「すべての人は救われるのか」~日蓮の答えはいかに

 僕の勝手な基準ですが、宗教が本物か偽物か迷ったときは、

「信じない人も救うのか」

すなわち

「すべての人を救うのか」

と聞いて、"Yes"ならば本物、"No"ならばニセモノとします。あくまでも僕の勝手な基準です。

親鸞は"Yes"でしたね。では日蓮は?

僕:「仏は信じない人も救いますか」

日蓮:「述べられない」

僕:「もう一度聞きます、仏はすべての人を救いますか」

日蓮:「述べられない」

僕:「それでは法の出し惜しみになるのではないですか。最後にもう一度聞きます。仏は信じない人も救いますか。仏はすべての人を救いますか」

日蓮:「では試みに述べよう。仏は正法誹謗の者をも救うのである」

ありがとうございました。つまり、日蓮の答えは"Yes"でしたね。この瞬間、僕は

「日蓮に慈悲の光を見た!」

これは、実際は日蓮の有名な著作のなかでのある僧とのやりとりを僕の個人的体験として読み替えたものです。「ああ、あの部分を言っているんだな」と思い当たる方もいらっしゃるかと思います。

日蓮がすべての人を救うのかと問われて2回逡巡して、3回目に仏の慈悲の奥義を明かしてくださったところは感動的でもありました。ブッダが悟りを得た時、修行者に法を説いてくれと言われて2回は断り、3回目にようやく法を説くことを承知したこととも重なりますね。

日蓮はとても厳しい人のイメージがありますので、表の顔では甘いことはいわない。「信じない人も救う」と仏の本心を明かしてしまうと、わたしたち凡夫は愚かですから「じゃあ何やってもいいんだな」となって悪行に走ってしまい、不幸になってしまう。悪は一旦は得のようで後で大きく損をするように出来ていますから、悪行は必ず不幸を呼び寄せる定めなのですが、私たち凡夫には目先の利益に目がくらんでそれがわからない。だから、「すべての人を救う」なんて甘いことは言いたくないのです。でも、仏の本懐を問い詰められると、本当のことを言わざるを得ない。仏教では、本当の教えを秘伝などと言って他者に出し惜しみして教えないことは、あってはならないこととされています。

親鸞はとてもやさしいお方なので”慈母”のようなイメージですね。それに対して日蓮はとても厳しいお方なので”厳父”のようなイメージかな。あくまでも僕の勝手なイメージですが。

”慈母”にしろ”厳父”にしろ、どちらもわたしたち衆生のことを思いやってなんとか救おうと思ってのことなのです。そして、最後にはすべての人を救う。

どちらも「すべての人を救う」と言っているのですから、浄土真宗だとか日蓮宗だとか仏教内での宗派争いはもういいんじゃないかと僕は思うのですが、実際にそちらの僧侶の方にしたら、自らの宗派の存在基盤にかかわることでしょうから、そういうわけにもいかないかもしれませんね。

じゃあ、僕はどっちなんだと言われたら、それも困るのです。このあとキリスト教、イスラム教、ラーマクリシュナ(ヒンズー教)と通っていくわけですから、そもそも今は仏教徒かどうかもわからない。ただし、僕は最初に救われたのが親鸞ですから、師弟不二と言うなら親鸞かな。でも日蓮にも先の問答において「折伏された。」でも、折伏されたから親鸞やめて日蓮にします、という風には僕はなぜかならんのです。表は親鸞で、隠れ日蓮、ってとこですかね。これってダメですかね。ダメですよねー。

でもこれで行くしかないんですよ、僕は。そして、この後もこの調子で行くつもりです。次はキリスト教ですね。はい、またあの質問をしてみようっと。それはまた次回。

愛と慈悲の導くままに

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