交換価値

 こう見ていくと、現在人類全体としては「衣食住」に関しては需要を満たすだけの生産能力はありますね。それどころか生産過剰で供給過剰になっているくらい。不足と思われるところの一方には過剰があり、問題は量ではなく分配にある。

科学技術が発達するにつれて生産能力は上がりますから、この状態はもっと前から存在していたと思われます。そこで

「もうおなかいっぱいです」

といって満たされてしまったら、つまり「足るを知ってしまったら」、資本主義の目指す利潤と投資のサイクルが止まってしまいます。人間を満足させてしまったら、お金が増えない。これは支配者であるわれらが主、「お金陛下」にとってははなはだ都合がよくない。何としても欲望を掻き立てなければ。ということで考え出されたのが

「交換価値」

というやつ。衣食住など実際に使用するためのものに与えられる使用価値に対して、実際には使用価値のないものに無理やり価値を「でっちあげて」付けるわけです。たとえば宝石。宝石なんか人間の生存のためには何にも役に立たない。食べられないし使えない。それでも

「キラキラしてるから」

という理由だけでものすごく高い値段を付け、価値があるように見せかける。そうすると

「高いから」

という理由だけでわたしたちはそれに「価値がある」と錯覚して飛びついてしまう。新たな価値の創造です。というかでっちあげ。これが「交換価値」の正体ではないですか。

まともな「使用価値」の場合、食べれるから、使えるから、人間の生存に役に立つから、「価値がある」のです。そして価値があるから「高い」のです。ところが交換価値の場合、「高い」から「価値がある」。つまり価値が逆立ちしてしまっている。その典型がお金で、例えば1万円札にしても、あれはただの紙切れであり、そのままでは何の価値もない。それに無理やり「1万円」と書いて「1万円の価値がありますよ」って強引に主張する。そうすると発行元の政府が信用されている限りは「ああそうか」っていって通用するわけです。本当はでっちあげなんですけど。その原理の最たるものが「仮想通貨」ではないですか。何の価値もないモノ、というかモノすらない架空の通貨概念に創造者が「価値がありますよ」というか「後から価値が上がりますよ」つまり「後で値上がりしますよ」と何の根拠もなく強引に主張することで「へえ、そうなの」って感じで信じる者が増え、その結果見かけの「価値」が「創造」されてしまう。まさに無からの価値創造。まあ、でっちあげですね。いったん信用が崩れたら大暴落するのは必至ですけど。

そんなことより、もっと昔からある交換価値は、高級品とかブランドってやつ。例えばバッグ。物を入れて持ち運ぶという使用価値としてみれば、5円のレジ袋も高級ブランドのバッグも同じわけです。むしろレジ袋のほうが軽くてたくさん入る。でも、その高級ブランドバッグとやらに何万円とか何十万円とか、ついには何百万円とかいう値段(えっ?何千万円まであるの?)を付ける。とにかく高ければ高いほどいい。そうすると

「高いから」

という理由で価値が出ちゃう。価値があるから高いのではなく、高いから価値がある。自分はこんなに高いものを所有できるんだぞということを周りの人々に誇示する働きを持つ。経済力の誇示としての交換価値。ステイタスシンボルですね。

時計もそう。時計なんかスマホについてるし、駅にもどこにでもあるから要らないのに、何万円、何十万円、ついには何百万円とかいう値段(えっ?何千万円もあるの?もしかして何億円も?)を付ける。一応時計は道具だから使用価値もまだあるみたい。100メートル防水とかいって。でもつけている本人は一度も海に潜ったことがない。時計の時間は超正確無比。でもつけている本人はよく時間に遅れてくる。

さらには不動産。住むだけの使用価値ならちょっと田舎でも十分なのに、「一等地」ってやつは「高い」。そして「値上がりする(らしい)」からそれだけで価値がある。べつに住むつもりもないのに、「高い」から買う。そしてみんな買うから「値上がりする」。そしてますます「高く」なる。だからみんなもっと買う。もっと値上がりする。でも、土地って人間がこの世に生まれる前から、何百万年も、何千万年も、何億年も前からあったんだよ。人間が創り出したものじゃない。まさに無からの価値創造。というか価値妄想。

ところで不動産の価値妄想は困りますね。本当に住む必要がある人々が家賃が高すぎたり、買うにも一生住宅ローンで首が回らなくなって、住みにくくなる。というかもう住めない。不動産バブルは人間の幸福を阻害するのは明らかなので、土地の所有に何らかの規制を加える必要はある。本当は土地の私有は禁ずべきだと思うんですよね。前にも言ったように僕は資本主義より社会主義のほうが100倍マシだと思っているので。

で、住むところは「高級住宅街」でなければならない。そうでないと「経済力の誇示」にはならないから。

まだまだあります。例えば車。公道では高速道路でもせいぜい120キロまでしか出せないのに、300キロまで出せる車とか作って、高級車として売る。やはり値段は高くなければいけない。そうでないと「経済力の誇示」にはならない。

食べるものも「高級食材」でなければならない。もちろん外食の際は「高級レストラン(または料亭か寿司屋)」でなければならない。そして値段は高ければ高いほどいい。そうでないとSNSに上げてもうらやましがられない。(前にも言ったように本当は大切な命を頂いているんだから全部「貴食」なんだけどね)

まとめると、われらが主「お金陛下」は人間に満足されては困るので、むりやり差異を作り出して「交換価値」というものをおつくりになった。実際は何の価値もないものに値段をつけ(そしてその値段は高ければ高いほどいい)、「経済力の誇示」の手段を提供することで人々の欲望と虚栄心をかきたて、資本主義の利潤と投資のサイクルを永遠に続けさせ、自らをお増やしになろうとしたのです。

ああ、アホらし


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