キリストは性欲がない

 キリストの教えでとりわけ厳しいのは”姦淫”についてでしょうか。確か聖書では、女性を見て情欲を催しただけで姦淫とされ、目をえぐり取れと。その方が天国に行けないよりはましだ、と説いてたような。女性というか他人の妻だったかな。

これは厳しいですね。というかほとんど無理。この教えを聞いて「キリスト教は無理だ」と尻込みする人は多いと思います。僕にも、その部分を指摘して「ちょっとキリスト教は無理だ」と言った友人がいましたね。

他人の妻に情欲を催して、それに任せて行為に及んでいい、とか言っているのではありません。そんなことをすれば家庭が崩壊し、社会が収拾がつかなくなります。僕が言いたいのは、たとえ女性を見て情欲が生起したとしても、それを理性と意志の力で抑制して行為にはつなげないことは可能だ、ということです。しかし、異性を見て情欲が生起すること自体を否定するとなると・・・

これは人間の生理として無理かな。理性や意志の力が弱いから、ではないと思います。人間も動物ですから性欲と言う本能があり、異性に対して条件反射的に情欲が生起する回路ができてしまっていると思います。つまり、視界から入った異性の情報が、理性が認識し判断する回路に入る前に、性欲をつかさどる脳の部位に入り、そこで情欲を生起させてしまう。生物が進化させたのは理性より本能の方が先でしょうから、そちらの方が古くて強く、情報も先にそちらに入るのではと。実際、科学的に、または医学的にどうなんだ、ということは調べればわかると思います。

また、キリストが言ったのは他人の妻に対してであって、女性一般ではない、と言うかもしれませんが、初対面で知らない女性に会って、その女性が美しくて情欲が生起したとして、それがたまたま既婚者だった、ということもありえます。つまり、キリストが説いているのは性欲そのものの否定ですね。

「それはあなたが性欲を持たない神の子だから言えるのであって、わたしたちはそうではありません」

そう言いたくなります。キリストは性欲がない。それはキリストの誕生からそうあってしかるべきかと。だって

「処女懐妊」

性欲がその誕生に介在していない。どおりで性欲がないわけだ、キリストは。それに対して私たち人間は性欲が原動力になって生まれてきたのですから、性欲の申し子ですね。そう言えば、聖書ではキリストについての浮ついた話はまったくありませんよね。キリストが誰かに恋したとか。そんな話は片鱗もない。

性欲がないお方から見ると、私たち人間は淫らな存在で救いようがないですね。だからといって、目をえぐり取れば性欲がなくなるわけでもない。これは困ったぞ、となるわけですが、それについてはイスラム教でちゃんと解決策が啓示されていました。

さすがはマホメットで、彼は預言者とはいえ、どこまでも私たちと同じ人間という位置付けですから、わたしたち人間が性欲から逃れられない存在であることを重々承知で(というより、神がご承知で)、それを前提に、「こうしろ」と言ってるんですね。

それについてはまた次回にしましょう。

今日はこの辺で。

愛と慈悲の導くままに


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