投稿

7月, 2025の投稿を表示しています

すべての人は救われるのか~ラーマクリシュナ編~

 すべての人は救われるのか? 最後はラーマクリシュナ(たぶんヒンズー教?)に聞いてみましょう。 と言っておきながら、ラーマクリシュナに直接聞くの、忘れました。 仏教→キリスト教→イスラム教と来て最後にラーマクリシュナにたどり着いたころには、もうそんなの聞くまでもないことのように思われたのです。 最後は”愛の洪水” 「宇宙は神の子宮の中にある」 そう言っていたと思います。わたしたちは皆神の子宮の中にいるのですから、わたしたちが救われないなどということがあるでしょうか。考えられません。 わたしたちは皆神の愛の羊水の中にいるのです。 もうこの辺でいいかな。 「すべての人は救われる」などと言ってしまったら、ビジネスとしての宗教にとっては商売あがったりです。「あなたはこのままでは救われない」というからこそ、「ではどうすれば救われるのですか」と不安にさせて、そこですかざず「悪霊を払う」とかなんとか言って「お布施を要求」つまりは 「金を出せ」 と言って、無垢な人々からカネを巻き上げようとするのがビジネス宗教の手口です。 だから、僕がここでひたすらに「すべての人は救われる」と言うからには、ビジネスとしては成り立ちませんね。べつにいいです、それで。自分が生活していく分くらい、他の仕事で稼げますから。 ただし、最後には救われるかもしれないけど、今すぐかどうかはわからないな。だからといって、「今すぐ救われたければ金を出せ」などと言ってビジネスにしようなんて真似はしませんからご安心ください。 最後にはすべての人が救われるのだが、一旦は地獄を見るかもしれない。 実は僕はそう思っています。そして、その「地獄を見る」ことも、神の御計らいなのかなとも思っています。なぜ、地獄を見なければならないのか。それについては、次回考えたいと思います。 愛と慈悲の導くままに

すべての人は救われるのか~イスラム教編~

 イスラム教はすべての人を救うのか? マホメットに聞いてみたのですが、僕が 「アッラーはすべての人を救うはずです」 と言ったところ 「お前、それあまり言わない方がいいぞ。皆安心しきってしまうからな」 と言われました。 これはハディースの中で、預言者が、神がいかに慈悲深いお方であるかを、お気に入りの若い男に秘密裏に明かした後で言った言葉です。この 「お前、それあまり言わない方がいいぞ。皆安心しきってしまうからな」 という言葉は正確には「アッラーはすべての人を救う」という言葉に対する言葉ではなかったかもしれませんが、僕にはそう読めてしまいました。これまでもそうでしたが、僕は聖典をまったく個人的体験として、”体験的に”読んでしまっているので、教学的にはアウトでしょうが、”愛と慈悲の導くままに”進めば、そう読まざるを得なかったのです。 だいたい、あの偉大なる慈悲深きアッラーが、凡夫一人救えなくてどうしましょう。もし、どうしても、信じなければ救われないと言うなら、信じさせればいいだけの話です。あの偉大なる慈悲深きアッラーが、凡夫の心一つ変えられずにどうしましょう。今信じない人がいるのは、神が彼らを「かたくなにさせている」だけのことで、神がその気になったらすべての人に信仰心という恩寵を賜ることなどたやすいこと。現代においてわたしたちの多くが無信仰であるのも何かお考えがあってのことで、一時的なものに過ぎません。 僕にはアッラーが、「救う力があるのに救わない」などということがあるとは到底思われないのです。 「その気になれば救えるのに救わない」 あの慈悲深いアッラー(神)に限ってそんなことがあろうはずがない。思えば、ハディースやコーランの中に言葉を探すまでもなく、自明なことのように思われます。 ということで、イスラム教もすべての人を救うはずだ、と僕は思うわけです。 愛と慈悲の導くままに

すべての人は救われるのか~キリスト教編~

 すべての人は救われるのか? 今度はキリスト教に聞いてみましょう。 キリストは人類の贖罪のためにこの世に来たのですから、これですべての人が救われなかったら、十字架は何だったのか。また、「汝の敵を愛せ」と教えながら、自分の最大の敵である「信じない者」を愛さなかったら、そして救わなかったら、あの教えは何だったのか、と僕は思うのですが、キリスト教の教義としてはどうなのでしょうか。 キリスト教の聖職者の中にも、神の救いを異邦人(信じない人)にまで広げる人オリゲネスのような人はいたようです。オリゲネスは悪魔も最後には救われると説いたと今ChatGPTに聞いたら書いてあったので、イブリース(イスラム教の悪魔)も救われると僕が言ったのと似てるかな。でも、その考えは異端扱いのようですね。 そこでキリスト教最大の教父アウグスティヌスに聞いてみたのですが、彼は有名な著作の中で ”神の救いを異邦人(信じない人)にまで広げようとする人々もいるようだが、かれらがどうしてもそこまで言うなら、わたしは止めない” という趣旨のことを言っていたと思います。これは微妙な答えですね。「そこまでいうなら私は止めない」とは。教会としては「すべての人が救われる」といってしまったら 「それを言っちゃあおしまいよ」 って感じで、ぶっちゃけ過ぎだということなのでしょう。でも、完全に否定することもできなかったのです。親鸞は認めましたし、日蓮も最後にはしぶしぶ「すべての人が救われる」ことを認めましたが、アウグスティヌスは狡猾に逃げを打ってきました。でも、本当はわかってたんだと思いますよ。すべての人が救われるってことを。僕にはそう思えるのです。仏教に限らず、キリスト教やイスラム教やヒンズー教にしろ、すべての偉大なる聖人の方々は、神が、仏が、最後にはすべての人を救って下さるってことを。でも、それを言ってしまったら、「みな安心しきってしまって」、かえって私たちのために良くないから、あえて言わないのです。 ということで、僕が言う「すべての人が救われる」という主張はキリスト教では表向きは異端扱いですが、本当のところ、奥義のところではさあどうですかね。 ああ、ルターに聞くの忘れてました。でも次はイスラム教に聞いてみます。 愛と慈悲の導くままに

「すべての人は救われるのか」~日蓮の答えはいかに

 僕の勝手な基準ですが、宗教が本物か偽物か迷ったときは、 「信じない人も救うのか」 すなわち 「すべての人を救うのか」 と聞いて、"Yes"ならば本物、"No"ならばニセモノとします。あくまでも僕の勝手な基準です。 親鸞は"Yes"でしたね。では日蓮は? 僕:「仏は信じない人も救いますか」 日蓮:「述べられない」 僕:「もう一度聞きます、仏はすべての人を救いますか」 日蓮:「述べられない」 僕:「それでは法の出し惜しみになるのではないですか。最後にもう一度聞きます。仏は信じない人も救いますか。仏はすべての人を救いますか」 日蓮:「では試みに述べよう。仏は正法誹謗の者をも救うのである」 ありがとうございました。つまり、日蓮の答えは"Yes"でしたね。この瞬間、僕は 「日蓮に慈悲の光を見た!」 これは、実際は日蓮の有名な著作のなかでのある僧とのやりとりを僕の個人的体験として読み替えたものです。「ああ、あの部分を言っているんだな」と思い当たる方もいらっしゃるかと思います。 日蓮がすべての人を救うのかと問われて2回逡巡して、3回目に仏の慈悲の奥義を明かしてくださったところは感動的でもありました。ブッダが悟りを得た時、修行者に法を説いてくれと言われて2回は断り、3回目にようやく法を説くことを承知したこととも重なりますね。 日蓮はとても厳しい人のイメージがありますので、表の顔では甘いことはいわない。「信じない人も救う」と仏の本心を明かしてしまうと、わたしたち凡夫は愚かですから「じゃあ何やってもいいんだな」となって悪行に走ってしまい、不幸になってしまう。悪は一旦は得のようで後で大きく損をするように出来ていますから、悪行は必ず不幸を呼び寄せる定めなのですが、私たち凡夫には目先の利益に目がくらんでそれがわからない。だから、「すべての人を救う」なんて甘いことは言いたくないのです。でも、仏の本懐を問い詰められると、本当のことを言わざるを得ない。仏教では、本当の教えを秘伝などと言って他者に出し惜しみして教えないことは、あってはならないこととされています。 親鸞はとてもやさしいお方なので”慈母”のようなイメージですね。それに対して日蓮はとても厳しいお方なので”厳父”のようなイメージかな。あくまでも僕の勝手なイメー...

本物と偽物の宗教の見分け方

 すべての宗教は同じゴールに至る様々な道のようなもであるとは言っても、宗教の仮面をかぶったインチキなものも多いので、本物と偽物の見分ける方法が必要ですね。 僕は本物かどうか迷ったときは必ず 「その神は、または仏は、またはご本尊は、信じない者も救いますか」 と問うことにしています。これは嫌な質問、というか意地悪な質問、というか悪魔の問いだなと自分でも思うのですが、つまりは究極のところを試しているわけです。 要するに 「すべての人を救うのか」 と聞いているわけです。 さて、まずは仏教から、親鸞、というか浄土真宗ですが、答えは "YES!" です。試みに僕の理解している範囲でその概要を説いてみます。 阿弥陀仏はすべての衆生が仏になるまで自分は仏にならないと誓いました。もうこれだけで、すべての人を、信じない者も含めて救うということが宣言されているわけですが、ここで少し問題が・・・ 「但し、五逆十悪をば除く」 とか 「但し、正法誹謗の者をば除く」 とか、但し書きが付いている。この例外規定、悪い役人が法律を骨抜きにするためによくやる常套手段で、これがあるために阿弥陀仏の無限の慈悲が骨抜きにされてしまう。 この「例外条項」を入れたのは、最初は親切心から、親心から入れたのかもしれません。つまり、「すべての人を救う」と言ってしまったら、わたしたちは安心しきってしまい、甘えて 「じゃあ何でもやっていいのか」 となって、悪に落ちる馬鹿者が続出するのを心配してのことでしょう。しかし、なんでもやっていいからと言って悪を行うのは、結局我と我が身に仇をなすようなもの。悪とは最初に甘い汁を吸わせていい思いをさせて、後でそれ以上の苦しみを与えるものであり、結局割に合わない、損なものなのです。だから、どうせ救われるから何でもやっていいんだなと言って、悪行を重ねるのは愚かなことです。損だからです。 それでも、この例外規定というやつは、一旦入れてしまうと、無慈悲なニセ宗教者によって際限なく拡大解釈されてしまい、とうとうニセ宗教者を信じなければ 「誰も救われない」 ということにまで至ってしまう。法律の例外規定の恣意的拡大解釈、これまた悪い役人、悪い権力者がよくやる常套手段なのであります。 それで、親鸞の解釈はというと、この例外規定、もともとは無かったものが後で誰かが余計なお節介をして付け...

聖典とは人類へのラブレター

イメージ
 仏典を読んでいると、ほとけに口説かれているように感じる。 あまりにもしつこいので 「もうわかったよ。しつこいなあ。信じればいいんでしょ、信じれば。しょうがないから信じてあげます」 まるであのうるさいどっかの新興宗教の勧誘みたいですね。普通はこちらが必死に努力して、必死に修行して、やっとほとけが応えてくれる、ほとけが振り向いてくれる、神が振り向いてくれる、となるのでしょうが、どういうわけか僕の場合はその関係が逆転してしまっている。仏の方が必死になって、向こうからやってくる。ほとけが必死になって、なんとか衆生を振り向かせようとしている。 仏典とは仏が衆生に送った、渾身のラブレターなのです。 聖典とは神が人類に送った、渾身のラブレターなのです。 仏典とは、聖典とは、ほとけが、神が、どんなにわたしたちを愛しているかを必死になって伝えようとしている、人類に向けての愛の告白、愛のメッセージ、渾身のラブレターなのです。 仏典しかり、聖書しかり、コーランしかり、ハディースしかり、ラーマクリシュナの福音しかり、です。 僕にはあらゆる聖典すべてがそう読めてしまうわけですが、努力も修行もせずにほとけから、神から口説いてくるなんてずるい、とお思いかもしれません。でも、そのとき僕は、一心不乱に、無我夢中で、仏典に没頭してたので、周りから 「猛勉強している」 という風に言われたことがあります。そのときは 「猛勉強?」 とすごい違和感を感じたのですが、どうやらその人にはそう見えていたらしい。でも、勉強とか、努力とか、苦行とか、とはちょっと違うかな。それより大切なのは 「集中力」 だと思います。きっと集中力が高まってある閾値を超えると、トランス状態に入れる。いわば三昧に入れる。そのとき、ほとけが振り向いてくれる、神が振り向いてくれる、すなわち自分の言葉で言うと、 「慈悲の光を見た!」 「愛の光を見た!」 となります。そして、トランス状態に入るのに、禅宗では座禅によって集中力を高めて三昧に入ったり、イスラムの神秘主義ではクルクル踊ってトランス状態に入ったりするようですが、僕の場合、聖典を読んで集中するだけでそこに入れたようです。でも、この体験はどこまで行っても主観的なものなので、他者から「それは違う」といわれても、こちらとしては反論のしようがありません。 ということで、言葉では反論できませ...