耳にタコができるくらい聞かされました。多くの人は一神教の神は厳しく裁くお方だとお思いかもしれませんが、僕が見た光は真逆を示していました。 ではそろそろ次(キリスト教)に行けるかな。 愛と慈悲の導くままに ← → 続きを読む
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