「見ただけで姦淫」に対するイスラムの対処法

 キリストのような性欲のないお方から見れば、わたしたちは異性を見ただけでも情欲を生起する可能性があるわけですから、見ただけで”姦淫”とされてしまいます。それはちょっと厳しすぎるな、という風に思ってしまったのですが、じゃあ、イスラム教ではどう対処しているかというと、


「女は外ではヴェールを被れ」


となります。確かに、対処療法としてはそうなるか。男は美しい女を見ただけで性欲が本能的に生起してしまう弱い存在であることを認めた上で、じゃあどうすればいいか、となるとそうするしかないか・・・


わかりやすいですね。ヴェールを被ってしまえば見えませんもんね。男にとっては女を見る目をえぐり取られたのと同じ効果か。

単純明快すぎて反論もできませんが、それでは恋もできないじゃないか・・・

キリストは性欲を否定しましたが、マホメットは恋を否定したんでしょうか。

うーん。聖書にはキリストが恋をしたなんて事実はどこからも推測できませんが、マホメットはどうかというを

「神の使徒は恋をした」

とちゃんとハディースに書いてあります。だいたい、マホメットには複数の妻がいたわけですから、当然ですね。その部分、今僕は聖典を封印されているので詳しい個所は忘れましたが、マホメットがすでに複数の妻を持っていて、戦いか何かの後で処女でない美しい女性を見た時のことだったと思います。もちろん、その後彼女は新たな妻とされたんじゃなかったかな。

それにしても、宗教的指導者が「恋をした」と堂々と公言されているのは、仏教では親鸞、キリスト教ではルターぐらいじゃないですか。親鸞もルターもこれまでのしきたりを破って妻帯を決行した聖職者ですが、マホメットははじめから聖典に「恋をした」と記されている。

いいじゃないですか。それでこそ「人間」です。そして、イスラムではあくまでもマホメットは「人間」であり、神格化されていない。イスラムではどんなに偉い聖職者であれ、人間を神格化することを拒みます。そして僕もそれに激しく同意。

そんな「人間」マホメットは、男が美しい女を見て恋してしまうことを、身をもって知っていたのでしょう。だから、マホメットが恋を否定しているとは思えない。コーランでも始めから「女はヴェールを被れ」とは説いてない。でも、情欲を野放しにすると、家庭が崩壊し、社会が混乱する。やはり何らかのブレーキは必要だ。となったのでしょうか。

でも、ヴェールを被ったら、恋ができなじゃないか。家の中で家族の前ではヴェールを脱いでもいいとすると、イスラムでは恋をしてから結婚するのではなく、結婚してから恋をするのかな。なんだか順序が逆なような・・・よくわかりません。

で、その「恋」ですが、その原動力に性欲があるのは確かですが、情欲をただ美化した言葉ではないと思います。美化じゃなくて「昇華」。そうでなければ、神が「結婚」を神聖なものとして祝福されるはずがないでしょう。

そしてその「恋」ってやつは、どうやら人間だけがするものではないみたい。自然界を見れば見るほど、あらゆる生き物が「恋」をしてるんじゃないか、と僕には思えて仕方がない。それについては是非とも書きたいのですが、長くなりそうなのでまた次回にします。


愛と慈悲の導くままに

 

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