善なる大義のために悪を用いてはならない
いつまでも恋にうつつを抜かしてないで、少しは真面目な話もしようと思います。それは
「善なる大義のために悪を用いてはならない」
ということです。
よく、「大義のためには少しの悪も手段としては許される」と言う人がいますが、それは違います。もしそれを認めてしまえば、暴力と欺瞞、そしてテロをも認めることになるからです。
「善という大義を実現したいんだけど、私をもってしても力が足りないんだよね。だから君、ちょっとテロを起こしてくれないか」
などと神が言うと思いますか。それでは神が力不足ってことじゃないですか。全然全知全能じゃない。
結局、大義のために悪を用いることを許容する人は神を信頼してないんですね。神が全知全能であることを信じてない。つまり神を信じてない。信仰心が足りないんですよ。神を信じず、己の力を信じてるんです。
じゃあ、善なる大義のために、一見悪を手段として選ばざるを得ないような困難な事態に直面したらどうするか。その時は
「私は善なる大義のために困難に直面していますが、悪を手段として用いることはしません。善なる手段で最善を尽くし、後は神の御心にお任せします。」
と言うのです。つまり、
「善なる手段を尽くしたら、後は神様、あなたの責任ですよ。」
と言うえばいい。そうしたら神は
「よくやった。後は私に任せなさい。私が始末をつける」
と言って下さるはずです。少なくとも僕はそう思っている。そう開き直っている。神を本当に信じているからです。慈悲深く愛であるところの全知全能の神が、わたしたちに、たとえ善なる大義のためであれ、悪の手段をそそのかすなどあろうはずがない。
どんな困難に直面しても、
「わたしは善なる手段でもってやるべきことはやりました。後は頼んだぞ」
と神にゆだねる。神の神慮は測りがたく、すぐには大義が実現できないように見える時もあるでしょうが、それはわたしたちが短いスパンでしか物事を測れないからであって、神はわたしたちには測りがたいほど大きなスケールでお考えかもしれません。だから、「すべての人は救われる」と僕が信じているとしても、今すぐじゃないかも、とも思っている。でも、最後は必ずやってくれるんですよ、神が(仏でもいいけど)。だから神を信じて、仏を信じて
「善なる大義のために悪を用いてはならない」
愛と慈悲の導くままに
コメント
コメントを投稿