金持ちのキリスト教徒と少欲知足の仏教徒と、天国に入れるのはどっち?
そろそろキリスト教に行くと言っておきながら、延び延びになってますが、親鸞はキリスト教へのいい橋渡しになっていました。思えばこれも神のお導きかも。というか仏のお導き?
悪人正機説を唱えたり、「自分は極悪人だ」と弟子に言ったり、親鸞はキリスト教の原罪にあたる観念を仏教の中で唱えていると、今思えば僕は感じるのですが、それを指してかどうかは知りませんが、
「親鸞の教えはキリスト教だ!」
とかいう人もいたようで、そんなタイトルの本もどこかで見た気もします。仏教学者の中にも、親鸞の教えは仏教の中でも特殊だという人もいるみたい。阿弥陀仏が人類の贖罪の意味でキリストに重なって見えるのもしかり。
そのせいか、親鸞を通ってからキリスト教に行くと、その教えが違和感なくストンと落ちる。腑に落ちるのです。なんかどこか聞いたような見たような、デジャブ?既視感ですね。
どっちが上とか言いたいのではないですよ。やたらと共鳴するのです。
で、キリスト教ですが、その聖典の「聖書」。はい、左下前方数十センチのところにありますが、前も言ったように、どういうわけか封印されて開けない!
ここ15年くらい開いてないのです。キリスト教に限らずいろんな「聖典」ってやつも。だから、どんどん忘れて行ってしまうのですが、何かの拍子にふと思い出したりする。例えば前回のポストの
「金持ちが天国に入るのは、象が針の穴を通るより難しい」
というキリストの言葉。たぶんこんな感じだったよな。これってストレート過ぎて参っちゃいますよね。ど真ん中170キロの直球って感じ。キリスト教圏の人たちは当然聖書に慣れ親しんでいると思いまけど、どう思ってるんですかね。先進国ってキリスト教圏の国が多いですよね。いわゆる西洋諸国。金持ちばっかりじゃん!ほんとに聖書読んだことあるのかな?
時々疑問に思うんですけど、キリスト教だと、キリスト教徒以外天国に入れないそうですが、
「金持ちのキリスト教徒と少欲知足の仏教徒と、天国に入れるのはどっち?」
この問題の僕なりの答えは次にしようかな。
愛と慈悲の導くままに
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