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愛と慈悲は同じなのか(すなわち神と仏は同じなのか)

 愛と慈悲は同じなのか 前回、愛は相手のことが好きで好きでしょうがなくて、相手の幸せを自分の幸せのように感じ、相手の悲しみを自分の悲しみのように感じることから、他者と自分が一つになることを指向すると考えたのですが、慈悲はどうなのか。 慈悲の「慈」とは相手を慈しみ、相手に喜びを与えたいという思いと行いであり、「悲」とは相手の悲しみを抜きたいという思いと行いを指します。すなわち、相手の喜びは自分の喜びであり、相手の悲しみは自分の悲しみだということですね。それはやっぱり 他者と自己が一つになることを指向する キリスト教の説く愛と、仏教の説く慈悲は、目指すところは一つ わたしたちが一つになること 神とか仏とか、愛とか慈悲とか、言葉ってめんどくさいなあっていつも思っていました。それについては最初の方のポストで書きましたが、私たちはいつまでもあれとこれとは違うとかこっちとあっちは違うとかいってお互いに否定しあって、死ぬまでそれを続ける。そして、世代が変わっても、何世代も、何世代も、何十年、何百年、何千年、何万年、何億年と、永遠にその調子でいく。 その時、神は、仏は、もうどっちでもいいけど、それをご覧になっている。 ああ、イスラム忘れてた。コーランでは「愛」という言葉はあまり見かけませんが、「慈悲」とか「慈愛」はよく聞きますね。慈愛?慈悲と愛のミックスじゃん! ラーマクリシュナは「愛の洪水」でしたけど。 キリスト教が 「神は愛です」 と説き、仏教が 「仏は慈悲です」 と説くとき、愛=慈悲なら、神=仏ですね。A=B, C=D でB=DならA=C  Q.E.D. ってやつ。 なんか大雑把ですけど 愛と慈悲の導くままに ←   →

愛は新たな創造の原動力

 英語では日本語の「愛」と「恋」が同じ"LOVE"という言葉で表されていたということで、前回から色々考えていたのですが、そもそも愛ってなんだろう? というかLOVEって何なの? 愛するってことは相手が好きで好きでしょうがないってことでしょう。それが異性であれば恋となるだけで、好きな対象が同性であっても、友人、親、兄弟、息子、娘、そのほか様々な人間、そして人間以外でも、はたまたモノであっても、そして神であってもいいわけです。 その時、相手の喜びは自分の喜びのように感じ、相手の悲しみは自分の悲しみのように感じ、あなたの幸せは私の幸せ、あなたの不幸は自分の不幸となる。あなたとわたしは一つ。 あなたは私の一部であり、わたしはあなたの一部。あなたとわたしは離れられない。運命の絆によって一つに結び付けられていて、永遠に一つ。 自分と対象が不可分であり、一つであることを指向すること その象徴となる一番わかりやすい例が恋だから、英語では愛と恋は同じLOVEで済まされているんですかね。恋では実際に物理的(肉体的)にも一つになりたいと思う力が働くわけですが、そこから新たな命が生み出されるというのは、愛のもう一つの作用として極めて象徴的であり示唆に富んでいる。 私たちが信仰において神を愛するという時、神と一つになりたいんですよ。だから詩編でも神に恋するような詩を読んでしまうわけだし、シスターになることを「キリストの花嫁になる」とか言ったりするわけです。神を愛するって神に恋することなのかな。だからやっぱり両方"LOVE"でいいわけだ。 そして、神と一つになれたら、どうなるのかな。恍惚の中、天国に行って、それで終わり? 本当の恋の場合、新たな命が生まれるよね。 じゃあ、神と一つになったら、何か生まれるはず。新たな命として、私たちが再生されるんじゃないですかね。 神じゃなくても、わたしたちが何かを愛するとき、そしてその対象もこちらを愛してくれたら、つまりは愛が成就したら、何か新しい、そして素晴らしいものが生まれるんですよ。 あなたとわたしがひとつになったら、それで終わりじゃない。そこから新たな、もっと素晴らしいものが生まれ、新たな始まりとなる。そして、命を持った新たな始まりは独立した存在となって成長し、時が来ればふたたび、これら無数の新たな存在が、お互い...

もう完全に愛の虜(=神の虜)

 恋にうつつを抜かしてる場合ではない、ということで前2回は真面目なことを言いましたが、まだ恋の話にはまだ続きが。これを書かなければ愛について語れない。 ここでの愛とはキリスト教が説く愛のことなのですが、 恋とは全然違うじゃん! 確かに。僕もそう思っていたのですが。このブログはまず日本語で書いてから、AI(Google翻訳)を使って英語にもしてるんですが、これまでのポストの英訳を読んでみると、日本語の「恋」も「愛」も両方  "LOVE" と訳されていました。 英語で日本語の「恋」にあたる言葉はないんかい! 恋と愛は同じかい! 英和辞典を引いても"love"は愛と恋と両方の意味がありますね。日本語でも「愛」と言えば、「恋」に関係する部分がどうしても共鳴してしま。ならば、英語圏の人々が"love"という時はなおさら「愛」と「恋」が共鳴しちゃってるんじゃないですか。だって同じ単語じゃん。 それを嫌ってか、神学的にはアガペーとかいって、"love"じゃない単語を作り出したのでしょうか。でも、アガペーってなんかとっつきにくいよね。神学的響きがするし、難しそう。なんだよアガペーって。やっぱ愛でしょ。LOVEじゃなきゃダメなのよ、って思ってるのは僕だけかな。 仏教だと、 「仏は慈悲です」 となる。これはこれでいいんですけど、キリスト教だと 「神は愛です」 これを聞いただけで、ス・テ・キ・💖💖💖となってしまう。愛と聞くと、どうしても心の中のエモーショナルな部分、あの甘美な恋の部分が共鳴してしまい、 💖💖💘 となる。なんかずるくない、キリスト教。息子といい、愛といい、反則でしょ。といいながら、僕は 以前のポスト で「ほとけに口説かれた」とか書いてますから、仏教でも同じ道を辿れるのかもしれませんが、キリスト教の方が速攻💖💖💖となる。効果は最速、即効。 特に僕のように惚れっぽい人間は「愛」って言葉に弱いんですよね。 「愛、愛、愛、それは愛・・・(永遠につづく)」 ああ、タカラヅカの世界かよ。 もう完全に愛の虜です(すなわち神の虜です。だって神=愛なんだから) 愛と慈悲の導くままに ←   →

宗教は人類の生存のための最適解

 前回「善なる大義のために悪を用いてはならない」と言いましたが、生存が脅かされるような危機的場合はどうなのでしょう。 「ひとたび生存となると、すべてが許される」 生存が掛かった生きるか死ぬかの究極的状況では、道徳、法律、善悪の概念などすべてが無効となってしまう。  戦争で街が包囲され、食糧が尽きると人間は共食いを始めます。そしてまずは子供から食われてしまう。そんな恐ろしいことが・・・と思うでしょうが、中国の歴史ではよくあったようですし、20世紀においても、山崎豊子の小説「大地の子」で国共内戦で中国共産軍に包囲され、飢餓に陥った国民党側の都市での住民同士の「共食い」現象が描かれてます。少年だった主人公も「食糧」として狙われ、食われそうになったところ、包囲が一部解け、危うく虎口(人口?)を脱したシーンが描かれています。人間、飢餓状態になると他人が食糧に見えてくるらしい。第2次世界大戦でも食糧の尽きた軍隊で敵などの人間を喰う「共食い」は行われていたらしい。 仏教ではそれを「餓鬼道に堕ちる」と言う。文字通り、餓えて鬼となって人を喰らう。実際、この世でも現出した世界だった。 生存の危機にさらされると、善悪なんて吹っ飛んでしまいます。でもそれは仕方ないですね。自分はそうならないと思っている人は、そういう状況に陥ったことがないから言えることであって、単に今まで運が良かっただけかもしれない。運悪く、餓鬼道に堕とされたら、餓鬼となって人を喰っているかもしれない。 神はわたしたちに命を下さった。命は一番大切なものですね。命を頂いた者は、命を落とさないのが至上命令。だから生存のためならすべてが許される。 それは宗教の説く教えは矛盾しないのか。宗教は平和を説き、慈悲を説き、愛を説き、しかし、わたしたちは命をつなぐという至上命題のためにはどんなことでもする。 矛盾しないと思います。なぜなら、神の教えは、仏の教えは 「われわれ人類の生存のため」の最適解 だからです。安易に「生きるためには何でも許される」からといって自分の利益のことだけを考えてすべての人類が行動したら、たちまち右も左も戦争状態。そして、その戦争が「餓鬼道」を現出する。宗教が慈悲を説き、愛を説き、平和を説くのは、「生きるためには人を喰う」世界を作り出さないためです。 また、戦争でなくても、極度な貧困によって生活できなくなり...