キリスト教の反則ワザ

 旧約聖書では次々と預言者が遣わされますよね。そのたびに人間は預言者の言うことを聞かず、いつも

「神に背いた」

神様も忍耐強く、背いても背いてもまた新たな預言者を遣わし下さるのだけれど、どうして私たちは神の愛が分からないらしく、神さまも困って

「これでもわからないのか!」

って言って遣わされたのがキリスト。ご自分の最愛の一人子です。ご自分の息子を犠牲にすることで私たちの罪を浄められた。神は人間に初子を差し出すことを命じられましたが、ご自分も最愛の一人子である息子を人類の生贄に差し出されたのです。

これを聞いた時は、

「やられた!」

と思いましたね。その時は親鸞の弟子、というか仏教徒の視点で聞いたのですが。相手に慈悲を示すのに、最大のものは自分を相手に差し出すことだと思ってたんですよね。ブッダも飢えた虎に自分を食わせる話が出てきますけど。

自分の命を相手にくれてやることが最高の愛のカタチ

だと思ってたんですけど、もっと上があった。

「自分の息子を差し出すこと」

親ならね、子供のためなら自分の命を差し出してもいいって思ってるんですよ。僕も親ですからね。中にはそうじゃない親もいるかもしれませんけど、そう思ってる親もきっと多いはず。分かるよね。

だから、キリスト教がキリストを十字架にかけて息子を差し出したって説いた時には、仏教徒の僕からしたら

「一本取られた!」

って感じなんですよね。ずるいぞ、キリスト教。それ反則ワザ。

神がどれほどわたしたち人類を愛せてくださっているかというと、人類を救うためなら自分のたった一人の息子を犠牲にしてもいい、というくらい。

もちろん、慈悲の光、すなわち愛の光、例の白い光が見えまくりですね。まぶしすぎて目を開けていられないくらい。

だから僕は仏教からキリスト教に改宗した、とかいうんじゃないですよ。ますます同じ光源から出ている慈悲の光、愛の光が強まったという感じ。

でも、息子と来たか。そう来たか。そう来る?9回裏に逆転満塁ホームラン打たれた感じなんですけど。

いやー、まいった。参りました。

そういうわけで、キリスト教は救いの説得力という点では一番かな、と思うわけです。

愛が強い。愛が強すぎる。

今日はこの辺でいいだろう

愛と慈悲の導くままに



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